第百二話
新しい庵は、まるで別の季節に紛れ込んだようだった。
外に出れば、空気はやわらかく、湿り気を帯びている。雪の気配などどこにもなく、代わりに濃い緑の匂いが肺に満ちた。
つい先日まで冬支度に追われていたとは思えない。
その落差に、ミアは少しだけ現実感を失いながら――
「……あつい」
ぽつりと呟いた。
もこもこのロンパースは、もはや拷問に近い。
お気に入りではあるが、今の気候ではただの熱源でしかない。
「そりゃそうだ」
老師が呆れたように鼻を鳴らす。
すでに庵の中には、冬物が山のように積まれていた。つい先日まで必需品だったそれらが、今や完全に“場違い”な存在になっている。
「去年の服は……」
引き出しを漁りながら、ひとつ取り出す。
小さなワンピース。
だが――
「……入らねぇな、こればっかりはしょうがねぇ」
あっさりと断言した。
ミアの肩に当ててみるが、明らかに丈が足りない。
成長している証ではある。
それでも、少しだけ名残惜しさが残る。
「順調に育ってるってことだ」
そう言いながら、老師は別の服を取り出した。
薄手の麻のワンピース。
風を通す、軽やかな生地。
それをミアにあてがう。
「これならまあ、しばらくは持つだろ」
「うん……すずしい」
ミアはぱたぱたと裾を揺らしながら、少しだけ嬉しそうに頷いた。
だが、それで解決する量ではない。
必要なのは、明らかに“新調”だ。
老師は振り返る。
「夏服を仕入れよう」
視線の先には――すでに状況を察している商人。
ニチカが、にこやかに立っていた。
「ニチカ、数日中に手に入れてくれると助かる」
その頼み方は、ほとんど指名に近い。
ニチカは即座に胸に手を当てて、大袈裟に一礼した。
「かしこまり〜」
軽い口調。
だがその目は、すでに計算を始めている。
どこで仕入れるか、どの品質を揃えるか、どこまで利を乗せるか。
瞬時に組み上がっていく。
「ついでにじいさんにも、拠点移したこと伝えてくるよ」
さらりと付け加える。
それは単なる報告ではない。
“動かす”という意味を含んでいる。
物流も、人も。
この場所を新たな拠点として成立させるための一手。
老師は軽く顎を引いた。
「頼む」
短い承認。
それだけで十分だった。
ニチカは懐から一枚のスクロールを取り出す。
移動用の魔法具。
本来ならば貴重品であり、使い所を選ぶもの。
だが――躊躇いは一切ない。
「じゃあ、行ってくる」
軽く手を振りながら、そのまま、ためらいなく破り捨てた。
ぱり、と乾いた音。
次の瞬間、空間が歪む。
光が一瞬だけ弾けて――
ニチカの姿は、跡形もなく消えた。
静寂が戻る。
ミアはその消えた場所を、しばらく見つめていた。
「……すごいね」
ぽつりと呟く。
あの軽さで、あれだけのことをやってのける。
ただの商人ではない。
ナギが肩をすくめる。
「まあな。あいつはああいうやつだ」
少しだけ苦笑を混ぜながら。
庵の中には、再び日常の気配が戻り始める。
衣替え。
新しい土地。そして、新しい準備。
けれどその裏で、見えないところでは確実に――何かが、大きく動き出していた。




