第4話 あと二日の命
部屋に舞う無数のほこりが、カーテンの隙間から差す光に反射している。
モニカの部屋は、衝動的に出て行ったあの日のまま、手を加えられていないようだった。
机の上には開いたままの雑誌が置かれている。花瓶のバラは花首を曲げて茶色く萎れていた。
モニカはクリーム色のシーツとウールの毛布が敷かれたベッドに座り、そのまま後ろに倒れ込んだ。ほこりが舞い上がり、むせて鼻と口を手で覆った。
ジョーンズさんがいなくなる頃を見計らって、またサミュエルのところに戻ろう……
胸に両手を置き、クモの巣がかかった天井をぼんやり見上げた。
時間が止まったままの彼女の部屋。
こもった空気にミスマッチな、シトラスと樹木の心地よい香りがした。
モニカはまぶたを閉じ、深く息を吸って、また目を開いた。
サミュエルの香りだわ。
体をひねり、毛布に鼻を寄せた。サミュエルがいつもつけている香水の香りがする。
モニカはベッドに両肘をつき、目をしばたたいた。
どうして?
ベッドに座り、毛布をかき寄せて顔をうずめた。
サミュエルがここで寝ていたなんて考えるのは、ばかげているかしら。
モニカは頭を上げ、赤くなった頬を手で冷やした。上の空でベッドを整え、窓を開けてほこりを追い払った。
メイド長がやってきて、猫背気味に何度も謝った。
「本当に申し訳ありません、奥様。部屋の管理が行き届いておらず……」
メイド数人に命じながら、あわただしく掃除を始めた。
「その、旦那様に、ここには入るなと命じられていたもので……」
メイド長は目をそわそわと動かしながら、しきりに手をこすり合わせた。
「気にしないで。ずっといなかったんだもの」
サイドテーブルの上には、白い錠剤の入った薬瓶が置いてあった。モニカは眉を寄せて瓶を手に取り、目の前で軽く振った。もう、ほとんど残っていない。
何の薬だったかしら。
モニカは深く考えず、その瓶をテーブルに戻した。
サミュエルを診察するエバンス。そのすぐ後ろで、モニカはメリッサと並んだ。
「外れてしまった馬車の車輪に不自然な傷があったの。今度の事故は、人為的なものかもしれないわ」
メリッサが歯を食いしばった。
モニカはゆっくりと口を押さえた。すこしずつ手をおろして、ようやく声を出した。
「でも……誰が……?」
エバンスがサミュエルの胸から聴診器を外し、肩を落とした。
「もう、三日目ですな」
エバンスは、立ちつくすモニカとメリッサを振り返った。
「ええ、そうよ」
メリッサは腕を抱き込むように組んで、エバンスをにらみつけた。
「このまま脱水症状が続くと、あと二日⋯⋯もつかどうか⋯⋯」
モニカは数歩後ずさった。突然、体がガタガタと震え始めた。
エバンスから向けられる深い憐れみの表情。無意識にうめき声をもらしながら、サミュエルの元に駆け寄った。
たったの三日間で、目のまわりが落ちくぼんでしまったサミュエル。土気色の乾いた顔。
気のせいに、もうできない。
モニカは喉に手をあてて、絨毯の上に崩れ落ちた。
メリッサがよろよろとベッドのヘッドボードにしがみついた。
「何とかならないの?」
頭を掻きむしり、エバンスはうつむいた。
メリッサは目頭をおさえると、何も言わずに身をひるがえし、部屋を出ていった。
モニカはベッドに這い上がり、サミュエルの胸にしがみついた。
「後でまた来るよ」
うしろでエバンスが、静かにドアを閉める音が聞こえた。
「見てごらんモニカ。女王陛下が来ているよ」
隣のダミアンがモニカに耳うちをした。
モニカは一階席から、後ろを振り向いた。
二階と三階の二段構えのロイヤルボックス席。金箔できらびやかに装飾された広い座席の中で、女王は誰かと話をしている。
女王の話し相手がこちらを見下ろした気がした。陰に隠れたその人物の顔は、モニカの席からはよく見えなかった。
四階まで座席がずらりと並ぶ国立歌劇場の大ホール。
モニカは今日、ダミアンに誘われて初めてオペラの観劇に来ていた。
ダミアンと出かけることを伝えた時、父クリストファーは苦い顔をしていた。
"彼と付き合う気かい?"
モニカは父の言葉を思い出して、独り笑いをした。ダミアンは保護者みたいなものだ。
一回りも年上で経験豊富なダミアンが、自分のような小娘を恋愛対象に見ているとは思えなかった。
一から身を立て成功者となったダミアン。オペラハウスの上流階級の世界に、違和感なく堂々と溶け込んでいた。
舞台の幕が開くと、モニカは深紅のベルベットの座席から身を乗り出した。オペラグラスを覗き込んで、食い入るように、歌劇に見入った。
幕間になり、客席が明るく照らされた。
「人に酔ったみたい。外の空気を吸ってくるわ」
ダミアンに告げて席を立った。
歌劇場外の回廊で、モニカは柱によりかかり、うっとりとため息をついた。
ソプラノ歌手の歌う感傷的なメロディ。観劇しながら、思いきり歌いたくて、うずうずとしていた。
モニカはキョロキョロとまわりを確認すると、オレンジ色に染まった空に向かって、心のままに歌った。
歌をすぐに耳で覚えて歌ってしまうのは、子供の頃からの性だった。
物音が聞こえて、あわてて口を閉じた。
見回すと、隣の柱のそばにすらりとした若い男性がいた。
洗練された装いと高貴なたたずまい。なぜか彼女一点を見たまま、固まったように身動きをとらない。
モニカは体を彼の方に向けて、首をかしげた。
彼はぱっと足元に顔をそらした。そしてまたすぐ顔を上げて、彼女と視線をからませた。
誰なの?
モニカは体が熱くなり、顔を手で扇いだ。男性は咳払いをして、整った髪を更に撫でつけている。
彼の体が出すサイン。恋は知らないのに、本能的に分かる気がした。
その男性は、一歩また一歩と、少しずつ彼女に歩み寄った。
モニカは、いつの間にか開いていた唇に触れながら、彼を見つめた。
透明感のある緑色の瞳は、何処となく憂いを帯びている。
何故か懐かしくて、モニカはその瞳に、魂が吸い込まれてしまいそうな気がした。
その後、たどたどしく彼と言葉を交わした。
彼は公爵だった。レイクフォード公爵。聞いたことがある。
───少し遠い存在。
モニカはうつむいて、腕をさすった。
こんな気持ちになったのは、初めてだった。
座席に戻りうしろを振り返ると、ロイヤルボックス席に彼はいた。女王陛下に相槌を打ちながら、一階席の彼女を見つめている。
その後のオペラは、全く集中できなかった。
女王陛下のお気に入りのサミュエルは、よくオペラに同行していた。
あまり歌劇に興味はなさそうだったけれど、あの日のオペラのアリア───『永久に消えぬ愛』──あの曲は好きだと言っていた。
彼に求められて、もう一度歌ったのは、いつのことだったかしら。結婚前の円満な頃だったことだけは、確かだ。
モニカは体を起こし、サミュエルの手を握って彼を見つめた。
「サミュエル⋯⋯」
背すじを伸ばすと、モニカはあの日のアリアを歌った。
恋に敗れた主人公。今のモニカも彼女と同じだった。
真に迫る感情をのせた歌声が、波打つように空気を揺らし、部屋に悲しく広がった。
「サミュエル⋯⋯。覚えてる?」
モニカはサミュエルの頬を撫でると、胸に耳をあてた。
聞こえてくるサミュエルの心音は、三日前より明らかに早く、弱くなってしまっている。
憔悴しきった目で、サミュエルの顔を見つめた。
サミュエルのまぶたがピクピクと動いた気がした。
モニカはサミュエルの頭の両脇に手をついてシーツを握りしめた。
「サミュエル?」
瞼を指でスッと横に撫でた。
お願い───
サミュエルの目が、わずかに開いて閉じた。
湖面の様に光る瞳が、一瞬だけ見えた。




