2話「少年との邂逅」
小さい頃に、映画で見た記憶がある。
ここは闘技場だ。
コロッセオだ。
「殺せ!」
「面白くないぞ!!」
中央のフィールドを囲むようにして、段々になった観客席が同心円状に広がっている。
観客は、中央で起きている出来事に釘付けのようだ。
そして、怒号やヤジが飛び交う。
最前席には、頑丈そうな柵に守られた、位の高そうな人々が座っている。
なにか食べ物を頬張って、娯楽のようにこちら側を見る姿はまるで動物園に来た客だ。
娯楽のように、ではなく娯楽そのものなのだろう。
そして、俺は彼らを楽しませる側の役割に置かれたのだろう。
「な―――ッ!」
なぜなら俺の目の前には―――巨大なモンスター。
ゴリラを3倍くらい大きくしたようなおぞましい怪物が、人をむしゃむしゃと食べながらあぐらをかいているからだ。
奴は一見、俺という人間に気づいていないようだ。
だが、確実にこちらを知覚しているという確証が、俺にはある。
頭の上にチョウチンアンコウのような第三の目があって、俺をじっと睨んでいるのだ。
どうやら、そちらの注意は常に俺に向けられているらしい。
本能からくる恐怖。
俺はこいつと戦い、こいつに食われる。
その光景を娯楽として提供するという役割が、俺に与えられているのだ。
「あんな奴、どうやったって逃げられっこないじゃん。うわ終わったよ」
ん?いや待て。
そもそも、どうしてこんな事になっているんだ。
俺はたしか、教師に指名されて国語の音読をしたちょっと後、強烈な眠気に襲われたのだ。
そして、抗えずに眠気に身を任せたところ、教室ではなく、この闘技場で目を覚ました。
今日はやけに眠かったが、ただの偶然だったのだろうか―――
「グルゴォオオオオオ!!!」
その時だった!
ゴリラがこちらに猛ダッシュしてくる!!
俺のものの50倍はあろうかというその歩幅で、急激に俺との距離を詰める。
異常な速さ。
3秒も経てば、きっと無力に捕まえられてしまう。
あまりに急すぎて俺は動けなかった。
バダンッ!!
ゴリラは俺の目の前で急停止した。
猛スピードで動いていた巨体が静止する反動で、地面が揺れ、土煙が舞う。
そして、大樹のように太い首を曲げて、顔を下方に向けた。
今度は両目で、俺を睨む。
俺の全身の神経系が、この異常な状態に警鐘を鳴らす。
血の臭いに加えて、食べカスの臭いやゴリラそのものの体臭が、突き刺すように俺の嗅覚を刺激する。
視界いっぱいに広がる肉の壁の迫力に、おそろしくて鳥肌が立った。
それよりも、異常なのは身体のフォルムだ。
全身が群青色の体毛に覆われているが、大胸筋に当たる部分には毛が生えていない。
その代わり、その黒茶色の胸部だけが、瓦のように異常に発達している。
そこだけに昔の騎士の甲冑が着せてあるかのような、アンバランスな見た目だ。
「ウオオオオオ」
すると、ゴリラはドラミングのような動きを始めた。
大きな鳴き声をあげながら、左右の胸板をドンドンバンバンと叩く。
やがて、胸板の黒茶色が光沢を帯びた銀色へと変化していった。
また、熱を帯びているのか、煙のようなものも昇っている。
「行け!殺せ!」
「さっさとやれ!」
観客たちが煽るように声をあげる。
どうやらあのドラミングは、このゴリラが敵を殺るときのお決まりの行動らしい。
そこで、俺はある予想に至った。
あの胸板は、敵を張り倒し、圧迫させる為に、異常に大きく、硬く発達しているのではないだろうか。
スピードと質量の相乗効果で、威力は絶大なものとなる。
俺の頭に、前方から迫ってくる鋼鉄と激突した巨体の動物が、呆気なく吹き飛ばされる光景が浮かんだ。
では、これから俺はあの胸板と闘技場の壁とに挟まれ、プレスされてしまうということだろうか。
どこか非現実的で漠然としていた死の感覚が、論理性によって現実のものとなった。
だが、死ぬのは嫌だ。怖い。
やり残したことがぱっと思いつかないくらい、やり終えたことがまだ少ない。
しかし、どうやってゴリラから逃げるというのだろう。
そこそこ広いこのフィールドは、ゴリラがバンザイしても届かないほどの高さの柵で、全面を覆われている。
まず、柵を越えて逃げ出すのは無理だろう。
そして、フィールドに備え付けられた二つの出入り口は、内側から開く事ができなさそうだ。
内側に取っ手はなく、外側から押して開く仕組みのようだ。
地面を掘ろうにも、道具も時間もない。
というか、下手な動きをすればすぐにゴリラに捕まえられるだろう。
おそらく、今は様子を伺われているだけだ。
「グァアア!!」
だが―――あまりに唐突だった。
奴の右腕が、事前モーションもなく、ハエを払うようにして水平に振られた。
俺は顔を背けた。
左側から砂嵐のような突発的な風が吹いてくる。
観客の歓声が大きくなる。
俺は左半身に攻撃をくらって吹き飛ばされ、柵に激突。
そして、地面に全身を打ち付けて即死―――
―――しなかった。
何も起きなかった。
俺は俯いていた顔を上げる。
すると、俺の左側に、紫色の、線だけのサッカーボールのような膜が張られていた。
モスキート音を低くしたような音と、パチ、パチ、と飛ぶ火花。
そして、紫の五角形や六角形に阻まれるようにして、動きを止めたゴリラの右腕。
俺は状況を理解しようとした。
これはおそらく、バリアだ。
バリアが張られている。
そして、奴の攻撃を間一髪で食い止め、俺を守ったのだ。
「―――サイキック」
突如、ゴリラの右手が逆再生のように横まで動き、後ろで左手と組まれた。
そして、両足が払われた。
大きな土煙を起こしながら、モンスターは地面に倒れた。
「おっさん、大丈夫か?」
目の前に、小さな右手が差し出される。
俺はそれを掴むようにして、勢いよく立ち上がった。
「あれ、『サイキックボーイ」か?」
「あぁ、おそらくそうだ。変幻自在の超能力で自分よりデケェ敵も倒す。闘技場トップクラスの実力者だぜ―――」
観衆がざわめく。
俺は少年に声をかける。
「ありがとう―――君は?」
「また、あとでな」
「ゴギャアアアア!!!」
その言葉をきっかけにしたように、ゴリラが体制を立て直した。
そして、改めてこちらを攻撃しようとしてくる。
少年もまた、ゴリラの方へ体を向ける。
「サイキック!!」
すると、突然少年が叫んだ。
その叫びに呼応して、少年の左手が紫やピンクに発光する。
まばゆい光は、だんだんと大きくなってゆく。
いや、違った。
左手が発光しているわけではないようだ。
何かが、その左手に装着されている。
少年は左手を突き出すようにして、左手のパワーを放出した。
すると、ゴリラの身体が宙に浮いて、だんだん上昇していく。
なんとか抗おうとするが、対象にぶつかりに行く為の足がなければ、もはやその胸板も無用の長物だ。
「―――ッ!」
そして、柵を越え、闘技場の建物すらも越えていく。
どんどん高度を上げていく。
「おりゃァァ!」
少年が声を上げると、更に巨体は上昇する。
ゴリラを見ようと観衆たちは顔をあげるが、あまりに高くて首がこれ以上曲がらないといった様子だ。
雲にすら届きそうだ。
だが、ありったけの高度を稼がれた所で、ふとゴリラは落下を始めた。
「エ、エ、エアァアアアアア!!!」
落下によって、聞こえてくるゴリラの悲鳴が乗数的に大きくなる。
俺たちには見えていなかったが、押し寄せる死の予感に、ゴリラの顔は恐怖で引きつっていた。
そして―――
バァアアアアアン!!
ゴリラが地面と激突した。
高所からの落下でだんだん速度が上昇していって、最後は目視で負えない速さとなっていた。
衝撃もとんでもなかったようで、とてつもない爆音が轟いた。
落下につられて、10秒ほど地震が起きた。
そしてあたりには土煙が舞い、2分ほど消えなかった。
また、揺れには弱いのだろうか、少年がきつく吐いているようだ。
「おおおおおお!!」
「やるじゃん『サイキックボーイ』」
「その巨体はなんなんだー?えー?」
土煙が消えた瞬間、地面に倒れた巨体の姿が露わになり。
観衆の拍手や歓声が絶頂を迎えた―――。
ゴリラは即死だった。
高所落下に伴うショック死。
あれだけの力と身体を持った存在でも、落下死のイメージをここまで与えられてしまえば、ショックは大きいはずだ。
皮肉なことに、頑丈なはずの胸板がクッション材になって、落下の衝撃で死ぬのを防いだらしい。
だが、割れずにそのままの形を保っていたのは、硬さを誇示できたという意味では僥倖だったのだろうか。
あのおぞましい巨体は、今や白目を向いて地面に伏している。
にしても、あの少年は一体何者なのだ。
だが、まずは命の恩人に対して、礼を言おう―――
―――少年が血を吐いて倒れていた。




