第9話 差出人不明の手紙
あの外出のあと、サミュエルは体調を崩して熱を出した。
昏睡状態から目覚めたばかり。モニカはひどく心を乱した。
ベッドのそばで過剰に心配しながら付き添うこと二日。彼の体調は思いのほかあっさりと持ち直した。
『まだ出歩くなと言っていたのに』
エバンスは、そう言いながら苦笑した。
その翌日、ほぼ一年ぶりにサミュエル、メリッサ、モニカ三人揃っての晩餐をとることになった。
ろうそくの灯った燭台の向こうから、メリッサがじっとこちらを見ている。
「やっと見られる姿になったわね」
モニカは淡いブルーのイブニングドレスを着ていた。今日、ウォルターのメゾンから届いた三着のうちの一つだ。
「正直、何とかならないかとずっと思っていたのよ。別居していると言っても、あなたはレイクフォード公爵夫人なんですからね。相応しい装いをしないと」
モニカは義母に小さく相槌を打った。
「あ⋯⋯」
メリッサが大きく口を開けて、隣のサミュエルを横目で見ている。彼と目が合うと、気まずそうに視線を泳がせた。
「ど、どこで作らせたの」
「ウォルターの店です。テイラー通りの。一年いなかった間にテイラー通りもだいぶ変わって──」
「ちょっと!」
メリッサに小声でたしなめられた。
モニカは眉をひそめた。もう別居のことを伏せる必要は無いのに。
「サミュエル、お義母様に話していないの?」
彼は記憶を取り戻したことを言っていないようだ。風邪だったから、仕方がない。
サミュエルはナイフとフォークを皿にそっと置き、目を閉じてすっと息を吸い込んだ。
「母上、別居はもう終わりました。モニカはまたここで一緒に暮らします」
モニカはガタッと音をたてて椅子から立ち上がった。
サミュエルはあれからずっと離婚の話は持ち出さなかった。
やり直す、つもりなのだろうか。
息を止めて、サミュエルと目を合わせた。
サミュエルは少しだけ神経質な顔をしながら、深く、ゆっくりとうなずいた。
「君の新しい侍女は決まってる。エイミーだ。……それでいいかい?」
モニカは口を覆いながら、激しく何度もうなずいた。
視界に映るダイニングルームがまぶしくぼやけた。彼以外の全てが消えて、夢の中にいるような気がした。
サミュエルが柔らかく微笑んだ。
「今度、一緒にボートンに行こう。改めて、君のお父さんに挨拶がしたいんだ」
モニカは、急に現実に引き戻された気がした。
「ねえ、なんなの?」
メリッサの声にモニカはあわてて椅子に座りなおした。
「あ、あの、お義母様。サミュエルが記憶を取り戻したんです」
メリッサはハッと目を見開いて、素早くサミュエルの方に体を向けた。
「すっかり思い出したの!?」
「ええ」
「いつ!」
「……四日前です」
「四日前!?……何なのもう!早く言ってくれればいいのに……あなたって人は!」
メリッサはサミュエルの肩を手で突きながら、かすれた笑い声をあげた。
「まあ、そう……。エバンスにも伝えないとね」
メリッサは明るい表情でため息をもらした。
「何か思い出すきっかけでもあったの?」
サミュエルが、モニカの唇を見つめた。すぐに目をそらした。わずかに頬が赤らんでいる。
モニカは首をかしげて、何となく自分の唇を触った。
執事が手紙を寝室に持ってきた。
トレイに綺麗に重ねられた十通ほどの封筒。一番上の封筒は救貧施設からだった。おそらく寄付の依頼だろう。
心苦しいが、今はとても寄付なんてできない。
モニカはデスクにトレイを置いて座り、軽く全部の差出人を確認して四通を抜き取った。
ダミアンからの封筒には、手紙は無く小切手だけが入っていた。今月の報酬は、働いていない分、いつもの半分ほどだった。
クリストファーとサラからも手紙が届いていた。
"こちらは心配するな"
クリストファーからの手紙にはそう書かれていた。
一方で、サラからの手紙には、
"お金が足りなくなりそうなの"
不安そうに書かれている。
モニカはデスクに顔を伏せた。
とりあえず、サラに生活費を送らないといけないわ……
彼女の手紙の中に紛れ込んでいた、サミュエル宛の白い封筒。差出人の名前は書かれていない。
それを持ってサミュエルの寝室を訪ねた。従者が彼のタイを結んでいる所だった。
モニカは部屋のすみの椅子に座り、頬杖をつきながらサミュエルの身支度を眺めた。
ウエストコート姿のサミュエル。結婚当初より胸に厚みが増して、逞しくなった気がする。
知らぬうちに彼の体は大人の男性のものへと変わっているようだ。
小首を傾けてしげしげと見ていると、横を向いたサミュエルの頬が、まんざらでもなさそうにきゅっと押し上がった。
モニカは咳払いをして顔をそらした。ひたすら胸元を擦って、ドクドクと高鳴る心臓をなだめた。
彼はこれから、どうするつもりなんだろう……
サミュエルが目配せすると、仕事を終えた従者は頭を下げて出て行った。
「出かけてくるよ」
「……どこに行くの?」
モニカはつい声のトーンを落とした。
「ちょっとノースアビー宮殿まで行ってくる」
サミュエルは背筋を伸ばして、目力を強めた。
頬のガーゼも無くなっている。
ノースアビー宮殿──ウェールランドの国会議事堂
貴族院の議席をもつサミュエル。結婚後、若手政治家の中心的な人物の一人になっていた。
「でもエバンス先生が……」
「今日は女王陛下のスピーチがあるから行かないとだめなんだ」
モニカは視線を下げて、吐息をもらした。
事故からまだ一ヶ月も経っていない。議会への復帰はもっと先だと思っていた。
また、帰りの遅い日々が始まるのね。
サミュエルが、じっと真剣な眼差しを向けてきた。
「君が戻ったと、陛下に話してくるよ。いいね?」
モニカはそわそわと髪をいじりながら、うなずいた。
「それは?」
サミュエルは彼女が手に持つ封筒に目を向けた。
「あなた宛の手紙が、私の方に紛れ込んでいたの。差出人が書かれていないようだけど……」
急に目つきを変えたサミュエルが、ゆっくりと近づいてきた。
首の血管が浮き出て、脈打っている。
張り詰めた空気をまとう彼に、モニカはあわてて立ち上がり、腰が引けた状態で手紙を渡した。
サミュエルはモニカを一瞥し、荒く封を破ると、険しい表情で手紙に目を通した。
「どうしたの……?誰から?」
モニカは落ち着きなく手を擦り合わせた。
サミュエルが深呼吸をして、首を左右に振った。
「つまらない、誹謗中傷の手紙だ」
「え?誹謗中傷?な、なんて?見せて」
「……君は、見ないほうがいい」
サミュエルは顔を横にそらした。
モニカは眉を寄せたあと、黒い瞳を大きく見開いた。
「も、もしかして、私の事が書いてあるの?」
借金のこと?
モニカは彼から手紙を奪い、前のめりになって読んだ。
女性的な筆跡。
内容は、思いもよらないもの──彼女とダミアンの不倫関係を密告するものだった。
モニカは口を手で覆って、無意識に手紙を落とした。
でたらめばかり。だけど、ここからダミアンに手紙を送ったことだけは本当だった。
シルビア・ジョーンズなのだろうか……
サミュエルが眉間に深くしわを刻みながら、手紙を拾った。
「今までも……そんな手紙が届いていたの?」
彼の態度は、今回が初めてのようには思えなかった。
彼は手紙を握り潰すと、彼女から離れて静かにベッドに座った。
「たまにね」
モニカはためらいながら前に一歩進んだ。
「今までは……な、なんて?」
サミュエルの顎がピクピクと痙攣した。
「君が……、その、ここにカートライトを連れ込んでいたとか」
「そんなまさか……」
ダミアンがここに訪ねて来た事は、確かに数回あった。
結婚翌日と、母の命日、後は、父の苦境を教えてくれたとき……
モニカは毎回、突然の訪問に驚かされながらも、お茶を出して彼と少し話をした。
いつも同じ部屋にミス・ジョーンズが控えていた気がする。
「カートライトと付き合うのはもうやめてくれないか」
サミュエルは顔を両手で覆って、呻くように言った。
モニカは顔を歪めて、組んだ手を震わせた。
近いうちにボートンに行き、ダミアンに頼んで返済を待ってもらうつもりだった。
もう、すべてサミュエルに説明する時なのかもしれない。
つい後退りをして、足が椅子当たった。
モニカは胸に手を当てると、口をすぼめて呼吸を整え、自分を奮い立たせた。
「サミュエル、あの、少し話があるの……」
サミュエルは突然立ち上がり、彼女に背を向けた。
いったい、何て言えばいいの?
モニカはさかんに手振りをして、しどろもどろに口を開いた。
「あの、その、何ていうか……そうね……。ダミアンの──」
「モニカ!」
サミュエルが急に声を荒げて遮った。
「カートライトと縁を切るのか?どうなんだ!」
彼の強張った背中を見ながら、モニカは卸したばかりのドレスの胸元を強く握りしめた。
「今すぐは……、無理なの……」
サミュエルは冷たく彼女を見つめた。
「サミュエル……」
押し黙ったまま帽子とステッキを取ると、彼は激しくドアを閉めて出ていった。
サミュエルは一晩中帰って来なかった。
冷え込んだ玄関ホールでは、メイドやホールボーイが朝から忙しそうに働いている。
モニカは壁際の椅子に、置物のように動かずに座っていた。
時折チラチラとメイド達からの視線を感じた。地下階では、もう噂になっているのだろうか。
モニカは背中を丸めて膝を抱え込んだ。
「サミュエルは昨日帰らなかったのね」
肩がぐっと重たくなった。
階段からおりてきたメリッサが、隣の椅子に座った。モニカはドレスを整えて、両手を膝の上にそろえた。
「何か聞いてる?」
モニカは前をむいたまま口を固く閉ざした。
メリッサが両眉を上げてパチパチとまばたきした。
「あなた達、喧嘩でもしたの?」
モニカは天井を仰ぎ見ながら、鼻をすすった。
「はあ、先が思いやられるわ……。あなた、もっと器用に立ち回れないの?」
メリッサは背もたれに倒れ込んだ。
「すみません……」
何の反論も出来なかった。
「うまくいかないからって、逃げ出したら今度こそは許さないわよ」
メリッサはひじ掛けによりかかり、身を乗り出して詰め寄った。
「はい……」
今追い出されないのが不思議なくらいだった。
「まったく……。サミュエルが睡眠薬に頼るようになったのも、あなたのせいよ」
モニカはぽかんと口を開けた。
「睡眠薬?」
メリッサはあきれ顔で鼻を鳴らした。
「あなたが出て行ってからね」
サイドテーブルに置かれた白い錠剤──もしかしてあれは彼の物だったの?
モニカは両腿にぐっと爪を食い込ませた。
辛いのは、自分だけだと思っていた。
彼はどこにいるんだろう。
モニカは膝の上に顔を伏せ、肩を小刻みに震わせながらすすり泣いた。
出て行くと伝えた時の、無表情な彼の顔ばかり、頭に浮かんだ。




