第2話 病んだ父
モニカはおぼつかない足取りで、番小屋に戻った。
軋む板張りの床。ところどころシミの浮いた壁。茶色のウールのカーテン。
それが今の、彼女の寝室だった。
モニカは首飾りを外し、小さなベッドにどさりと倒れ込んだ。
以前はもっと、ダミアンと対等な関係だった気がする……
首飾りの感覚が残る、うなじをこすった。
きついことが続いて、無気力になってきた。
少しの間、気を失ったように眠った。
目を覚ますと、モニカは例の手紙を持ち、父のもとに向かった。
父の部屋の前。モニカは落ち着きなく、繰り返し手紙をたたんでは開いた。
だんだん、手紙がよれてきた。
離婚のことを、父に伝えなくてはいけないのに。
固く握りしめた手で、やっとドアをノックした。
「お父様? 私よ。いる?」
返事はない。いつもの事だ。
最近父はすっかり耳が遠くなってしまった。本人は年のせいじゃない。昔戦争で爆撃音を聞きすぎたせいだと言うけれど⋯⋯
第四代ウェルズ男爵──モニカの父クリストファーはロッキングチェアに座り、いつものように窓の外をぼんやりと眺めていた。
父の部屋の窓からは、かつてモニカたち家族が住んでいた屋敷、ボートン・ホールがよく見える。
複雑に尖塔が配置されたゴシック様式の巨大な領主館。窓枠が額縁の代わりとなって、まるで一つの絵画の様だ。
モニカは小走りで窓に近づくと、窓とカーテンをきっちりと閉めた。
「おい、モニカ。ひどいじゃないか」
父はひじ掛けに手をつき、立ち上がろうとしたが、力なくまた座り込んだ。
「そんなに悲しそうな顔、見たくないわ」
ここに住み続けるのは、父にとってあまりいいことではないのかもしれない。ボートン・ホールは、もう戻ってはこないのだから。
「父や祖父、歴代ご先祖様達は、あの世で私を罵倒していることだろうよ」
クリストファーは遠い目をして、ロッキングチェアを静かに揺らした。
「お父様。運と、時代が悪かったのよ」
造船所への投資に失敗したクリストファー。莫大な借金だけが残った。
クリストファーは探る様に、モニカのうつろな顔をじっと見つめた。
「何かあったのかい?」
モニカは下を向いて、赤い唇をぎゅっとかんだ。そんなに顔に出ていたかしら。
「サ、サミュエルから手紙が来たの。離婚したいそうよ」
できるだけ、平静な声を出した。
クリストファーのこめかみにさっと青筋が立った。
「その手紙かい?」
クリストファーはモニカに向けて手のひらを差し出し、指をくいくいと上に動かした。
モニカはクリストファーの傍らまで進み、よれよれになってしまった手紙を渡した。
「不貞行為⋯⋯?」
クリストファーの視線が手紙の一点で止まった。
「それは、」
「何たる侮辱!たとえ公爵だと言えど⋯⋯とても許せん!」
モニカは小さく咳払いをした。
「サミュエルは勘違いしているのよ。どちらにしろ離婚する気に変わりはないでしょうけど」
大きな理由が別にあるのだ。
「結婚させるんではなかった。 とんでもない男だ! あのクソ野郎! モニカ、不敬だと言うなよ」
「言わないわ」
クリストファーの剣幕がおかしくて、モニカは思わずクスクスと笑った。こんなに元気な父を見るのは久しぶりだった。
モニカの頬にいつもの輝く血色が戻った。
クリストファーは頷きながら、彼女に両手を広げた。
「お父様……」
モニカは顔をくしゃくしゃにゆがめて、クリストファーにすがり付いた。
番小屋暮らしですっかり細くなってしまった父の腕が、優しく彼女を抱きしめた。
「まだあの男を愛しているんだね」
骨と血管の浮いたクリストファーの手が、モニカのゆるくカールした黒髪をそっと撫でた。
愛するものに愛してもらえない悲しみ。父には痛いほどわかるのだろう。
「ああ⋯⋯、孫が見られなかったことだけは残念だ」
モニカはピクリと肩を震わせた。子供が出来るわけがない。
二人の関係は結婚初日からつまずいた。まともな夫婦だったことは一度も無いのだ。
廊下からヒソヒソと話す声が聞こえる。モニカは立ち上がり、ピンと背筋を伸ばした。
「レナード!サラ!出てきなさい」
間を置いて、サラの背中をレナードがグイグイ押しながら、二人が入ってきた。
「ちょっとやめてよレナード」
サラは足を踏ん張りながら、抵抗している。
「サラが盗み聞きをしてたんだよ。僕はたまたま通りかかっただけなのに」
レナードがサラの後ろから顔だけ出した。
「あんた興味津々だったじゃない!」
「盗み聞きとは情けない。そんな風に育てた覚えはないぞ」
クリストファーは顔をしかめて、首を横に振った。
レナードは軽い足取りでクリストファーに近づくと、手からさっと手紙を抜き取った。
「レナード」
クリストファーの唸る様な強い声もまるで構わずに、レナードは顎に手を当てて手紙を読みはじめた。
「モニカが不貞行為? はっ、公爵はバカだなあ。 モニカのお固さは、修道女にも負けないのに。 浮気なんてするわけないじゃないか」
レナードの品の無い物言いに、クリストファーは大きなため息をついた。
「ウェルズ男爵家は五代目で終わるかもしれん」
五歳年下の双子の弟妹、レナードとサラ。番小屋で暮らすうちに、貴族らしさがずいぶん無くなってきた。
「あんなに押して結婚したくせに。なんて身勝手な奴なの?」
サラが口を歪めた。
そんな頃も、あったわね……
モニカは目を閉じて、一度、深呼吸をした。
「会いに行くの?」
爪を噛みながら聞いてくるサラに、モニカは微笑みかけた。
妹は不安なとき、いつもこの癖が出る。
「ええ、リーデンに行ってくるわ」
「すぐに戻る?」
「……ええ」
サミュエルに引き留められるはずもない。
「僕が一緒に行こうか?」
この、お祭りに行くようなレナードの表情。ただ都会に行きたいだけね。
モニカは笑ってしまわないように、顔を引き締めた。
「レナードとサラはお父様の側にいて。何も心配することはないわ。彼は心ない人ではないのだから」
サラとレナードの背中を軽く叩いた。
「手切れ金をがっぽり貰ってやればいいんだ。 そしたら借金だって⋯⋯」
「やめてくれ……」
クリストファーの打ちのめされた表情に、レナードは口をつぐんで天井を見上げた。
借金と聞くだけで、父は自分を責めて塞ぎ込んでしまう。
現実に向き合えず、お金の管理さえも早々に放棄してしまった。
「レナード、そう言えばあなたクライン・カレッジの──」
レナードがまっすぐに彼女をにらんだ。
モニカは口をつぐんだ。
分かったわ。お父様の前では話したくないのね。
「僕は釣りに行くよ」
レナードは後ずさりをして廊下まで出ると、バタンとドアを閉めた。バタバタとうるさい足音が遠のいていく。
合格通知はレナードの部屋に置いておこう。入学が難しいことは、分かっているようだけど。
クライン・カレッジに行けたなら⋯⋯。そこからまた大学に進んで、医師、弁護士、色んな可能性が広がるのに⋯⋯
モニカは一人でいる気になれず、そのまま父の部屋で本を読むふりをして過ごした。
クリストファーはロッキングチェアに体をあずけ、サラの話に耳を傾けている。
モニカの視線に気づいたクリストファーが、励ますように優しい笑みを浮かべた。
モニカは目をこすり、何とか笑みを返した。
元気を出さないと、父がリーデンについてくると言いかねない。
一年ぶりに、彼に会う。
どうしよう……。まともな服なんてないのに。
レイクフォード公爵家は、貴族の中で一番古い歴史を持つ、筆頭公爵家。贅をこらしたリーデンのレイクフォード・ハウスには、常に二百人以上の使用人がいた。
同じ貴族と言っても、ウェルズ家とは格がまるで違っていた。
私が家庭教師をしているなんて知ったら……この貧しい生活を知ったら、サミュエルは何と思うだろう。
想像するだけで頬が燃えるように熱くなり、モニカは思わずうめき声をもらした。




