第12話 博望坂
新野の風が、にわかに殺気立ち始めた。
孔明が軍師となってすぐ、曹操軍の重臣夏侯惇が攻めかかってきた。
無名の軍師の品定めのようだ。
曹操軍が十万と号する大軍を率いて南下している。対する劉備軍は数千。まさに多勢に無勢、普通に計算すれば「詰み」の局面だ。
「……廖化殿。あまり身を乗り出すと、見つかりますよ」
博望坡の起伏に富んだ林の中。俺――高衛(叔誠)は、共に伏兵を命じられた若き将・廖化の腕をそっと引いた。
廖化は元黄巾党という経歴を持つが、その瞳には実直な熱意が宿っている。
「すまない、高殿。だが、軍師殿の初陣だ。我ら若手がしくじれば、関羽・張飛の両将軍に合わせる顔がない」
廖化が緊張するのも無理はない。今回の作戦は、諸葛孔明が提示した「極めてハイリスクな仕様書」に基づいている。
二人の視線の先には、主君・劉封がいた。
今回の策では、劉備様と劉封が「敗北」を装って敵を誘い込み、この林に火を放つことになっている。俺と廖化、そして関羽殿の養子、関平殿が率いる部隊の任務は、火計の火種を確実に守り、敵の退路を断つための「奇襲班」だ。
「……叔誠、準備はいいか」
劉封が、馬を下りて低く構えながら俺に問う。その顔には、趙雲殿との修行で培われた粘り強さと、父・劉備に認められたいという切実な願いが混在していた。
「準備は万端です。……若殿、くれぐれも深追いはなさらず。我らの役目は、敵を討つことではなく、敵を『焼く』という工程を完遂させることにあります」
俺は、懐に隠した火打石を確かめた。
現代のSEだった頃、サーバーの不具合を予測して事前に対策を打つのは得意だった。
だが、目の前で迫りくる「夏侯惇」という名の巨象を、数本の火矢で転ばせようとするこの計画は、あまりに綱渡りに見えてきた。
やがて、平野の方から地響きが聞こえてきた。
夏侯惇の精鋭部隊が、わざとらしく退却する劉備軍を追って、この狭い博望坡へと流れ込んでくる。
「来たぞ……!」
廖化が剣を抜こうとするのを、俺は制した。
「まだです。敵の殿が、あの枯れ木を通り過ぎるまで……」
計算通りだ。夏侯惇は、劉備様を討ち取る功名心に駆られ、地形の危うさを無視して突き進んでいる。
やがて、孔明が放った合図の火矢が、夕闇の空に弧を描いた。
「今だ! 火を放てッ!」
劉封の号令が響く。
俺は廖化と共に、あらかじめ仕込んでおいた枯れ草の山に火を投げ込んだ。
折しも吹いてきた強風が、猛烈な勢いで炎を煽る。瞬く間に、博望坡は真っ赤な地獄へと変貌した。
「火だ! 伏兵だ! 退け、退けッ!」
敵軍の悲鳴が、爆ぜる木の音に混じって聞こえてくる。
俺は、煙に巻かれながらも、逃げ惑う敵の小隊の前に躍り出た。
(……子龍殿に教わった通りに。迷うな、真っ直ぐに……!)
槍を繰り出す。趙雲殿のような神速ではないが、少なくとも自分を狙う刃を冷静に見極め、廖化と背中を合わせながら活路を開く。
「叔誠、右だ!」
劉封の剣が、俺の死角から迫った敵を斬り伏せる。
だが、炎の熱にあてられたか、劉封の瞳に功名心の火が灯るのが見えた。敗走する敵将の旗へ向け、さらに奥へと踏み込もうとしている。
(……マズい。このままだと、ここで功を焦って関羽殿に叱責されるパターンだ!)
「若殿、深追いは無用です! 炎が回る前に、我らも脱出を!」
俺は、敵陣に突っ込もうとする劉封の馬の轡を、強引に掴んで引き止めた。
「放せ叔誠! 夏侯惇の首はすぐそこだぞ!」
「いいえ! 軍師殿の指示は『焼き払うこと』です。ここでの深追いは作戦の例外になります。生きて戻ることこそが、父上への最大の忠義です!」
俺の必死の形相に、劉封は一瞬呆気にとられたが、すぐに毒気が抜けたように笑った。
「……ふん、分かったよ、小言の多い軍師殿。廖化、撤退するぞ!」
「承知!」
三人は炎の海を背に、闇夜を駆け抜けた。
背後では、曹操軍の精鋭たちが、火と煙の中で自滅していく阿鼻叫喚が続いていた。
本陣に戻り、燃え盛る山を静かに見つめる孔明の姿を見たとき、俺は安堵とともに背筋が凍るのを感じた。
彼は一度も剣を振るうことなく、ただ「論理」だけで十万を焼き尽くしたのだ。
「……叔誠。あの方がいれば、俺たちは負けない気がするな」
劉封が晴れやかな顔で言った。
だが、俺は知っている。孔明というOSは、味方に対しても時として冷徹な「最適化」を要求することを。
劉封がバグとして処理されないための戦いは、まだ始まったばかりだった。




