第18話 燃える温室
そのとき、緊迫した騒ぎ声が聞こえた。
レナードだわ。
サミュエルがゆっくりと体を起こして、崩れた前髪をかきあげた。
モニカは知らず知らずに詰めていた息を大きく吐き出した。
サラの声も聞こえる。いったいこんな遅くに何だろう。
モニカも、もぞもぞと体を起こした。
やや気落ちした表情の彼が、モニカの額に優しく口づけをした。
彼の顔はどこかほっとしているようにも見える。
モニカは一瞬、心の奥が空っぽになったような気がした。
ボタンをもたもたと留め直していると、激しくドアが叩きつけられた。
「モニカ、火事よ!ボートン・ホールが燃えてる!」
サラの声に、はっと二人は顔を上げた。
窓の外、暗闇の中で橙色の煙が上がっていた。
近づくうちに全貌が見えてきた。燃えていたのは屋敷ではない。あの、温室だった。
もう手が付けられないほど火が回って、炎が天井を突き破っている。火の粉と灰が、百ヤードほど離れたモニカの前まで届き、はらはらと落ちた。
バケツで池の水を温室にかけ続ける大勢の使用人たち。ふいにサミュエルがシャツの袖をまくった。モニカは無表情に彼の腕をつかんだ。
「モニカ、行かないと……森に燃え移ったら大変だ」
サミュエルは彼女の手を無理やり離した。
「君は家に戻れ!」
彼はレナードとともに燃え盛る温室に向かった。
サラが鼻をすすりながらモニカの隣にやって来た。
「モニカ、温室が……」
「ええ……」
「お母様の温室が……」
「そうね……」
涙声のサラに、彼女は淡々と答えた。
サラが母を美化するのは仕方がない。知らないのだから。
それにしても、すごい勢いだわ。
まばたきもせずに火事を見ながら、モニカは突然、喜劇を観たように不謹慎な笑い声をもらした。
「モニカ?」
サラの怪訝そうな声が、彼方から聞こえた。
あとかたもなく、燃えてなくなればいいのに
以前にも、そう思ったことがある。
埋葬を途中で逃げ出した、七歳の冬の日だった。
そんなこと、忘れてたのに……
立て続けに割れるガラスの音に耳をすました。血が沸き立った。行き場なくくすぶっていた思いが、火事に熱狂していた。
炎が、彼女の思いに答えるようにごうごうと高く燃えあがった。
────温室のまわりに、驚き尻込みする人々が見えた。
モニカは喉をごくりと鳴らし、顔を両手で覆った。
私は何を考えているの?サミュエルとレナードはあの火に向かって行ったというのに。
「……二人が心配だわ。ちょっとだけ見てくる」
モニカはうなだれながら温室に向かった。
「待って!わたしも行く!」
「サラは危ないから先に帰って。お父様は知らないでしょう?心配してるかもしれないわ」
少し一人になりたかった。
サラが口を尖らせて、渋々うなずいた。
温室まで半分ほど進んだところで、こちらに歩いてくる人物が見えた。
炎光に照らされて、ゆったりと歩く黒い影が浮かびあがっている。
モニカは煙に咳き込みながら、ランタンを掲げた。
「喜んでくれたかい?」
モニカはびくりと立ち止まった。深みのある成熟した声。ダミアンの声だった。
「……なんの話?」
じりじりと片足を後ろに引いた。
ダミアンは燃えさかる温室を振り返った。
「これは君へのつぐないだ」
モニカは眉をひそめながら首をひねった。
ダミアンがマッチに火をつけて吹き消した。一瞬、彼の物狂おしい顔がはっきりと見えた。
「……う、うそでしょう?」
モニカの体に激しい悪寒が走った。
ダミアンがこの火を付けたの?
あちこちを見回しながら、モニカは数歩後ずさりをした。サラの灯りはもう見えなくなっている。
「どうして……」
モニカは顔を片手でぬぐい、再び視線をダミアンにむけた。
「どうして?またとぼけて……君の得意技だね」
気だるい笑い声が聞こえた。
「どうして僕が君に利用され続けたと思う?」
モニカは息を飲んで、横に向きを変えた。
無意識に彼の下心を利用してきた。自分のずるさに、気付きたくはなかった。
近づいたダミアンがランタンの灯りに照らされた。
黒襟にワインレッドのジャケットが、焦げている。
モニカは、震える手でブラウスの胸元をつかんだ。
本当に、彼が火をつけたのね……
焦げた袖の部分を、ダミアンがふいに顔をしかめておさえた。
「ダミアン、あなた火傷を……」
ダミアンが息を深く吸い込んで、微笑んだ。
「君は再会したときの晩餐会を、覚えているかい?」
「早く手当をしないと……」
「僕の話を聞くんだ。君には、その義務がある」
モニカは唇を噛んで、両手を強く握りしめた。
ダミアンはゆっくりとうなずき、話を続けた。
「あのとき、君は十五歳だったかな。歯の抜けていた小さな女の子が、あまりにも綺麗になっていたから、僕はとても心が動かされたよ」
「ダミアン、もうやめましょう。アビゲイルがどれだけ心配しているか……」
モニカは絞り出すように声を出した。
ダミアンはそのまま話を続けた。
「君の目を見れば、あの日のことを忘れていないのはすぐに分かった。なのにお人好しの君は、帰りにはもう僕のことを受け入れて笑っていたね」
「あなたの話術に乗せられただけよ」
ダミアンが初めて招かれたボートン・ホールの晩餐会。
あの時は、苦労話を笑いに変える、彼の話しぶりに引き込まれていた。
「僕はあの日、君を手に入れると決めた」
低く、落ち着いた声でダミアンは言った。
モニカは目を見開いて、再び後ずさりをした。彼は本気じゃなかったはずだ。
「愛してるなんて、誰にも言ったことはない。……君だけだ」
「嘘よ」
ダミアンが顔をゆがめた。
「僕にも感情はあるんだよ。モニカ……」
温室から、痛いほどの熱風が吹いた。
モニカはとっさに身を翻して、番小屋に向かい走りだした。




