第3話 昏睡状態のサミュエル
リーデンのイースト・スクエア駅に着いた。
高く大きなアーチ状の屋根が、線路とホームを覆っている。
モニカはプラットホームに降りて、燃えた石炭のにおいがする空気を、ゆっくりと吸い込んだ。
列車から降りてきた乗客達が、彼女にぶつかりながら次々と追い越して行った。モニカもあわてて周りに合わせ、混雑した人の流れに乗った。
駅舎から出ると、道端で客待ちをする辻馬車が並んでいた。
モニカは赤レンガの壁にもたれて、辻馬車が客を乗せて出発しては、戻ってくる様子を眺めていた。
物売りが大きな声を出しながらパイを売っている。朝から何も食べていないのに、まだお腹はすかない。
「公爵夫人?レイクフォード公爵夫人では?」
二頭立ての馬車が道に止まっている。
レイクフォード公爵家の主治医、エバンスがドアから白髪頭を出していた。
「エバンス先生?」
モニカは顔をほころばせながら、早足で馬車に近づいた。
「良かった。さあ、早く乗って」
エバンスがドアから身を乗り出し、モニカに手を伸ばした。
ドアに描かれた、公爵家の鷲と馬の紋章。モニカは後ずさりした。
まだ無理よ⋯⋯
「ほら、早く!」
モニカはエバンスの勢いに押され、差し出された彼の手を取り馬車に乗り込んだ。いつもは穏やかなエバンス。今日は気が立っているようだ。
モニカがエバンスの隣に座ったとたん、馬車は速度を上げて走り出した。
長い眉を険しく寄せたエバンスが、彼女の肩を抱き、軽く揺すった。
「あまり悲観してはいけないよ。レイクフォード公に会いに来たんだろう?」
モニカは急に馬車から逃げ出したくなった。
「エバンス先生もご存じなのね⋯⋯」
エバンスは目を閉じうなずいた。
きっと屋敷のみんなが知ってるわ。私がサミュエルに捨てられることを。
モニカは鞄を強く抱きかかえて、うつむいた。もう、別れは避けられない。
「もっと早く走れないのか?」
エバンスは窓を叩き御者に怒鳴った。速度を上げた馬車がガタガタと揺れた。
どうしてこんなに急ぐのかしら。
モニカは座席に手をついて何とか揺れをしのいだ。通り過ぎる街並み。窓に身を寄せ、記憶をたどりながら国立歌劇場を目で追った。
「エバンス先生。夫は⋯⋯、サミュエルは、元気にしていますか?」
エバンスはまじまじとモニカを見て、組んでいた腕をだらりとほどいた。
「あぁ⋯⋯、そうか、知らないのか」
エバンスは独り言のようにつぶやいた。
「そうだ、こんなに早くボートンから来られる訳がない」
突然、憐れむように眉を下げてモニカを見つめた。
「知らないって、知らないって何を⋯⋯?」
顔をひきつらせて、モニカはエバンスのフロックコートの裾を掴んだ。
エバンスは両手でモニカの上腕を支えて、顔をしっかりと覗きこんだ。
「公爵夫人、ご主人が事故に遭ったんだ」
体が凍りついて、何も言葉が出なかった。
大通りに面して建つ、宮殿のようなレイクフォード・ハウス。
顔見知りの門衛が、エバンスの横に座るモニカに気づき、目を見張った。
馬車は敷地内に進み、正面玄関の階段の前で止まった。義母のメリッサがその階段上で、しきりに歩き回っている。
エバンスに続き馬車を降りてきたモニカに、メリッサは口をポカンと開けた。
「モニカ……どうして……。いえ、それよりエバンス!早くサミュエルを診てちょうだい!」
エバンスは鞄を持って中に走って行った。
モニカは浅く荒い息をしながら、胸に強く手を当てた。
「お、お義母様、サミュエルが⋯⋯ば、馬車の、事故に遭ったと聞きました。意識がないと⋯⋯」
メリッサは顔を両手で覆った。
「お義母様、サミュエルに───」
メリッサがぐらりと頭を揺らしながら、ふらついた。
気の強い義母が憔悴しきっている。モニカは、ぞっとしながらメリッサに駆け寄った。
艶のあるマホガニーのベッドの上に、サミュエルは横たえられていた。
先に案内されていたエバンスがベッドに座っていた。サミュエルの胸をはだけて、聴診器を当てている。
ベッドの足元に立つ牧師は、手を組み祈りを捧げていた。
モニカはサミュエルのもとへ駆け寄った。エバンスが聴診器を下げ、腰をずらして彼女に場所をあけた。
「馬車の車輪が外れて、キャビンが転倒してしまったの。サミュエルは……最初は頭を打っただけだと言ってたんだけど、家の中で急に倒れてしまって⋯⋯」
メリッサが、いつもより高い声で、息せき切って話した。
モニカは震える手で口を抑えた。サミュエルの白い肌は青ざめて、薄い唇は紫色になっている。ピクリとも動かない顔は、まるで蝋人形のようだ。
モニカはベッドにひざまずき、腕を伸ばして彼の反応の無い手を握った。
「サミュエル⋯⋯」
頬の大きなガーゼからは痛々しく血がにじんでいた。
モニカはサミュエルの手の平を、自分の頬に押し付けた。大きな手。指先が冷たい。
「エバンス先生⋯⋯」
救いを求めるように、エバンスを呼んだ。
エバンスはサミュエルのまぶたを指で開き目を覗き込むと、次は頭を調べはじめた。
「ああ、ここも打ってるな⋯⋯」
重々しい声で言った。
モニカは胸元をぎゅっとつかみ、立ち上がった。エバンスがサミュエルの側頭部を触っていた。
「やはり頭の衝撃が、強かったようだね」
サミュエルの栗色の髪の隙間から、赤茶色の内出血が見えた。
「頭の怪我は厄介でね。見た目は軽く見えても、中で血が出て後で急に悪くなることがあるんだよ。公爵がそういう状態だとは断定できないが⋯⋯」
「目を覚ますの?」
後ろに立つメリッサは血走った目をしていた。
「そうですな⋯⋯今はまだなんとも……ただ、このまま昏睡状態が続くと⋯⋯最悪の場合――」
モニカはエバンスから顔をそらし、サミュエルの胸に耳を押し当てた。ドクドクと規則正しい心音が聞こえた。
大丈夫、絶対に……
「申し訳ない公爵夫人、こんな事しか言えなくて」
エバンスのため息が聞こえた。
「モニカ、貴方しばらくここに⋯⋯いられるんでしょう?」
絞り出すような小さな声で、メリッサが言った。
「もちろんです……」
モニカはのっそりと起き上がり、義母を振り返った。
両ひじを抱えたメリッサが、少したじろいだ。
モニカは涙でびしょびしょに濡れた顔を拭い、鼻をすすった。
「私は彼の、妻ですから……」
メリッサは物思いに沈んだ表情でサミュエルを見下ろした。
「サミュエルも……喜ぶわ」
とてもボートンに帰る気にはなれない。彼が目を覚ますまでは。
サミュエルの手を何度もさすった。
大丈夫。必ず目を覚ますわ。
モニカはぎゅっと瞼を閉じ、何度も同じ言葉を自分に言い聞かせた。
街の時計塔が、夜九時の鐘を鳴らした。
モニカはベッドのそばの椅子に座り、祈りながら何時間もサミュエルの様子を見守っていた。
「サミュエル……」
かすれた声で、サミュエルにまた声をかけた。
何度声をかけても、サミュエルには届かなかった。
モニカは立ち上がり、ベッドに座った。
「サミュエル」
強く、彼の体を揺すった。反応はなかった。
これも何度も繰り返していた。
モニカは唇を噛んで、サミュエルを見下ろした。
身をかがめて、紫色の唇にゆっくりとキスをした。
息を止めて彼を見つめた。乾くほど目を凝らした。
相変わらず、彼は蝋人形のように動かない。
「サミュエル。起きて……」
声を震わせながらサミュエルの髪を優しく指でとかした。彼の地肌に触れる指先がチクチクとうずいた。
「元気になってもらわないと、困るわ」
モニカは整えたサミュエルの髪を、今度は手で弄んだ。いつもきちんと整えられたサミュエルの髪が、無防備に乱れている。モニカは弱々しく笑った。
サミュエルの頬に当てられた血のにじむガーゼ。モニカはそっとそれをはずした。
痛々しく走る傷に、目の奥がつんとしみた。
傷口のまわりの血を拭い、新しいガーゼを頬に当てると、モニカは深呼吸をした。
「……あなたに置いていかれたら、私は────」
歯をくいしばって、首を横に激しく振った。
モニカはベッドに上がった。サミュエルの隣に横たわると、彼の体を抱き締めた。
恋い焦がれた彼の香りが、ほんの少しだけ、心を落ち着かせてくれた。
窓から差し込む光が顔を照らしている。まぶたを開けると、目の前には昨夜と変わらない様子のサミュエルが横になっていた。
モニカは唇を硬く結び、サミュエルの顔に手を伸ばして触れた。
「奥様?」
モニカは飛び起きて、声の主を振り返った。
「ミス・ジョーンズ……」
「はい」
メイドのシルビア・ジョーンズが無愛想に答えた。
シルビアは、威圧的な眼差しでモニカを見据えた。十年近くレイクフォード公爵家にいる自分のほうが、上だと言わんばかりに。
「戻られたんですね?」
「え、ええ……」
シルビアはモニカの着ている、くたびれたワンピースに目を向けた。
モニカは両腕で体を隠し、ドアの傍にひかえる若いメイドに声をかけた。
「後で私の着替えを持ってきて貰えないかしら?」
「はいっ、奥様」
顔に幼さを残すメイドが、前のめりで何度もうなずいた。
シルビアが彼女の前に立ちふさがった。
「申し訳ありません奥様。ドレスは全部、処分してしまったんです」
モニカは押し黙ったあと、低い声でつぶやいた。
「どうして」
「こちらに戻られるとは思っていなくて」
シルビアは薄ら笑いを浮かべている。
彼女は初めから、私を公爵家の一員として認めていない。
鞄には、念の為着替えを入れてきた。けれど、とても公爵夫人にふさわしいものではないのに。
「お疲れでしょうから、ご自分のお部屋で休憩なさってください。私とエイミーが旦那様に付き添いますから」
「でも……」
シルビアは苛立たしげなため息をついた。
「体調を崩されては、私たちも困りますから」
「ここにいるだけよ」
シルビアは顎を上げて、綺麗な鼻に皺をよせた。沈黙が続く中、彼女の歯ぎしりがわずかに聞こえた。
若いメイドは血の気の引いた顔で、体を縮めている。
モニカは虚ろな目を伏せた。
「……分かったわ」
彼女と張り合う気力は残っていなかった。




