第7話 キスの衝撃
モニカはデスクに向かい、クリストファーに手紙を書いた。
しばらく家に帰れない事を早く伝えないと、父が心配してしまう。いや、もうとっくに心配をしているだろう。
弱った体に鞭を打って、リーデンまで迎えに来てしまうかもしれない。
モニカは封筒に書いたクリストファーの名前に口づけをした。
サミュエルが気がかりで、今まで手紙を書くことに、気が回らなかったのだ。
モニカはもう一枚便箋を取り、今度はダミアンに手紙を書き始めた。
アビゲイルの家庭教師を無断で何回も休んでしまっているし、次はいつ行けるかも分からない。
ペンを顎にあて、悩みながら慎重に謝罪の言葉を選んだ。
アビゲイルの家庭教師が出来ないことは、モニカにとって──ウェルズ家にとってかなりの痛手だった。
ダミアンへの借金は残りおよそ八千ポンド。毎月の支払いは11ポンド。
今まで何とか支払ってきたが、今月の返済は厳しい状況だった。働けていないのだから。
モニカはペンを置き、頬杖をついてため息をもらした。
ドアがノックされた。入ってきたのはシルビアだった。
「旦那様がお呼びです」
引きつった顔でシルビアは言った。
「分かったわ。ありがとう」
キッと鋭い眼差しをモニカに向けると、シルビアは部屋を見回し、デスクの上の手紙に目を止めた。
モニカはダミアンへの手紙をあわてて二つに折り、引き出しにしまった。
「あの、アリス、アリスはどうしているかしら?」
ぶっきらぼうにシルビアは答えた。
「少し前に結婚して辞めました」
「……そ、そう」
モニカは肩を落とした。
どうりで、見かけないのね。
モニカの侍女だった気立てのいいアリス。話し相手がいなくなってしまった。
部屋を出ると、長い廊下の向こうにエバンスがいた。モニカは足を早めた。
「エバンス先生」
エバンスが振り返り、気さくな笑顔を見せた。
「これは公爵夫人。元気かい?今からちょうど公爵の診察に行く所でね」
「ええ。あの、先生、その前に少しお話を聞いていただきたくて⋯⋯」
気後れして声が震えた。
「何だい?公爵の話かな?」
「いえ、あの⋯⋯私の話なんです⋯⋯」
モニカは目を伏せて、両手の指先をもじもじと遊ばせた。
エバンスが眉を寄せた。
「どこか具合が?……もしや――」
視線がお腹に向けられた。
「い、いえ、違います」
モニカは手のひらを素早くエバンスに向けた。
「まあ、そうか。あなたは戻ってきたばかりだからね」
エバンスが訳知り顔で笑った。
「あの、実は、仕事⋯⋯仕事を探しているんです。お知りあいの多いエバンス先生に、何か紹介していただけないかと⋯⋯」
「仕事を?奉仕活動ではなく?」
「⋯⋯ええ」
エバンスは驚いたように口を開けた。
「何でもいいんです。家庭教師や、家事⋯⋯病人の世話でも、出来ることなら何でも喜んでします」
モニカは顎の下で手を組み、すがるようにエバンスを見つめた。
エバンスは難しい顔で口髭を撫でた。
「何か⋯⋯事情があるのかい?」
モニカは言葉に詰まって、ゆっくりと手を下ろした。
「仕事を紹介することは簡単だが⋯⋯公爵は知っているのかい?」
モニカは首を横に振った。
「ふむ、そうか⋯⋯」
エバンスはモニカの肩をぽんぽんと叩いた。
「もし何か困っているなら、まず先に公爵に相談するべきだよ。勝手にあなたを働かせたとなっては、私も許してもらえないからね」
エバンス先生に迷惑は掛けられない。
「すみません、エバンス先生、この話は忘れて下さい」
努めて明るく振る舞うと、エバンスは困ったように眉を下げた。
エバンスが、サミュエルの頬のガーゼを外した。赤い傷が、頬から耳の下にかけて斜めに走っている。
まだ生々しかった。モニカは思わず小さな嘆きを漏らした。
サミュエルが顔をしかめた。
「先生、鏡はありますか?」
エバンスが鞄から取り出した手鏡を覗き込むと、サミュエルはまるで殴られたかのような、うめき声を漏らした。
「何だこれは⋯⋯」
すぐにエバンスに鏡を押し返して、うなだれた。
「次第に色が抜けてきて、遠目には分からなくなるでしょう」
エバンスが手当てしながら淡々と言うと、サミュエルはもの問いたげにモニカを見つめた。
「全然気にならないわ」
痛々しくはあるものの、嫌悪感はまるで感じない。それでもサミュエルの気はまだ晴れないようで、疑わしげに彼女を見ている。
「本当よ。あなたは、誰より素敵だわ」
目を真剣に見ながらうなずくと、サミュエルは頬を染めて、落ち着かなげに口元を隠した。
「君がいいなら、別にいいんだ」
目をそらす彼の頭を、モニカは胸にひしと抱きしめたくなった。
「さあ、お邪魔なようですし、そろそろ帰りますかな」
エバンスが椅子から腰を上げた。
エバンスはドアの前で振り返り、諭し顔でモニカを指差した。サミュエルに相談しろと言いたいのだろう。
モニカはその気も無いのに笑顔でうなずいた。
場を和ませる老医師が出て行くと、部屋の空気が急に薄くなったような気がした。
「モニカ」
サミュエルがベッドを軽く二度叩き、彼女に隣に座るよう促した。
モニカはゆっくりと彼に近づいて、隣に腰掛けた。
「今日はどうしてた?」
サミュエルはモニカの片手を取り、優しく撫ではじめた。
あれから二日。日に日に、サミュエルは情熱的になっている。
モニカは顔をそらして、漏れそうになる吐息をこらえた。まるで、甘い拷問だった。
「僕を見て」
サミュエルがささやいた。
モニカは首を小さく左右に振った。
彼の手がゆっくりと離れた。
少しずつ振り返ると、サミュエルは毒気のない顔で首をかしげていた。
「どうしてか……君が何も知らない乙女に見える時があるよ」
何も知らないサミュエル。
モニカは頭痛がしてきた。
サミュエルはにっこりと笑うと、モニカを抱き寄せた。
「かわいい」
このまま黙っていたら、記憶を取り戻したとき、彼は私を許さない。
「わ、私達はあまり関係が良くなかったの。だから、こんな事、ふさわしくないわ……」
無抵抗に抱き締められながら、モニカは声を震わせた。
サミュエルが口をぽかんと開けて、腕をおろした。
モニカは口を引き結んで腰をずらし、少しだけ彼から離れた。
サミュエルが急に激しくかぶりを振った。
「関係が良く、なかった?」
「そう、だから、こんな事しないほうが――」「嫌だ」
サミュエルが、突然立ち上がった。
「ちゃんと説明してくれ。僕達の間に何か問題があったのか?」
いきり立つサミュエルを、モニカはよどんだ表情で見つめた。
初夜さえ済ませていないとは、言えない。別居のことも言えない。
窓の向こう、石炭の煙でかすんだリーデンの空を見ながら、モニカは彼と仲睦まじく暮らす空想に耽った。
「モニカ……」
サミュエルが声を荒げた。
モニカはしゅんとして、背中を小さく丸めた。
「……ただ、合わなかったのよ」
サミュエルがはっと息を吸った。
「……そんなわけない」
サミュエルは、目をぎらりと光らせると、モニカの体に思わせぶりな視線をはわせた。
「あ、あなた勘違いしてるわ」
モニカはあえぐように言い、素早く立ち上がった。
「用事があったんだった」
「──モニカ!」
ドアに向かう途中、足をもつれさせたモニカを、サミュエルがあわてて支えた。
「あ、ありがとう……」
情けなさすぎる。モニカは無意識に鼻をすすった。
サミュエルは真顔で彼女を見つめると、彼女のほっそりとしたウエストを、両手で掴んだ。
「あの……も、もう大丈夫」
モニカは声を震わせた。
「合わないわけがない……」
サミュエルはひとりごとのようにつぶやくと、モニカを抱き寄せて体を押し付けた。
モニカの体の奥に、ゆらゆらと何かの火が灯った。
唇をなぞり、反応をつぶさに見つめると、サミュエルは彼女と唇を重ね合わせた。
うっとりと目を閉じたモニカ。口づけがふいに深くなり、ぎょっと目を開けた。
今まで、羽が触れるようなキスしか、したことがなかった。
モニカは、サミュエルのなすがままに身をゆだねた。頭がぼうっとしてきて、体が思うように動かない。
力の入らないモニカを支えながら、サミュエルの体も大きく震えていた。




