第11話 伏龍
建安十三年、春。
新野の街に、新たな「風」が吹き抜けた。
「……ついに、お見えになったか」
俺――高衛は、政庁の門前で劉封の数歩後ろに控え、その光景を網膜に焼き付けていた。
劉備様に付き添われ、悠然と歩を進めてくる一人の青年。羽扇を手に、綸巾を戴き、鶴の羽を織り込んだような真っ白な道着を纏っている。
諸葛亮、字は孔明。
前世の知識では、もはや神格化すらされている「三国志」最高の天才軍師。
(……なんだ、このプレッシャーは)
SEだった頃、一度だけ、業界で「伝説」と呼ばれているアーキテクトと仕事をしたことがある。
その男は、こちらの書いたコードを一瞥しただけで、自分たちが数ヶ月かけても気づかなかった構造的バグを秒で指摘してみせた。
今、目の前を歩く青年からは、それと同じ、あるいはそれ以上の「圧倒的な知性の質量」を感じる。
彼がいるだけで、この場のログが、空気が、すべて書き換えられていくような錯覚。
「皆、紹介しよう。この方こそ、私が三度隆中を訪ね、ようやくお迎えすることができた伏龍、諸葛孔明先生だ」
劉備様の声は、これまでにないほど弾んでいた。まるで、失われていた最後のパーツが完璧に嵌まったジグソーパズルの完成を喜ぶ子供のようだ。
対照的に、後ろに控える関羽殿と張飛殿の顔は険しい。
関羽殿は長い髭を蓄え、目を細めて孔明を値踏みするように睨んでいるし。張飛殿に至っては、今にも「この若造が」と毒づきそうな気配を隠そうともしていない。
「劉備様、過分なるご紹介、恐縮に存じます。……亮はただ、天下の行く末を案じる一介の耕作者に過ぎませぬ」
孔明が深々と一礼する。その声は澄み渡り、聞く者の心を落ち着かせる響きを持っていた。
と、その視線が、劉備様のすぐ傍らに立つ劉封に向けられた。
「……して、こちらの若武者は?」
「ああ、紹介が遅れた。私の養子、劉封だ。」
劉封が一歩前に出て、武人の礼を取る。
「劉封と申します。先生の噂は父上から予々(かねがね)伺っておりました。これからは先生のご指導を仰ぎたく、よろしくお願いいたします」
劉封の挨拶は、趙雲殿との修行の成果か、以前よりもずっと落ち着き払ったものだった。
だが、俺の心臓は、さっきから壊れたサーバーのように激しく打ち鳴らされている。
孔明の視線が、劉封を通り抜け、後ろにいる俺に止まったからだ。
(……見られている)
ただの観察ではない。まるで暗号化された中身まで解析されているような感覚だ。
孔明の瞳は、穏やかでありながらも、氷のような冷徹な論理性を湛えていた。
「失礼、後ろの従者殿、名前は?先ほどから、非常に興味深い『気』を感じますが」
孔明が、羽扇を軽く動かしながら微笑んだ。
「……滅相もございません。高衛、字を淑誠と申します。私はただ、若殿の影として、その身を守るだけの端くれに過ぎません」
俺は極力、感情を殺して答えた。目立ってはいけない。この男は、俺が「未来の知識」というイレギュラーなデータを持っていることを、直感的に察知しかねない怪物だ。
「影、ですか。……なるほど、影が濃いということは、それだけ照らす光が強いということ。劉封殿、貴方には良い臣がついているようだ」
孔明はそれだけ言うと、再び劉備様の方を向き、政庁の中へと入っていった。
嵐が過ぎ去ったような静寂が、門前に残る。
「……なあ、叔誠。あの方が、あの単福先生が『自分など足元にも及ばない』と言ったお人か」
劉封が、少しだけ声を震わせて尋ねてきた。
「はい。間違いありません。あの御方は……この乱世という名の不具合だらけの環境を、根本から覆してしまえるほどの御方です」
劉封は不思議そうな顔をしたが、俺の言葉を否定はしなかった。
その日の夜。
俺は自室で、徐庶から授かった兵法の竹簡を広げていた。
だが、文字が頭に入ってこない。
諸葛孔明の登場。それは劉備軍にとって、最強のアップデートだ。
しかし、俺にとっては――そして劉封にとっては、破滅へのカウントダウンが加速することを意味している。
史実では、孔明は劉封の処刑を劉備に進言する。
『劉封は剛勇であり、劉備亡き後に劉禅(実子)が制御できなくなる恐れがある』という、極めて合理的で冷徹な政治的判断(バグ取り)として。
(あいつに……孔明に、『劉封は残しておくべきリソースだ』と認識させなければならない)
そのためには、これまでの「良い子」のままでは足りない。
軍事的な実績、政治的な立ち回り。そして、孔明の予測モデル(天下三分の計)を壊さない範囲での、独自の最適化が必要になる。
「……まずは、最初の試練か」
俺は窓の外、新野の夜空を見上げた。
北の空には、曹操の影が巨大な壁となって迫っている。
まもなく、博望坡の戦いが始まる。
孔明の「初陣」であり、劉備軍が初めて「軍師の知略」によって大軍を打ち破る、歴史の転換点だ。
そこが、俺と劉封が生き残るための、最初のデバッグ作業になる。
「若殿を、バグとして処理させてたまるかよ」
俺は、前世で徹夜作業の前にいつもしていたように、強く両頬を叩いて気合を入れた。
目の前の竹簡に、孔明という巨大な存在に立ち向かうための、新たな「仕様書」を書き込むために。




