第10話 捕食者
モニカは花壇の石積みに座り、花をちぎりながら歌を口ずさんでいた。
ナニーが教えてくれた時計の数え歌。今の一番のお気に入りだった。
きれいに芝生が刈り込まれたボートンホールの広い庭園。四角い花壇には、麦の穂のような形をした紫色の花が、たくさん咲いている。
蜜を吸っていた黄色い蝶がモニカの頭にとまり、また飛んで行った。
向かいの古い木の枝には、大きな蜘蛛が、大きな巣を作っていた。
「歌が上手だね」
モニカは持っていた花の束をあたふたと後ろに隠した。
話しかけてきたのは、メイド達がキンキンした声で噂していた、黒い髪の男の人だった。
「遊んでいるのかい?」
白いフリルに覆われた膝をお腹に引き寄せて、モニカはガラスの温室を指差した。
「お母さまを待っているの」
ダミアンはモニカと少しあいだを空けて花壇に座り、眠たそうにあくびをした。
モニカは鼻の先をいじった。
花をむしったことを、昨日ナニーにきつく怒られたばかりだ。《《六歳にもなって》》と。
花の束を隠し持つ手が、汗ばんできた。
ダミアンを盗み見ると、つまらなそうな彼の視線の先には、蜘蛛の巣にひっかかった黄色い蝶がいた。
さっきの子……
モニカは目を限界まで細めた隙間から、あわれな蝶を見つめた。毛の生えた大きな蜘蛛が蝶に近づいている。飛びかかってきそうで、とても助ける勇気が出ない。
モニカは心のなかで蝶に謝りながら、小さな手の甲を思い切りつねった。
蜘蛛の巣から顔をそらすと、ダミアンが、赤くなった彼女の手の甲を食い入るように見ていた。
ダミアンと、目が合った。モニカはふいに、この前行った動物園のトラに同じような目で見られた事を思い出した。
「な、なに?」
ダミアンは別人のように穏やかな顔になると、彼女の足元に目を向けた。絨毯のように花が散っている。
「だいぶ花をむしったね」
モニカは体を丸く縮めた。
ダミアンは花壇に咲くデルフィニウムの花を一本折り、モニカに差し出した。
「どうぞ?」
モニカは彼の顔をちらっと見て花を受けとると、右手に隠し持っていた花の束にそれを加えた。
この人はきっと、はなしのわかるひとだ
「お母さまが出てこないんだもの」
モニカは花をちぎって宙に投げた。紫色の花がはらはらと地面に落ちた。
「迎えに行かないの?」
ダミアンは立てた片膝に腕を回して首をかしげた。
「お客さまがきているから、温室に入ったらだめなのよ?」
ダミアンは一瞬眉をひそめると、手をついてモニカの方に身を乗り出した。
「お客様って、赤毛の男の人?」
「そうよ?どうして分かるの?」
モニカは花を投げる手を止めて、目をパチクリとさせた。
最近来るのは赤毛の人。この前までは、黒髪の人だった。その前は……
ダミアンは含み笑いをしながら、すり切れたトラウザーズをはいた両腿を叩いた。
「何がおかしいの?」
口をとがらせて聞いても、ダミアンは彼女を見ながら笑い、肩をすくめるだけだった。
「お母様に会いに行ってごらん。きっと喜ぶよ」
「でも……」
モニカは温室に目を向けた。
お母さまがお父さまに甘えて作らせたガラス張り温室。二階建ての家くらいの大きさがある。
植物がしげり、ガラスは曇って、中はよく見えない。
「突然行って驚かせてやるんだ」
ダミアンは、悪戯っぽく言った。
モニカは暫くうつむいた後、あどけない瞳でじっとダミアンを見つめた。
「さあ、行っておいで」
ダミアンは小さな声でささやいた。
熱帯植物が生い茂る温室の中は、ジメジメとしていて温かく、緑と土のにおいがした。
モニカはギザギザとした大きな葉の陰に立ちつくして、泣きながら母の姿を見ていた。
幼かったモニカは、その日見てしまった何かのことを、誰にも言えなかった。
ホールに、こそこそと歩く男性の姿があった。
「その鞄はサミュエルのものね?」
サミュエルの従者が持つ、革製の大きな四角い旅行鞄。見覚えがあった。
ぴたりと立ち止まった従者はゆっくりと振り返り、引きつった笑顔を見せた。
「これは、奥様……いいお天気ですね?」
モニカは顔をしかめて首をひねった。
アーチ窓のむこうでは、小雨が石畳を濡らしている。
サミュエルと一緒に姿を消していた従者。きっと、彼と行動をともにしているはずだ。
モニカは床をかつかつと鳴らして近づくと、従者の持つ旅行鞄の持ち手を両手でつかんだ。
「これは着替え?彼はどこにいるの?いつ戻るの?」
口をモゴモゴさせながら、従者は顔をそらした。
「……申し訳ございません。その、心配なさるようなことは、何も、とだけ……」
従者は持ち手からモニカの手を無理やり離すと、鞄を抱えて走り出した。
「サミュエルに帰ってきてと伝えて!」
モニカは雨の中走り去って行く従者に叫んだ。従者は頷いたように見えた。
玄関ポーチに雨まじりの冷たい風が吹きこんで、ドレスの裾をぬらした。
サミュエルは二晩帰っていない。そして、従者に荷物を取りに来させた。
まだ彼は戻る気がないのだ。
モニカは下を向いて、指輪のない左薬指の付け根をさすった。
今月の借金の返済期日まであと五日、前日にはボートンに行くつもりだった。
それまでにサミュエルは戻るだろうか……
寝室に戻ると、メイド長に連れられてエイミーがやってきた。
エイミーは聞き取れないほど小さな声で挨拶をして、壁際に寄り、首を縮めた。
「よろしくね、エイミー」
エイミーはびくっと顔をあげ、頭を激しく振ってうなずいた。
いつもの笑顔がない。
モニカがそわそわと鏡台の前で髪を結い直し始めると、エイミーがあっと声をあげた。
「ああ、そうね、エイミーにしてもらおうかしら」
すっかり自分で髪を結うことに慣れてしまっていた。ここはボートンの番小屋ではないのに。
エイミーは長い間、細かく結ったり編んだり試行錯誤を繰り返して、ようやくモニカの髪をまとめた。
エイミーが額の汗をぬぐって間もなく、モニカの髪からカメオの髪留めがゴトリと落ちた。
エイミーの目に、みるみるうちに涙がたまった。
「お、お許し下さい!」
「あ、あの、今日は出かけるわけでもないし、簡単に一つにまとめたらどうかしら?ね?エイミー?」
モニカはほどけた髪を一つに持ち上げながら、笑いかけた。
エイミーは唇をかんで、わっと泣き崩れた。
いったいどうしたというの?そんなに私の侍女になるのが嫌なの?
長い間背中をさすって声をかけていると、ようやく顔を上げたエイミーが、モニカをちらちらと見ながら言った。
「実家には、……弟や妹が八人もいるんです」
モニカは口を引き結びながら、首を素早く縦に振った。
「す、すてきね」
エイミーが何を言いたいのか、さっぱり分からない。
ただもう泣き止んで欲しかった。
エイミーが、上目遣いでじっとモニカを見つめた。
「わたし……辞めなくても……いいん、ですか?」
モニカはしばらく思考が止まった。
「…………もちろんよ!」
エイミーはうなだれながら、ぼそりと零した。
「シルビアさんは、うそつきですね……」
モニカは顎を上げて、無表情に目を細めた。
ミス・ジョーンズは、エイミーにいったいどんな話を吹き込んだのだろう。
サミュエルに手紙を送りつけていたのは、彼女のような気がしていた。
けれど、彼女の気持ちを考えると、まだ追究する気には、なれなかった。
シルビア・ジョーンズは、私が来るよりずっと前から、サミュエルのことが、好きだったのだ。




