第8話 思い出したの?
外出から戻ると、陽の当たる玄関ホールでサミュエルが待ち構えていた。
ジャガード貼りの椅子に座り、脚を組んで、冷ややかに彼女を見ている。
彼の無言の圧力。モニカの肌がピリピリとしびれた。
「サミュエル。寝てなくていいの?」
モニカは手を下で組んで、そろそろと彼に歩み寄った。
サミュエルは脚を組み直し、顔をそらした。
「どこに行ってたんだ?」
「え? あ……手紙を、出しに」
クリストファーとダミアンへの手紙は、すでに昨日出していた。
本当は仕事探しに行っていたのだ。
リーデンの街中にある職業紹介所。
仕事の紹介を頼んでも、全く相手にしてもらえなかった。
『レイクフォード公爵夫人にふさわしい仕事は、ここにはありません』
そう言って追い返した職員は、そもそも私が公爵夫人だとは、信じていない様子だった。
「自由奔放なのは結構だが、せめて何か言ってから出かけたらどうだ?」
サミュエルが刺々しく言った。
ただ出かけただけで、サミュエルがこんなに不機嫌になるとは思わなかった。
「毎回声をかけるの?そんなの手間だわ⋯⋯」
「手間?」
サミュエルは荒く息をはいて立ち上がり、イライラと帽子を被った。
「僕はこれから出かける。君はどうする?」
ステッキを手に取り、サミュエルは彼女の横を通り過ぎた。
「もう外出してもいいの?」
モニカは彼を目で追った。
「お疲れかい?」
サミュエルが片眉を上げながら言った。
彼はずっと、私の帰りを待っていたのだろうか。
モニカはサミュエルに近づき、彼の腕に手を添えた。
サミュエルがビクリと体を揺らして、彼女の手を振り払った。
ホールに射し込む陽の光が、厚い雲に遮られた。
陰の下で手を宙に浮かせたまま、モニカは引きつった唇を震わせた。
サミュエルが片手で顔をぬぐい、静かに腕を差し出した。
「すまない……」
モニカは少しためらった後、再びサミュエルの腕に手を置いた。
甘い空気はどこに行ってしまったんだろう。
昨日の話を聞いて気が変わったのだろうか。
ひょっとしてキスが気に入らなかったのかもしれない。つまらない女だと気付いたのかも。いえ、逆に下品だった?
モニカは唇をかみしめた。
サミュエルはまるで戦場に行く兵士のように、険しい横顔をしていた。
レイクフォード・ハウスのあるアベニューと交差する、テイラー通り。
今日も馬車や人が行き交い、賑わっている。
商店の入る建物がずらりと立ち並ぶ一マイルほどの大通りには、仕立屋や靴屋、レストラン、大抵の店が揃っていた。
「何か買うの?」
「いや……」
特に目的地もなく、ショーウィンドウを見ながら彼と歩いた。
向かいから歩いて来る、今はやりの袖の膨らんだドレスを着た二人組。モニカとサミュエルを交互に見ながら、ひそひそと耳うちをしていた。
洗練されたジェントルマンと、みすぼらしい紫色のワンピースを着た女。きっと彼女達の想像力を掻き立てたに違いない。
私はサミュエルの身分違いの恋人ってところかしら。それとも、彼に買われた街角の─────
モニカはサミュエルの腕に添えた手をすっと下ろして、急に立ち止まった。
サミュエルが眉を寄せて振り返り、再び腕を差し出した。
彼までじろじろと好奇の目を向けられていた。気づかないわけないのに。
顔を曇らせてサミュエルの腕を見つめた。
「もう、帰らない?」
サミュエルは大きなため息をついた。
「恥ずかしいなら、何でまともな服を着ないんだ」
ぶつぶつと文句を言いながら彼女の手を取り、屋敷に向かって歩きはじめた。
「そんな服を着続ける狙いは何なんだ? 僕には全く理解できない」
「手違いでドレスを処分してしまっただけよ」
モニカは消え入りそうな小さな声で言った。
サミュエルはぴたりと立ち止まり、顔をしかめた。
「処分したって……全部?」
モニカはうなずいた。シルビアの仕事に抜かりはなかった。
「新しく買えばいいだろう。君の口座には十分なお金を入れていたはずだ」
そう言った後、サミュエルはなぜか突然口を覆った。
モニカは彼に背中を向けて、うつむきながら前髪をいじった。
口座のお金は、借金の返済のために全部使い込んでしまっている。
「あら? 何で口座のことを知っているの?」
モニカは振り向いた。
「帳簿を見ただけだ」
無表情の彼に、モニカは少しだけ首をかしげた。病み上がりなのに、もうそんなことをしてるのね。
サミュエルが咳払いをした。
「それで、口座にはいくら残っているんだ?」
モニカはギクッと縮み上がった。
黙り込んでいる間に、馬車が三台追い越して行った。
サミュエルは唇に指を当てて、少し考え込むような顔をした。
「……今から、その、銀行に行こうか」
「あ、あの……使っちゃって……今は、もう……全部無いの」
あわてて口に出すと、サミュエルは目を見開いて、彼女を見つめた。
モニカは大抵のドレスを、テイラー通りのウォルターの店で作っていた。サミュエルは迷わず彼の店を選んだ。
店に入るとサミュエルはウォルターを呼び、ドレスのデザインを十着分、彼女に選ばせた。
「いますぐ着られるものはないのか?」
ウォルターはようやくモニカの服に目をやり、怪訝な表情をすぐさま笑顔で隠した。
「試作品を見てみましょう」
試作品がぎっしりと吊るされた広いドレスルームで、モニカはラズベリーレッドの一着を身にまとった。
鏡に映った女性店員が、顎の下で手を合わせ、目を輝かせている。
モニカは頬を染めて、柔らかな光沢を放つシルクサテンのひだをそっと撫でた。
部屋に入って来たサミュエルは、ドアのそばで立ち止まった。遠目でモニカを眺めた後、ゆっくりと近づいて彼女の両肘に手を添えた。
「⋯⋯悪くないね」
―――やっと、笑ったわ!
モニカは彼の笑顔に、瞳を濡らして笑い返した。
店員がウォルターを呼びに行くと、サミュエルはモニカを抱き寄せた。
手に口づけをしかけたサミュエルが、突然ぴたりと止まった。華奢な手を穴が開くほど見つめている。
サミュエルは、戸惑うモニカの顔を鋭くにらみつけた。
「あ、あなた今日変よ」
震えながら言うと、不気味な笑みが返ってきた。
サミュエルは彼女の頭に何気なく両手をまわすと、急に手荒なキスをした。
モニカはサミュエルの背中に腕をまわしてフロックコートをつかんだ。ひりひりする口づけにさえ、胸は高鳴っていた。
そのあとサミュエルは、何事も無かったように、冷たい仮面を付けた。モニカが結婚して以来慣れ親しんだ、サミュエルそのものだった。
レイクフォード・ハウスのホールに戻ると、サミュエルはモニカに一瞥もくれずに階段を上っていった。
モニカはサミュエルの背中を見ながら尋ねた。
「思い出したの?」
サミュエルがぴたりと立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。目を合わせたまま、何も言わない。
それが答えだった。
サミュエルが階段をおりてきた。
モニカは両手で顔を覆った。気付かない振りをすれば、もう少しは一緒にいられたのだ。彼に話を切り出すきっかけを、自分から与えてしまった。
モニカはそばの椅子にがくりと座りこんだ。
硬い表情のサミュエルが、彼女を見下ろすように立っている。彼はモニカの膝の上に置かれた手に視線を向けた。
「指輪は?」
モニカはぼんやりとサミュエルを見つめた。そして自分の手を見下ろした。左手の薬指には、白く指輪の跡が残っている。
当然、返してほしいはずだ。
第二代レイクフォード公が婚約者に贈ったブルーサファイアの指輪は、デザインを変えながら公爵夫人の証として引き継がれてきた。
彼にとってお金に変えられない価値があるのだ。
「ごめんなさい。ボートンに置いてきたの。必ず返しにくるわ」
モニカはこわばった声でつぶやいた。
サミュエルは顎を引くと、彼女に背を向けて大きなアーチ窓まで進んだ。
「返してほしいとは思っていない」
モニカは眉を下げて、サミュエルを見つめた。
「どうして?」
サミュエルは何も答えずに、壁にもたれた。
指輪は再び必要になるはずだ。
サミュエルの新しい妻。更に、二人の子供の妻……
モニカはあえて、考えるのをやめた。
これ以上考えると、心が壊れて、治らなくなりそうな気がした。
「ダミアン・カートライト」
サミュエルがざらついた声で、ふいに思いがけない名前を口にした。
モニカは祈るように両手を組んで、腰を折り曲げた。
借金のことを知られてしまった。
サミュエルが腕を組んでうつむいた。
「君とあの男の関係を、説明してくれ」
モニカは呆然として、言葉を失った。
サミュエルはうつむいたまま視線だけを上げて、じっとモニカを見つめている。
彼の質問は、思っていたものと違った。
サミュエルの手紙に書かれていた不貞行為とは、ダミアンの事を指していたのだろうか。
「ダミアンは⋯⋯その、ただの友達よ」
モニカは鼻を手でこすった。胃が少し、むかむかとした。
嘘はついていない……
サミュエルは両目を片手で覆った。
「本当に?」
「本当よ……彼との関係を疑っていたの?」
いったい……いつから?
サミュエルは眉をわずかにひそめて、少し暗くなり始めた窓の外を眺めた。
モニカははっと息をして立ち上がった。具合が悪そうなほど彼は青ざめている。
モニカはサミュエルに駆け寄り、彼の両手を強く握りしめた。
「命にかけて本当よ……」
サミュエルは疲れきった瞳をとじて、長い間沈黙した。
「わかった」
目を開けると、彼は落ちついた声で、はっきりと言った。
サミュエルが階段を上り見えなくなった。
モニカは椅子にふらふらと近づいて、ぐったりと沈み込んだ。
サミュエルは離婚に触れなかった。
モニカはやけに眩しく輝くシャンデリアを仰ぎ見ながら、大きく息を吐き出した。




