第17話 二度目の誓いのキス
モニカは父の部屋に皿を片付けに行った。
ベッドに横になって、眠る父。
テーブルの上の皿には、嫌いな魚のソテーがそのまま残っていた。モニカはいつものように、肩を落とした。
多めに入れたパンとスープは全部なくなっている。
少し安心した。
食器を片付けている間に、サミュエルは食堂からいなくなっていた。視線を巡らせていると、サラがテーブルを拭きながら言った。
「公爵はモニカの部屋に案内したわ」
走った後のように、モニカの心臓が激しく打ち始めた。
この家にゲストルームなんて無い。夫婦が同じ寝室を使う。十六歳のサラにとっても、それが普通のことなのだ。
サラの部屋で一緒に寝させてとは、言えなかった。
ノックをしてドアを開けると、ベッドに座っていたサミュエルが顔をあげた。
ラウンジジャケットを脱いで、ウエストコート姿になっている。
モニカは静かに中に入り、立ったままあちこちに視線をさまよわせた。
彼が座ると小さなベッドがより小さく見える。
あそこで、本当に二人で眠るの?
モニカは初夜のあの日よりもそわそわとしていた。あの時は、こんなにもこじれた夫婦になるとは、思っていなかったのだ。
「お、お父様は、借金のこと、なんて?」
モニカはエプロンを脱ぎながら尋ねた。
「え?借金?……ああ、その話はしてないよ」
彼はどこか上の空だ。
「お父様にも言わなかったの?一時間近く話していたじゃない」
サミュエルは肩を上げて、すとんと落とした。
「……説教されっぱなしだったんだよ。君とのことを」
モニカは口を覆った。気が遠くなりそうだった。
結婚がうまくいかなかったのはサミュエルのせいじゃないのに。
彼は、ウェルズ男爵家を救ってくれたのに。
「許して……」
消え入りそうな声で謝った。
「いいんだ。ウェルズ卿は僕の知らない君の話をしてくれた」
「私の話?」
サミュエルは少しの間黙りこんでモニカを見つめた。
「何度も、リーデンまで来てくれていたんだね」
モニカはひるんで、サミュエルに背を向けた。
別居中、リーデンに行っては彼に会わずに帰り、貴重なお金を無駄にした。
そんな情けない話、してほしくなかったのに。
「モニカ。こっちに来て」
モニカはしょぼくれたため息をつくと、サミュエルのもとにとぼとぼと近付いた。
「君は毎日泣いていたと聞いたよ」
サミュエルはモニカの両手を握り、ざらついた声でつぶやいた。
「お父様は大げさなのよ……」
モニカは足元を見ながら、か細く答えた。
サミュエルが少しだけ落ちつかなげに唇を舐めた。
「ウェルズ卿が……ウェルズ卿が言うには、君は今でも僕のことを……」
モニカは目を潤ませて身構えた。サミュエルはまるで全てを理解したかのように、口を一文字に閉じてうなずいた。
彼はどこまで私を丸裸にするつもりなんだろう。
「君の不貞を疑った僕は本当に馬鹿だった。カートライトに怯える君を見てようやく気づけたよ」
サミュエルは静かに言いながら、彼女の手の甲を親指で優しく撫でた。
モニカは目を閉じて彼の手を強く握りしめた。
「お義父さんにもさんざん言われたよ。……そうだ、君は僕の手紙を彼に見せただろう」
「誰にも見せるなとは書いていなかったもの……」
横を向いて唇を少し尖らせた。
サミュエルが小さく声を出して笑った。
「お義父さんは少し調子が悪そうだね。今度、エバンスに診てもらおうか」
「サミュエル……」
モニカは気づけば彼の首に抱きついていた。
「ありがとう、サミュエル。もう、言葉では言い尽くせない……。これからあなたにどうやって、どうやって返していけばいいのか……」
サミュエルが、彼女の目を物言いたげにじっと見つめた。
「なに?」
「モニカ、キスを」
サミュエルが耳元でささやいた。
温かい息が耳の内部まで入り、モニカの背中にしびれが走った。
まさか、サミュエルも、体の見返りを求めているのだろうか。
頭の中に温室でのダミアンがよみがえった。
モニカはサミュエルの肩を掴んだ。
そしてうっすら開いたサミュエルの唇に、かたくこわばった唇を用心深く一瞬あてた。
ときめきの欠片もないキス。
なのにサミュエルは、瞼を開けるとまばゆいほどの微笑みを見せた。
「これでもう、貸しは全て返してもらったよ」
「サミュエル……」
モニカは彼の隣に力なく座り、深くうなだれた。
「ごめんなさい」
「何が?」
わずかに目を見開いた彼を、口を引き結びながら見つめた。
モニカは彼の両頬に手を添えて、改めてキスをした。
思いを込めた、つたなくて長いキス。
思えば、自分からキスをしたのは今日が初めてかもしれない。
彼が、昏睡状態の時を除いては。
頬を染めてゆっくりと唇を離すと、ほうけた顔のサミュエルが目に入った。
妙にくすぐったくて、モニカは髪をしきりになでつけながら、ごまかし笑いをした。
ふいに妙案を思いついた。
「もう、寝ましょうか。私は食堂の長椅子で寝るわ」
腰を上げたモニカの腕を、サミュエルがつかんだ。
「行かないでくれ」
立ち上がり、モニカを抱きしめたサミュエル。
彼女の両肩を持ち、今度はやけにまっすぐに目を見つめながら、そっと口づけをした。
頭の中で、教会の鐘の音が鳴り響いた。
まるで、聖壇前で誓った、あのときのキスだ。
モニカは結婚式の日を思い出して、少し神聖な気分になった。
サミュエルが彼女を抱き上げ、ベッドの上にうやうやしく降ろした。
モニカは胸の上で固く両手を組んだ。体が小刻みに震えている。
これは、そういう流れなの?
モニカは部屋をキョロキョロと見回した。洗面器も、バケツも無い。もしあの日と同じ失敗をしたら、もう、乗り越えられないかもしれない。
ピンと張りつめたサミュエルの表情。彼もきっとあの日の事を思いだしている。
これは決して、醜い行為なんかじゃない。夫婦なら当然のことよ。
モニカは呪文のように頭の中で何度も唱え、自分に言い聞かせた。
サミュエルが覆い被さった。口づけが繰り返されて、次第に官能的なものになった。手が体をゆっくりとさまよっている。
モニカは息を飲んでサミュエルを見つめた。
彼の情熱的で、少し苦しそうな表情。乱れた吐息。
彼に目を奪われる一方で、どこか冷静な自分がいた。
モニカはあの闇が襲い来る瞬間に、おののきながら身構えていた。
体をこわばらせてただ横たわるモニカをじっと見つめると、サミュエルは彼女の艶やかな黒髪に顔をうずめた。
「モニカ、……どうして欲しい?」
かすかなつぶやきが聞こえた。
「どうって……」
「君の嫌がることはしたくないんだ」
サミュエルの声がガサガサにかすれていた。
モニカは泣きたくなった。
私に構わずひと思いに奪ってくれたらいいのに。そうしたら本物の夫婦になれるのに……
モニカはサミュエルを抱き締めて、体を強く押し付けた。サミュエルの口から小さなうなり声がもれた。
彼はモニカの襟元のボタンを、ためらいがちにひとつ外した。




