第32話 殴られたベネット卿
舞踏室の隣のティールームには、来客用に軽食と飲み物を用意していた。
長いテーブルの上に並べられた銀皿。そこにこんもりと盛りつけられたフィンガーフード。
小さめのテーブルには、複数のグラスと飲み物が置かれている。
サミュエルは、壁際にずらりと並べられた椅子の一つにモニカを座らせると、皿を持って食べる物を物色し始めた。
「モニカ、何がいい?きゅうりのサンドイッチに、ミートパイがあるよ。イチゴとプラムは体に良さそうだな。チョコレートはやめておこうか、昨日のことがあるからね──」
本気で休憩に、……いえ、食事に来たのかしら。
皿に次々と食べ物を取り分けるサミュエルを、彼女は拍子抜けしながら見つめた。
「サミュエル……あの……」
「どうした?何が欲しい?」
サミュエルがさわやかな笑顔ですかさず振り向いた。
こんな人の出入りの多い部屋で、何かするわけないじゃない。
「……プラムを、お願い」
彼はプラムを食べきれないほど皿に取った。
モニカは手を投げ出して椅子にだらりともたれた。
「何だかお酒が飲みたい気分だわ」
サミュエルが顔をこわばらせた。
「アルコールは……そうだな……」
食べ物で山盛りになった皿を彼女の隣の椅子に置くと、彼は飲み物を取りに行った。
戻って来た彼が、目をそらしながら差し出したのは、オレンジジュースだった。
隣の舞踏室から演奏が聞こえてくる。
主催者がいなくても、舞踏会は滞りなく進んでいるようだ。
サミュエルは彼女の隣に座り、かいがいしく世話を焼き始めた。
モニカは食べ物を口元まで運ばれては、雛鳥のように口を開けておとなしく食べた。
一つのパイを彼女と交互にかじるサミュエル。
それがむずむずとくすぐったくて仕方がない。
サミュエルが彼女の唇に付いたソースを指でぬぐって、微笑みながら舐めた。
モニカは降参ぎみに顔を両手で覆った。
「もう……お腹がいっぱい。また太っちゃうわ」
サミュエルは頭を横に傾けて、彼女のお腹を溶けそうなほど優しい目で見つめた。
「サミュエル?」
どうしてそんな、目で見るの?
奥底の意識が、彼の眼差しに応えて、わなないた。
胸の奥から痛みに似たうずきが湧き上がってきた。
彼女の判断力や、理性が次第に消えた。
モニカはいつの間にか、忘我の境に入った。
高く高く舞い上がる感覚。光り輝いていて……眩しい……
「モニカ?」
サミュエルが頬に触れた。
モニカははっと我に返り、頭を激しく横に振って、自分の両頬を何度もペチペチと叩いた。
突然、ざわめきが聞こえた。
オーケストラの演奏が尻すぼみに途切れた。
サミュエルが眉間にしわを寄せて立ち上がった。
「何かあったみたいだ」
ティールームのドアを開けるとベネット卿とぶつかりそうになった。
「ベネット卿、どうかされましたか?」
ベネット卿が青ざめた顔をさっと横にそらした。
「レイクフォード公、公爵夫人。 今日はありがとうございました。すみませんが、このあたりで失礼させていただきます」
固い一本調子な声で言うと、ベネット卿は大股で足早に去って行った。
舞踏室に戻った。
サラが部屋の中程に一人で立っていた。少し離れてミスター・ハント。それを周りが遠巻きに見ている。
モニカの背中にぞわりと寒気が走った。
「モニカ、サラがやらかしたよ」
いつの間にか隣にレナードが来ていた。
「何が、あったの?」
モニカはレナードに小声で恐る恐る尋ねた。
レナードは口元を手でぬぐった。
「サラがベネット卿を殴ったんだ」
笑いをこらえるように、頬をピクピクとさせている。
モニカはサラのもとまで行き、肩を抱いて部屋の隅まで連れ戻した。ベネット卿同様に、サラの顔もひどく血の気が引いている。
その様子を見て、ようやくレナードも真顔になった。
サミュエルがオーケストラに近づいて、バイオリン奏者に何かを話しかけた。少しして快活なポルカの演奏が始まった。
顔を見合わせるばかりで、誰も踊ろうとしない。
サミュエルは深く息を吸い込むと、大きく手を叩いて会場全体に合図送った。
「舞踏会を開いたつもりなのに、おかしいな。今から演奏会に変更しますか、皆さん?」
ちらほらと笑い声が起きて、少しずつダンスが再開されていった。
舞踏室に元の活気が戻ると、モニカはサラを連れて居間に向かった。
サラはソファーに座り、声も出さずに涙を流している。
モニカは妹の隣に静かに座り、穏やかな声で尋ねた。
「どうしてベネット卿を叩いたりしたの?」
サラが小さくうめいた。
モニカは自分の膝に視線を落として、ドレスのひだを何度も伸ばした。
「────って言ったの」
サラがぼそぼそと細い声で何かを言った。
「え?なに?」
サラはしばらく黙り込んだ後、また小さく口を開いた。
「彼が、私のことを……し……尻軽って言ったの」
モニカは目を見開いた。
「し、尻軽? まあ……」
物腰の柔らかかったベネット卿がそんなことを言うなんて。何だか頭が痛くなってきた。
「だけど、叩くのはだめよ」
「分かってる」
サラは背中を丸めて顔を伏せた。
「次会ったときに──」
「次は無いから!」
サラが急に顔を上げて声を荒げた。
さめざめと泣くサラの背中を延々とさすりながら、モニカは天井を見つめた。
ベネット卿を招待したのは間違いだったのね……
サラの相手探しは一からやり直しだわ。
モニカはつま先を立てて、口の前で両手を固く組んだ。
別の大きな気がかりもあった。
女王陛下のところまで、今日の噂が広がらなければいいけど……




