2話
顔を上げる。
俺の目の前に―――巨大な怪物がいた。
ゴリラを3倍くらい大きくしたような感じの、緑色の巨体。
あぐらをかいて座り、その手には人の身体が握られている。
そして、それをむしゃむしゃと食べている。
「げっ―――夢だろ、これ?」
俺は混乱していた。
状況を飲み込めるわけもなかった。
ゴリラが人を喰う様子を呆然と見つめていた。
きっとこれはフィクションの世界だと信じて。
「殺せ!」
「面白くないぞ!!」
すると、頭上から声が聞こえた。
ふと目を向けると、貴族のような出で立ちの人々がいた。
彼らはゴリラに夢中のようだ。
そして、彼らと俺との間には、鉄の柵があった。
上と下を隔てるように、柵があった。
それを見た瞬間、俺は理解した。
ここは闘技場だ。
コロッセオだ。
人間たちとあのゴリラを戦わせる為の、特設ステージなのだ。
周りを見渡してみる。
中央のフィールドを囲むようにして、段々になった観客席が同心円状に広がっている。
そして赤や白で描かれた旗が、あちこちに立っている。
これが闘技場のシンボルらしい。
観客は、中央で起きている出来事に釘付けのようだ。
歓声やヤジを発したり、食べ物を頬張っていたりする。
本当に、スポーツ観戦に来た客のようだ。
―――うおおおぉぉォォ!!
すると、前方から男の声がした。
その男は、全身を鎧に包み、両手で剣を握っている。
剣闘士、といった所だろうか。
そして、その男はゴリラめがけて突撃していった。
鎧を着こんでいるとは思えない速度と身のこなし。
だが、ゴリラは虫を払うように、手で男を吹き飛ばしてしまった。
吹き飛んだ男は、俺の真横1メートルぐらいを通過し、壁に激突した。
「ぐはァッ―――」
「大丈夫ですかッ―――ァ?」
俺は男の元へ駆け寄り、その姿を目にした。
だがそのとき、俺は呆然と立ち尽くしてしまった。
男の身体は、壁にめり込んでいた。
そして、身体だったものの欠片が辺りに飛び散っている。
視界が赤色に染まり、鼻を強烈な血の匂いが襲う。
17年間の人生で、初めて見た光景だ。
俺は嘔吐した。
「いいぞぉデカゴリラ!」
「さっさと殺しつくさんかい!」
観客たちは、この凄惨な光景を見て喜んでいるらしい。
実に狂っている。
身体の中のものを出し尽くして口を拭う。
顔を上げると、ゴリラが俺の視界に入った。
相変わらずあぐらをかいていて、俺には気づいていないようにも思える。
だが、確実にこちらを知覚しているという確証が、俺にはある。
頭の上にチョウチンアンコウのような第三の目があって、俺をじっと睨んでいるのだ。
どうやら、そちらの注意は常に俺に向けられているらしい。
本能からくる恐怖。
俺はこいつに食われる。
そして、その光景を娯楽として提供させられる。
その時だった!
「グルゴォオオオオオ!!!」
ゴリラがこちらに猛ダッシュしてくる!!
俺のものの50倍はあろうかというその歩幅で、急激に俺との距離を詰める。
あまりに急すぎて、俺は動けなかった。
―――バダンッ!!
ゴリラは俺の目の前で急停止した。
地面が揺れ、土煙が舞う。
猛スピードで動いていた物体が静止した反動だ。
そして、大樹のように太い首を曲げて、顔を下方に向けた。
両目と第三の目とで、じっと俺を睨む。
「は―――?死ぬ」
「グルゥ?」
俺の全身の神経系が、この異常な状態に警鐘を鳴らす。
血の臭いに加えて、食べカスの臭いや体臭が、突き刺すように俺の嗅覚を刺激する。
視界いっぱいに広がる肉の壁の迫力に、おそろしくて鳥肌が立った。
それよりも、異常なのは身体のフォルムだ。
全身が緑色の体毛に覆われているが、大胸筋に当たる部分には毛が生えていない。
その代わり、その黒茶色の胸部だけが、瓦のように異常に発達している。
そこだけに昔の騎士の甲冑が着せてあるかのような、アンバランスな見た目だ。
「ウオオオオオ!!」
すると、ゴリラはドラミングのような動きを始めた。
大きな鳴き声をあげながら、左右の胸板をドンドンバンバンと叩く。
やがて、胸板の黒茶色が光沢を帯びた銀色へと変化していった。
また、熱を帯びているのか、煙のようなものも昇っている。
「出たぞ!グリーンピースの決まり技!」
「さっさとやれ!殺せ!」
「にしても変な服を着た戦士だな―――まぁいい行け!」
観客たちが煽るように声をあげる。
今更だが、あのゴリラの名はグリーンピースというらしい。
そしてあのドラミングは、グリーンピースが敵を殺るときのルーティンのようだ。
そこで、俺はある予想に至った。
グリーンピースの胸板が異常発達しているのは、敵にぶつかり、圧迫させる為ではないだろうか。
スピードと質量の相乗効果で、威力は絶大なものとなる。
鋼鉄の壁と激突した巨体の動物が、呆気なく吹き飛ばされる光景が頭に浮かんだ。
では、これから俺はあの胸板と闘技場の壁とに挟まれ、プレスされてしまうということだろうか。
どこか非現実的だった死の感覚が、論理的に生々しくなった。
どういう風に痛いんだろう。
意識を失うまでにどれくらいかかるんだろう。
だが、死ぬのは嫌だ。怖い。
やり残したことがぱっと思いつかないくらい、やり終えたことがまだ少ない。
しかし、どうやってゴリラから逃げるというのだ。
このフィールドは、ゴリラがバンザイしても届かない高さの柵で覆われている。
柵を越えて逃げ出すのは、まず無理だろう。
フィールドには、備え付けられた二つの出入り口がある。
だが、それらは内側から開く事ができなさそうだ。
地面を掘ろうにも、道具も時間もない。
ゴリラを倒すのだってもちろん無理だ。
というか、下手な動きをすればすぐにゴリラに捕まえられるだろう。
おそらく、今は様子を伺われているだけだ。
まずは冷静に―――
「グァアア!!」
―――あまりに唐突だった。
奴の右腕が、事前モーションもなく水平に振られた。
まるで、さっきと同じくハエを払うみたいに。
俺は顔を背けた。
左側から砂嵐のような突発的な風が吹いてくる。
観客の歓声が大きくなる。
俺は左半身に攻撃をくらって吹き飛ばされ、壁に激突。
そして全身を打ち付けて即死―――
―――しなかった。
「え―――?」
何も起きなかった。
身体のどこも痛くない。
驚きながらも、俺は背けていた顔を左側に戻す。
紫色のサッカーボールのような膜が張られていた。
モスキート音を低くしたような音。
パチ、パチと飛ぶ火花。
そして、紫の五角形や六角形に阻まれるようにして、動きを止めたゴリラの右腕。
「俺は―――助かったのか?」
俺は状況を理解しようとした。
これはおそらく、バリアだ。
バリアが張られている。
そして、奴の攻撃を間一髪で食い止め、俺を守ったのだ。
じゃあ、誰が俺を助けたんだ?
「―――サイキック」
そう唱える、少年の声が聞こえた。




