第20話 夫からの誘惑
リーデンに向かい列車は進み始めた。
小さな車両。
暗緑色の座席はふかふかとしていて、床には毛足の短い絨毯がしきつめられている。隣にはサミュエル。向かいの席には誰も座っていない。
駅でサミュエルがこの四人乗りの客車の切符を買い占めていた。
三日前にボートンに向かうときは、三等席の硬いベンチに押し合いながら座っていたのに。
モニカは車窓の下枠にゆったりと腕を置いた。外には青々とした田園風景が流れていた。
「リーデンは変わりない?」
モニカはサミュエルを振り返った。
「……シルビア・ジョーンズを辞めさせたよ」
新聞に目を向ける彼の横顔が険しくなった。
モニカは窓ガラスに顔を寄せた。延々と続く、ひとけのないなだらかな丘陵。さっきまでポツポツといた羊達もいなくなっていた。
「彼女があの手紙の差出人だったのね」
間を置いてサミュエルの声が聞こえた。
「知っていたのか」
「確信はなかったけど……」
「同室のエイミーが、彼女の机から僕宛の手紙を見つけたんだ」
モニカは姿勢をゆっくりと正した。
どうも彼女は敵に回してはいけない相手を、敵にしてしまったようだ。
少し、気分が引き締まった。
「……ミス・ジョーンズは、何か理由を言ってた?」
横目で彼を見つめた。
何も言わないサミュエルの眉間がピクピクと動いた。
モニカは思わず下唇を噛みしめた。彼女はサミュエルへの積もり積もった想いを、打ち明けたのだろうか。
「……紹介状は書いてあげて」
モニカは座席に沈み込んでぼそりと言った。
「ありえない。君は何を言っているんだ?彼女は僕らの仲をめちゃくちゃにしたんだぞ。悔しくはないのか?」
「彼女だけのせいじゃないわ」
サミュエルが手に持った新聞をぐしゃぐしゃに握りしめた。
「君は……君は結婚三日目からずっと、あの女にあばずれと中傷されていたんだぞ!?」
ミス・ジョーンズは、そんなに早くから手紙を送りつけていたの?
モニカははっとして、獰猛に見開かれた緑色の瞳を見つめた。
結婚三日目の夜、彼は初めから異常に機嫌が悪かった。
「あ、あなたもしかして、あの晩私の浮気を疑っていたの?」
ぽかんとしたサミュエルの顔が、急にのぼせたように赤く染まった。
「そんな、私……、想いもしなかった……」
モニカは声を詰まらせながら頬に両手をあてた。
サミュエルが腕を組んでそっぽを向いた。
疑惑を裏付けるように、私はあの日彼を拒絶してしまった。
ああ、過去に戻って自分の首を絞めてやりたい……
モニカは彼の頬にそっと触れた。あのときの彼をなぐさめたかった。サミュエルはあごに力を入れながらも大人しく撫でさせている。
赤くなった頬に事故の傷跡が浮き出ていた。思わずそこに口づけをすると、サミュエルは吐息をもらして彼女を膝に抱き上げた。
「逃げないんだね」
少しだけ棘のある、ひそめた優しい声。
モニカは胸に手をあてて、こくりとうなずいた。
そもそも、締め切られた車両、逃げる場所もない。
サミュエルが彼女のうなじにシャープな鼻をこすりつけた。両腕が彼女のお腹にぴったりと巻き付いている。
モニカは首を斜め前に傾けて、身震いをした。
「もう誰にも僕らの邪魔はさせない」
「サミュエル、紹介状がないと、まともな仕事につけないわ」
彼の手に手を重ねて、目をぎゅっと閉じた。
「シルビア・ジョーンズが飢えようが、僕の知った事じゃない」
モニカは首に唇をはわせるサミュエルを押しのけた。
まるで胸に何本もナイフをつき刺されたような気分だった。
「どうして君が泣きそうな顔になるんだ」
サミュエルが天を仰いだ。
「……あなたに冷たくされる辛さを知っているからよ」
声を震わせながら答えると、サミュエルは体をこわばらせた。
「君は癇にさわるほど気にもとめていなかったじゃないか……」
「そんなの強がりに決まっているでしょう、ねえ、紹介状は書いて。彼女は私と同じなの。あなたに恋をして自分を見失っただけなのよ!」
同じ男性を愛する彼女との妙な一体感が、モニカを突き動かしていた。
切実に見つめ続けるモニカを、サミュエルは新種の生き物でも発見したかのようにまじまじと見つめた。
沈黙が続いたあと、彼はわざとらしいため息をついた。
「……分かったよ。彼女は君に感謝なんてしないだろうけどね」
モニカはうなずいた。シルビアが生活に困らなければそれでよかった。
「君の思考回路は理解できない時があるよ」
一向に気にせず、満足げにほほえむモニカを見ながら、サミュエルはひどく顔をしかめた。
「ずいぶん余裕だね。 僕が彼女を選んだら君はいったいどうするつもりなんだ」
客室の酸素がいきなり途絶えた気がした。
モニカは血の気のひいた顔を激しく左右にふり、彼の胸にひしとしがみついた。
サミュエルの体が震えている。彼は背もたれに寄りかかって、我慢しきれないように肩を揺らして笑いはじめた。
つむじに唇が押し付けられて、モニカの張り詰めた体がほぐれた。
やっと息ができた。
彼の柔らかく輝く視線は、猫のように目尻のあがった黒い瞳からぽってりとした唇へと移った。
「今日の君は、どこかいつもと違う」
ゾクゾクするようなしゃがれた声に、モニカの全身に甘いうずきが走った。
彼の顔が近づいている。目を閉じた彼女の唇に温かい唇が重なった。
ゆっくりとした情熱的な口づけに、つま先がピンと張ってゆるんだ。モニカはサミュエルの体にくたりともたれて、我を忘れてキスに答えた。
彼にもっと近づきたくて、頭がどうにかなりそうだった。
サミュエルが頬ずりをしながらささやいた。
「モニカ……今晩……」
「ええ……」
列車は途中の駅に止まった。
ホームにいる、ふくよかなご夫人がこちらを見て鞄を落とした。モニカは彼の膝から瞬時に座席に飛び下りて、素知らぬ顔をした。
三時間ほどすると、蛇行するリーズ川が見えてきた。橋の上を歩く、大勢の人達。馬車。水面に日光が反射している。
もうすぐリーデンだ。
モニカはサミュエルに手を取られながら、イースト・スクエア駅のホームに下りた。相変わらずここは人で混み合っている。
のんびり歩いても今日は誰もぶつかってこない。服装のせいか、それとも彼がそばにいるからか。
サミュエルは我が物顔で彼女の腰に手をまわしていた。
ターミナルの出口に向かう二人の横を走り抜く人物がいた。
金褐色の髪。華奢な体。胸騒ぎがした。立ち止まりその人物は勢いよく振り返った。
「サラ!」
モニカはあんぐりと口を開けた。斜め下を見下ろしながらサラが行くてをはばんでいる。
「どうしてここにいるの!」
モニカはサラの腕を引いて、通行人の邪魔にならないように脇に寄った。
「お父様とレナードは?一人なの?」
サラは唇を引き結んでうなずいた。
「同じ列車に乗ってたの?」
黙ってまたうなずいた。
「どうしよう。お父様が心配だわ。レナードには世話なんて出来ないし。サラ。ボートンに帰りましょう。私も一緒について──」
「だめだ」「嫌よ!」
サミュエルとサラのするどい視線が、彼女に注がれた。
「ひどいわモニカ、私を一生お父様の世話に縛り付けておくつもり?わたしだってモニカみたいに結婚したいの。社交界デビューがしたいのよ!」
大きな鞄を抱きかかえたサラが、まわりの目も気にせずに叫んだ。
社交界デビュー?
モニカは周囲の視線にそわそわと顔を巡らせながら考えた。
そう言えばサラは十六……あら、十月には十七歳?私は十六歳になってすぐだった。
「ご、ごめんねサラ、私、他のことで頭がいっぱいで……」
「でしょ?そうでしょ?忘れてたでしょう!?」
サラが鼻息荒く言った。
また、サミュエルの情けに頼るしかない。
「サミュエル……」
「まるで双子の母親だな……」
サミュエルが小声でつぶやいた。
「え?なに?」
ムスッとした顔で彼は視線も合わせない。
「とりあえずうちの屋敷に戻ろう。何だか急に疲れた」
そう言うとサミュエルは興奮ぎみの二人を残し、一人ホームをすたすたと歩きはじめた。




