45.クラウスとデブ伯爵
ドラコニア帝国には、こんな物語がある。かつて、極悪非道な男が一人いた。その生涯でたった一度だけ行った善行とは、拾った小麦を一握り、物乞いに分け与えたことだ。女神はこの僅かな善縁を憐れみ、男が深淵に墜ちた後、一握りの小麦を深淵へ差し伸べ、男が掴めるようにした。
物語の結末で、男は這い上がることに失敗した。あまりに利己的な男は、深淵にいる他の罪人たちを自分と共に救おうとは一切考えず、独り占めしようと力いっぱい小麦を引っ張ったため、茎は千切れてしまった。
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クラウスの両親はいずれも血統の純粋な貴族だった。家運が傾く前、クラウスは魔法学校の軍事クラスに在籍し、デブ伯爵と同級生だった。没落後、高額な学費を捻出できなくなり、平民向けの剣術クラスへ編入した。幸いなことに、クラウスは軍事の才能より剣術の才覚にはるかに恵まれていた。両親が病気で相次いで他界した後、剣術クラスの学費さえ支払えなくなった。剣術教師は成績優秀なクラウスのため奨学金を申請してくれたが、学費と生活費以外に、両親が残した借金の返済まで抱えていた。覚悟を決めたクラウスは魔法学校を中退し、冒険者となった。
冒険者には9段階のランクが設けられており、上からS、A、B、C、D、E、F、G、Hの順となる。Sが最上位、Hが最下位で、初登録のクラウスは当然Hランクとなった。
冒険者登録の手数料は小金貨二枚。クラウスは一文無しだったため、費用はデブ伯爵が立て替えてくれた。
軍事クラス在籍時、二人は顔見知りだったが、一度も言葉を交わしたことがなかった。正確に言えば、クラウスの方が一方的にデブ伯爵を見下していた。デブ伯爵もクラウスに軽んじられていることを察していた。その理由は、デブ伯爵の母親の出自ではなく、彼自身の人柄にあった。
二人の初めての会話は冒険者ギルドの門前で交わされた。当時16歳のクラウスは金銭に窮し、捨てられた子犬のように門前の階段にうずくまっていた。そこへちょうどデブ伯爵が馬車で通りかかった。馴染みの顔を見かけ、嫌われていると承知しながらも、デブ伯爵は厚かましく話しかけに行った。
「持っていけ」デブ伯爵はクラウスに銭袋を差し出した。
「これは私に小麦を与えているつもりか?」クラウスは皮肉たっぷりに言った。
「後で一握り返してくれればそれでいい」
「貧しさはこの金を受け取りたがり、良心は許さぬ。」
「此方も其貧しさにこそあげへ、良心にはあげまず。」
「自分が善人だとでも思っているのか?」
「人を全面的に評価しようとすれば、善人などこの世に一人も存在しない。平民に対しては確かに俺は悪人だが、お前に対してだけは、自分は善人だと自覚している」
「なぜ貴族にだけ優しくする?お前の母親だって貴族ではないだろう?」
「話したところでお前には理解できまい」
「商人の何が悪い?」クラウスは怒りをあらわに叫んだ。「少なくとも借金まみれの没落貴族である俺よりはましだ!」
「血統の純粋なお前には一生分からない」
クラウスはデブ伯爵を横目で睨み、銭袋を受け取ろうとはしなかった。
「金がないのは事実だろう?」
「俺は物乞いではない。施しなど要らない」
「お前は物乞いより貧しい。物乞いには借金などないのだ。それに、俺は物乞いに施しを与えたことは一度もない」
クラウスは腹立たしさにデブ伯爵を睨みつけ、一方デブ伯爵は右手で銭袋をクラウスの方へ差し出した。二人はこのまま膠着状態を続け、日が沈むまで動こうとしなかった。
「ぐうぐう……」先に屈したのはクラウスの腹だった。
「ご飯を食べる金もないのだろう?」デブ伯爵は得意げな様子でクラウスを眺めた。
「ぐうぐう……」クラウスの腹が再び空腹を訴えた。
「空腹に耐えるのは心地よいか?」
「ぐうぐう……」三度目、腹の音が鳴り響いた。
「もしここで餓死したら、俺が一番高価な棺桶を買ってやる。棺桶代すら捻出できない身の上だからな。」
「必ず返す。」クラウスはデブ伯爵を横目で軽く睨むと、銭袋をひったくるように奪い取った。
デブ伯爵はにっこり笑い、「十倍返しを忘れるな」と言い放った。
クラウスは十二年間、生と死の境に身を置く冒険者生活を送り、ついにAランクへ昇格を果たした。そして、女性魔術師のソフィーと夫婦となった。
二人の絆は、ある冒険から始まった。当時、クラウスはDランクの冒険者で、後に妻となるソフィーもまたDランクだった。
彼らの目標は、ダンジョンの第8階層にいるグレートホワイトパイソンを倒すことだった。そのため、彼らは4人パーティを結成した。クラウスは剣士として前衛を担い、残り三名の仲間はすべて後衛を担当した。一人目はソフィー、職業は魔術師、ランクD。二人目はプリヴァティ、職業は癒術師、ランクC。三人目はケインズ、職業は魔術師、ランクCである。
パーティが意気揚々とダンジョンの第8階層に到着した時、彼らはグレートホワイトパイソンを見かけなかった――正確には、見かけたのだが、それは既に死体となっていた。全長33メートルのパイソンを死体に変えたのは、高さ1.5メートルの巨大なメカ蜘蛛だった。このメカ蜘蛛は第16階層に生息するモンスターで、鋼鉄の外殻と心臓に似た動力コアを備えている。殻は武器や防具の素材として加工でき、コアは魔法アイテムの動力源として使えるのだ。
クラウスとソフィーの無謀な行動が、パーティ全体をかつてない窮地に陥れた。
クラウスはリーダーであるケインズの撤退命令を無視し、執拗にメカ蜘蛛へ強襲を仕掛けた。彼の剣の刃は鋭利だったが、メカ蜘蛛の硬い外殻に触れた瞬間、水に石を投ずのごとく、まったく刃が立たなかった。眉根を寄せ、焦りを込めて叫んだ。「硬すぎる!」
その間、ソフィーも軽率に魔法の杖を掲げ、十二筋の鋭い氷槍を放った。だがこれらの氷槍も、外殻に接触した途端、貫通することは叶わなかった。彼女は慌てふためき、絶叫した。「嘘!」
二人が絶望に陥ったまさにその時、ケインズは突然狼の形をした稲妻を放ち、機械蜘蛛に正確に命中させた。この一撃で蜘蛛は煙を上げ、一時的に動きを止めた。ケインズはこの好機を逃さず、「クラウス、今だ!関節を攻撃しろ!」と叫んだ。
ケインズの言葉を聞き、クラウスは気を奮い立たせ、剣の柄を強く握り締め、メカ蜘蛛の関節を狙い、必殺の一撃を繰り出そうと構えた。だが、巨大な化け物を前に、クラウスの心に迷いがよぎった。我に返り剣を振り下ろそうとした刹那、メカ蜘蛛は突如活動を再開し、強烈なビームを一筋放った。
このビームはパーティの癒術師プリヴァティを直撃した。彼女は苦痛にうめき、ビームの当たった箇所から黒煙が立ち昇った。その光景を目にし、クラウスは焦りに駆られた。これが最後の好機だ。クラウスは深く息を吸い、全身の筋肉を緊張させ、すべてをこの一撃に賭けた。
彼は構えを整え、全身全霊を込めてメカ蜘蛛の関節へ剣を突き刺した。今回こそ、剣の先端はついに硬い外殻を打ち破り、関節の奥深くまで食い込んだ。ところがメカ蜘蛛は耳をつんざくほどの金切り声を上げ、体を激しく震わせ、強大な衝撃波が瞬く間に周囲に拡散した。
クラウスの剣は無事関節に突き刺さったものの、抗いようのない勢いを持つ衝撃が荒れ狂う波のように彼をなぎ倒し、地面に叩きつけた。その瞬間、世界の時間が止まったかのように凍りついた。
クラウスは右腕が引きちぎられる感触を捉え、肉を引き裂かれる凄まじい激痛が全身を駆け巡った。右腕は不自然な角度に捻れ、鮮血が滝のように噴き出し、足下の地面を真っ赤に染め上げた。
クラウスとプリヴァティが倒れるのを目の当たりにし、ソフィーは狼狽えきった。ケインズは、自らのパーティの戦力が目の前の敵とはあまりに歴然とした差があることを悟り、即断即決で負傷者を伴い、危険な戦場から速やかに撤退した。撤退の最中、ケインズはクラウスの切り落とされた右腕を回収することを忘れなかった。
任務においてリーダーの命令に従わなかった責任を問われ、クラウスはソフィーとともにケインズにパーティから除名された。だがこの挫折が思いがけず、向こう見ずで数奇な運命を背負う二人を結びつけるきっかけとなった。二人は寄り添い合って生き、最高のコンビとして歩み始めた。
その後の十年間、クラウスとソフィーは失敗から教訓を汲み取り、ケインズの知恵と沈着さを手本に、少しずつ成長を遂げた。クラウスの剣術はますます冴えを増し、ソフィーの魔法の腕前も日に日に強大になった。幾多の試練と危機を共に乗り越えるたび、二人の絆はますます深まっていった。
やがてクラウスは自身の努力と不屈の信念をもとに、Aランク冒険者へ昇格することに成功し、ソフィーもBランクへ昇級を果たした。長きにわたる冒険の日々の中で、二人は気づかぬうちに互いに恋心を抱くようになった。晴れ渡ったある日、二人は夫婦となるため、結婚式の門をくぐった。
クラウスが50歳を迎えた年、妻と共に長年の冒険者生活から引退し、町に温かな酒場を開いた。二人は静かで幸せな日々を送っていた。だが運命は悪戯を仕掛けてきた。突如赤き竜が襲来し、折悪しくクラウスは外出して留守にしていた。
クラウスが慌てて我が家に駆け戻った時、眼前の光景に胸が引き裂かれる思いに襲われた。苦楽を共にし、寄り添って生きてきた最愛の妻が地面に横たわり、全身を血にまみれている。妻をこの姿にした宿敵は、まさに目の前に佇んでいた。
クラウスはためらうことなく剣を抜き、柄を両手で強く握りしめ、生涯最速のスピードで赤竜に連続の斬撃を叩き込んだ。彼の攻撃は稲妻よりも速く、一撃ごとに赤竜の血が飛び散った。激痛に苦しんだ赤竜は太い尻尾を振り回し、側面からクラウスの腹部を強打した。クラウスは勢いよく弾き飛ばされ、壁に激突して鈍い衝突音を響かせ、大量の砂塵が舞い上がった。
クラウスは顔中を血に塗れ、傷だらけの身となった。それでも彼は立ち上がった。剣を地面に突き立て、困難を乗り越えて起き上がった。その時、赤竜は鋼鉄のような右の鉤爪を掲げ、クラウスへ襲いかかってきた。クラウスは避けることなく、共に散る覚悟で真正面から攻撃を受け止めた。自身のすべてを賭け、かつてない最強の一撃を繰り出した。剣閃はまばゆく輝き、夜空を駆け抜ける流星の如く、赤竜を瞬く間に重傷に追い込んだ。
激闘の末、赤竜は傷を負って撤退した。クラウスも力を尽くし、戦場に崩れ落ちた。折しもデブ伯爵が駆けつけ、彼を城へ連れ帰り治療を施した。
気絶から目を覚ましたクラウスは、見知らぬ部屋のベッドに横たわっている自分に気づき、辺り一帯に漂う得体の知れない雰囲気に戸惑った。
「ソフィーは?ソフィーはどうなった?生きているのか?ソフィーはどこにいる?早く教えてくれ!」クラウスは興奮のあまりデブ伯爵の服を掴んで引っ張り、焦りと不安に満ちた瞳で詰め寄った。興奮が抑えきれず、声は震え上がっていた。
「落ち着け」デブ伯爵は努めて声を穏やかに保ち、荒れ狂うクラウスの感情の嵐の隙間を探しながら諭した。「落ち着け、クラウス。君の妻は、もう亡くなった。」
「嘘!ソフィーが死ぬはずがない!そう、絶対に嘘だ!昼に外出した時、彼女は元気そうにしていた!死ぬわけがない!ありえない!こんなことが起きてはいけない!生きている、ソフィーはきっと生きている!」
クラウスの感情は荒れ狂う大波のように制御不能になり、鎮まることを知らなかった。昼間家を出る際に見たソフィーの穏やかな笑顔が脳裏に蘇り、彼は自制心を完全に失った。「そうだ、竜の心臓!竜の心臓と竜の涙さえあれば、きっとソフィーを蘇らせられる!」
「目を覚ませ、クラウス!それは根拠のない伝説に過ぎない!」
「伝説なんかじゃない!竜の心臓と涙があれば、ソフィーは生き返る。絶対に彼女を救い出す、救わなければならない!クーバーグ、あなたの屋敷に竜心と竜の涙がある。私は知っている!貸してくれ、頼む!ソフィーさえ蘇れば、何だってする!生涯一度の願い、貸してくれ、お願い!」
「クラウス、落ち着け。それはただの迷信。それに、竜の心臓と竜の涙は伯爵家代々受け継ぐ家宝であり、他人に気軽に貸し出せる品物ではない。」
「頼む、クーバーグ!」クラウスはベッドの上でひざまずいた。「ソフィーを救ってくれ!彼女を失うわけにはいかない!何でもやる、人を殺すことだって構わない!お願い!」
自分の前にひざまずくクラウスを見て、デブ伯爵の胸中は複雑な思いに駆られた。やがてやむを得ず頷き、代々の家宝である竜の心臓と竜の涙をクラウスに譲ることを承諾した。肯定の返事を聞いて、クラウスはようやく顔を上げた。
だが、デブ伯爵の言葉通り、クラウスが竜の心臓と竜の涙を使っても、妻のソフィーは蘇ることはなく、冷たい遺体のままだった。結果が証明したのは、竜の心と竜の涙で死者を生き返らせられるという話が、ただの伝説に過ぎないという事実だ。
その後、恩義に報いるため、また自らの誓いを守るため、クラウスはデブ伯爵邸の執事となり、以降、城で暮らすようになった。




