第6話 手の温もり
"少し一人になりたい"
ベッドに横たわり、目を覆ったサミュエルは、打ちひしがれているように見えた。
記憶が抜け落ち、父親が亡くなったことも覚えていないのだ。
モニカは磁石のように、彼に引き寄せられそうになったが、なんとか踏みとどまった。
サミュエルにとって、今の彼女は赤の他人も同然だった────
「五年前といったら⋯⋯、あなた達はまだ出会っていなかったかしら」
メリッサは紅茶をカップに注ぎ、モニカの前にコトリと置いた。
「はい。お父様が亡くなられた後でした⋯⋯」
ほこり一つ無い応接室のローテーブルには、うつろな顔をしたモニカが映り込んでいる。
「サミュエルが意識を取り戻したのは良かったけど⋯⋯あなたは辛いわね」
モニカは顎を引き、胸元のボタンをいじった。
「きっと一緒に暮らすうちに、記憶も取り戻すわ」
メリッサは自分の紅茶に砂糖を一つ入れ、スプーンで混ぜた。
サミュエルは言ってなかったのね⋯⋯
モニカは気力を無くして淀んだ目を、メリッサに向けた。
「なに?」
メリッサがスプーンを持つ手を止め、眉間に皺を寄せた。
「あの⋯⋯サミュエルは、り、離婚する気でいました⋯⋯」
目の前の湯気のたつ紅茶。
久しぶりに義母が入れてくれたのに、喉を通りそうにない。
メリッサがカチャリとソーサーにスプーンを置いた。
「本当に?」
目の下に人差し指をあて、モニカをじっと見ている。
「⋯⋯はい」
モニカはうつむいて肩を縮めた。
「てっきりやり直すものかと⋯⋯」
メリッサは膝に両肘をついて手を組み、ため息を漏らした。
「明日にでもボートンに帰ろうと思います。離婚の話は、今はまだ進まないでしょうし⋯⋯。また改めて⋯⋯」
返事のないメリッサをチラリと見た。
メリッサは氷のように冷ややかな目で、彼女を睨み据えていた。
モニカは思わず姿勢を正した。
ああ、サミュエルは母親似だわ⋯⋯
「父親を亡くしてショックを受けているサミュエルに、追い打ちをかける気?」
「まさか」
モニカはかぶりを振りながら立ち上がった。
自分にそんな影響力があるとは思えない。
「たとえ記憶にない妻でも、別居してると知れば、サミュエルは悲しむでしょうね」
モニカはブーツのつま先をソワソワと動かした。
「病み上がりの体には衝撃だわ。また倒れてしまうかもしれない」
モニカは息を止め、メリッサを見つめた。
もうあんな思いは、耐えられない。
メリッサはぐいっと紅茶を飲みきると、カップの乗ったソーサーを音を立ててテーブルに戻した。
「どうぞ好きな時に帰ってちょうだい」
ドアを手で指し示した。
「あの、ええと⋯⋯」
モニカはソファーにそろそろと座り、座面のへりをぎゅっと掴んだ。
「その⋯⋯⋯帰るのはもう少し、後にします」
小さくつぶやいた。
メリッサはモニカをじろっと見ながら両眉を上げた。
「そう、分かったわ」
義母は背もたれに深く体を預けて、満足そうにうなずいた。
サミュエルの部屋に来るのは二日ぶりだった。
「話があるって聞いたけれど⋯⋯」
モニカはぎこちなく、沈黙を破った。
サミュエルは、ドアに背中を貼り付けた彼女を、顔をしかめて見ている。
「もっとこちらに」
彼は顎と目線でベッドのそばの椅子を示した。
モニカがそばまで近づくと、サミュエルはヘッドボードから体を起こした。
一時はあんなに土気色になって乾いていたサミュエルの肌。血色が戻り、本来の透明感を取り戻している。
事故を思い起こさせるのは、頬を覆うガーゼだけだ。
手が、彼に触れたくてうずいている。
モニカは手首を全力で押さえつけて、椅子に静かに腰を下ろした。
「忙しかったのかい?」
サミュエルが、硬い声で尋ねた。
モニカはぱちぱちとまばたきをした。
「いいえ、特には⋯⋯」
むしろ何もすることが無くて、落ち着かないくらいだった。公爵家は、彼女無しで完璧に回っているのだ。
「ならどうして──」
表情を曇らせて、サミュエルは顔をそらした。
「なに?」
「⋯⋯何でもない」
モニカは膝の上で手を重ね、顎を強張らせたサミュエルの横顔を見つめた。
「お父様のこと、辛いでしょうね⋯⋯」
サミュエルは、咳払いをして片手で首のうしろを擦った。
「いや⋯⋯、もう大丈夫だ。長くないことは分かっていたから」
サミュエルの瞳には、確かに一昨日ほどの悲しみはもう見られない。
「この前は、君を傷つけてしまった」
サミュエルは片手をベッドにつき、彼女と距離を詰めて座り直した。
「いえ、いいの。あなたは覚えていないんですもの」
モニカは手を組んで、膝に押し当てた。
「気にしてないわ」
落ち着きなく何度も組み直される彼女の手を、サミュエルはじっと見つめた。
「本当にすまなかった」
サミュエルは足を絨毯の上に下ろして、彼女の真正面に座った。とても真摯な表情をしている。
脚が触れてしまいそうだ。モニカは少し息切れを感じた。
サミュエルの両手が、モニカの固く組んだ手をそっと包みこんで、軽く持ち上げた。
「君と結婚できて、僕は幸運だ」
静かな声でつぶやいた。
彼の手の温もりが、じんわりと伝わってくる。
彼は負い目を感じているだけ。
そう自分に言い聞かせているのに、モニカの体は恍惚として震えた。
サミュエルが彼女の顔を覗き込んだ。
潤み、和らいだその眼差しに、昔の彼を思い出した。
「綺麗だ」
モニカの全身が燃えるように熱くなった。
モニカは彼の手を押しのけてうつむき、首を左右に振った。
気が遠くなりそうだった。
「君は、ボートンのウェルズ男爵の娘だと聞いたけど」
咳払いのあと、抑えた声が聞こえた。
「え?あ⋯⋯、ええ、そうよ」
モニカは椅子に座りなおした。
ちょっと落ち着かないと……
「僕たちは、その、どこで出会ったんだろう」
本当に何も覚えてないわ。
「……国立歌劇場よ」
モニカは前髪を撫でながら、足首を組んだ。
二人の思い出は、私だけのものになってしまった。
サミュエルは足を少し開いて前のめりになった。
「オペラで?」
「⋯⋯え、ええ」
サミュエルがさらに身を乗り出し、足が少し触れ合った。
モニカは足を椅子の下に隠し、震える膝をぴったりとくっつけて手で覆った。
「僕が声をかけた?」
「あ⋯⋯、ええ⋯⋯、まあ」
サミュエルが、ふいに照れた笑みを浮かべた。
「僕は恋なんて馬鹿げていると、ずっと思っていたんだ」
モニカは椅子から立ち上がり、サミュエルに背を向けて少し離れた。
そんなの、初耳だった。
彼は恋をしたこともなかったの?あんなに積極的だったのに?
後ろのサミュエルが、ぽつりともらした。
「寝室は、別なんだね」
モニカはピクリと身動ぎをした。
「う⋯⋯、あ、そうね」
顔が熱い。首まで真っ赤になっている気がする。
「僕たちは⋯⋯、どんな夫婦だった?」
サミュエルがかすれた声で尋ねた。
モニカはおそるおそるサミュエルを盗み見た。
サミュエルは目を煌めかせて、答えをいまかと待っている。
モニカは自分の肩をつかんで、途方に暮れながら斜め上を見上げた。
「⋯⋯あの、えーと、そ、そうね⋯⋯⋯。ふ、普通、普通よ」
「⋯⋯普通だって?」
サミュエルが語気を強めた。
「あの、もういいかしら。用事を思い出したわ」
サミュエルは口を引きむすび、肩を落とした。
追及されませんようにと祈りながら、モニカはドアに向かった。
「モニカ」
久しぶりにサミュエルに名前を呼ばれた。
モニカは磨きぬかれた真鍮のドアノブを、強く握りしめた。
「これからはもっと頻繁に会いに来てほしい」
モニカはドアの方を向いたまま頷き、廊下に出た。
静かにドアを閉め、息を吐き出すと、その場にへなへなと崩れ落ちた。
彼は白い結婚だなんて、全く思っていない。
「どうしよう⋯⋯」
モニカは胸をおさえ、泣きそうな声でつぶやいた。




