第10話 雪の静寂と、去りゆく背中
別れは、唐突だった。
「 母が、曹操の手に落ちた……。行かねばならぬ 」
絞り出すような徐庶の言葉に、新野の宿舎は沈痛な空気に包まれた。
劉備は涙を流して引き止めたが、親孝行を重んじるこの時代、母を人質に取られて動かぬ者はいない。
高衛は、劉封と共に城門の外まで徐庶を見送りに行った。
数日前、自分に兵法の注釈を授けてくれた賢者の背中が、今はひどく小さく見える。
「 単福先生……本当に行ってしまうのですか 」
劉封が、堪えきれないといった様子で声をかける。
徐庶は馬を止め、振り返った。
その視線は劉封を通り越し、一瞬だけ後ろに控える高衛に留まった。
「 ……高衛殿。あの時の言葉、忘れることなく 」
「 ……はっ。肝に銘じております 」
高衛は深く頭を下げた。
徐庶が去り際に劉備へ遺した、「 諸葛孔明 」という名の処方箋。
それがこの軍に、そして劉封の運命にどのような劇薬となるか、高衛には分かっていた。
それからというもの、劉備の姿は新野から度々消えた。
「 三顧の礼 」。
雪が降り積もる険しい山道を、劉備は関羽と張飛を連れて何度も往復していた。
「 叔誠。父上は今日も隆中へ向かわれた。……そこまでして会いたい男が、本当にいるのだろうか 」
劉封は、留守を預かる練武場で、手持ち無沙汰そうに木剣を振っていた。
関羽たちが「 あんな若造、縛り首にして連れてくればよい 」と息巻いているのを耳にしている彼は、どこか不安げだった。
「 若殿、焦ることはありません。大魚を釣るには、それ相応の餌と時間が必要なものです 」
高衛は、趙雲から教わった基礎的な突きを繰り返しながら答えた。
( ……孔明が来れば、俺の役割はさらに『 裏方 』に徹することになる。あの天才の眼力からは、何も隠し通せないからな )
変に策を弄して孔明に疑われるのは得策ではない。
今はただ、劉封の側近として、与えられた職務を完璧にこなす。
現代のSEが、上位設計(孔明の戦略)に従って、バグのないコード(劉封の行動)を積み上げていくように。
「 俺は、その諸葛孔明という男が怖いのやもしれん 」
劉封がふと、動きを止めて呟いた。
「 ……怖い、ですか? 」
「 ああ。父上の心があれほど奪われている。もし、その男が俺を『 不要 』だと判断したら…… 」
若さゆえの、鋭い直感だった。
高衛は、突き出した槍をゆっくりと収め、主君の目を見た。
「 ……その時は、私が貴方の『 必要 』を証明してみせます。若殿は、ただ真っ直ぐに、劉備様の息子として、そして一人の将として磨かれれば良いのです 」
「 お前は、いつもそう言ってくれるな 」
劉封は照れくさそうに笑い、再び木剣を構えた。
激しい雪が、二人の足元を白く染めていく。
やがて、新野に春の訪れと共に、一人の青年が劉備に伴われてやってきた。
羽扇を手に、悠然と歩くその姿こそが、後の世に「 智の結晶 」とまで謳われる男、諸葛亮孔明。
高衛は、政庁の末席からその姿を仰ぎ見た。
ここからが、本番だ。
歴史の「 仕様書 」は、すでに書き換え不可能なほど精緻に組み上げられようとしている。
( 諸葛亮……あんたに、この劉封を殺させるわけにはいかないんだ )
高衛の胸の内で、静かな闘志が燃えていた。




