第5話 忘れ去られた妻
サミュエルが一瞬目を開けた。あれは決して、見間違いではなかった。
モニカ達はベッドに張り付いて、サミュエルを見守った。
時間だけが過ぎて空気が重くなり始めた頃、サミュエルが、かすかな唸り声とともにゆっくりと目を開けた。
三人は狂ったように、歓声を上げた。
サミュエルが少しずつ前腕を上げた。
モニカは口元を両手でおさえて、頭を左右に振った。
「サミュエル……」
彼の小さな動きの一つひとつ。胸に安堵感が押し寄せて、めまいがした。
「サミュエル!気分はどう?大丈夫なの?」
メリッサがベッドに座り、サミュエルの肩を揺すった。サミュエルは焦点の合わない目で天井を見ている。
「僕は⋯⋯⋯⋯」
「なに?どうしたの!?」
「今日は⋯⋯何曜日です⋯⋯?」
ガサガサの声でそう言いながら、顔をしかめた。
「水曜日よ!あなたは頭を打って三日も意識がなかったのよ」
メリッサが声を弾ませながら、サミュエルの肩を叩いた。
「どれ、体調はどうですかな?頭は痛みますか?」
エバンスはサミュエルの顔色を観察して、触診を始めた。
「いや⋯⋯。ああ、エバンスもいるのか」
エバンスに体を起こされ、吸い飲み器で水分を取ると、サミュエルはつぶやいた。
「歌が……聴こえた気がしたんだ」
体を纏う空気が、急に冷たくなった気がした。
「歌ですか?」
「やけに、……その、澄んだ声だった」
モニカは後ずさりをして、息をひそめながら部屋を出た。
自分がここに何をしに来たのか、ふいに思い出した。
幸いにも、サミュエルはまだ彼女に気が付いていないようだった。
本を読んでも頭に入ってこない。さっきも同じところを読んだ気がする。
モニカは膝の上のミステリー小説を音をたてて閉じた。
自室にこもってほぼ丸一日が過ぎていた。
メイドが笑顔でやって来た。シルビアと一緒にいた、あの人当たりがよいメイド──エイミーだった。
「メリッサ様が旦那様の部屋にお呼びです、奥様」
体が縮み上がった。けれど、逃げ出すわけにもいかなかった。
昨日目覚めたばかりなのに、サミュエルはベッドの上で、もう体を起こしていた。立てた片膝に腕を乗せ、窓の外を眺めている。
サミュエルが振り返ると、モニカはメリッサとエバンスの陰に隠れ、気配を消した。
いつまでも避ける訳にはいかない。分かってはいるけれど……
「君、水をくれないか」
エバンスの診察が終わると、サミュエルが言った。
少しして、自分に向けられた言葉なのだとわかった。
モニカは耳を赤くして、自ら仕立て直した茶色のスカートのしわを伸ばした。こんな服を着ていたら、間違われても仕方がない。
サミュエルは自分の妻に気付かずに、私を使用人の一人だと思っているのだ。
「サミュエル──」
「いいんです」
モニカはメリッサの声を遮った。
サミュエルはヘッドボードに体を預けて、また窓の外を見ている。
私の声を忘れてしまったの?
気付かれたいのか、気付かれたくないのか、もう、わけがわからなくなってきた。
ワゴンの上に用意されていたグラスに水を注ぎ、ベッドに近づいた。モニカはうつむいたまま、サイドテーブルにグラスを置いた。
ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。モニカは目線だけを上げた。サミュエルが口を開けて彼女を見つめていた。
とうとう気がついたのね。
目が熱くなった。
サミュエルはベッドボードから体を起こすと、グラスを手に取った。そして彼女を横目でじっと見ながら、一気に水を飲み干した。
「君⋯⋯、名前は?」
サミュエルは頭を枕にのせ、胸をおさえた。
モニカはゆっくりと顔を上げた。
冗談なんて、言わない人なのに。
久しぶりに、まっすぐにサミュエルと目を合わせた。
彼女の返事を待つサミュエルの表情には、いつもの見えない壁が無かった。
「サミュエル。あなた何を言ってるの? 自分の妻に向かって」
メリッサが椅子から立ち上がった。
サミュエルは体を少しずつ起こして口を開いた。
「妻?今、妻と言いましたか?」
「そうよ」
サミュエルの声は裏返っていた。
サミュエルは顎を上げてモニカの顔を見つめた。
次に色のくすんだブラウスと毛羽立ったスカートに目を向けると、再び彼女の顔を見つめて、物憂げに吐息を漏らした。
モニカは強張った顔で立ち尽くした。
どういうこと?彼は私のことを、忘れているの?
胸の中が急に凍えた。
「母上、ずいぶん騙されやすくなってしまったようですね。僕は、黙って結婚したりはしませんよ」
サミュエルは眉を下げて微笑みながら、彼女に思いのほか優しく問いかけた。
「君が母に嘘をついたのかい?僕と結婚したと」
モニカは息をのんだ。まるで、遺産狙いの詐欺師にでもなったような気がした。
メリッサとエバンスが、顔を見合わせた。
「モニカのことを忘れたの?あなたの妻のモニカよ。ベアトリスとの婚約を解消までして、強引に結婚したじゃない」
サミュエルは眉をしかめて、前髪を荒っぽくかき上げた。
「そんな覚えはありません。母上、おかしくなったんですか?」
エバンスはサミュエルを見ながら、考え込むように顎の先をつまんだ。
「公爵⋯⋯」
「僕はまだ公爵じゃない」
苛立たしげにサミュエルが言い放った。
メリッサは大きく深呼吸をした。
「サミュエル⋯⋯。ジェームズは亡くなったわ」
サミュエルはビクリと身じろぎをして、腿の上の両手を握りしめた。
「冗談が過ぎますね⋯⋯」
エバンスは腕を組み、目を鋭く光らせた。
「公爵、いや、以前のようにマレット卿とお呼びしましょうか……。マレット卿、あなたは今、何歳ですか?」
サミュエルはエバンスをまじまじと見た後、ゆっくりと項垂れて、黙りこんだ。
「マレット卿?」
エバンスが手厳しく続けた。
「⋯⋯二十だ」
うつむいたまま、唸るようにサミュエルは答えた。
「サミュエル、あなたは⋯⋯二十五歳よ」
サミュエルは唖然とした顔で、メリッサを見上げた。




