43.料理長レオン
レオンはデブ伯爵邸の料理長で、今年46歳。気配りのできる妻と穏やかな娘に恵まれている。40歳から伯爵邸で働き始め、これまで6年間、毎日真心を込めて料理を作り続けてきた。
一ヶ月前、レオンはいつも通り、伯爵邸で必要な食材を買い出しに出かけた。
「だいたいこれで十分だ。いつものように、城まで届けてくれ」レオンは6年間付き合いのある業者の主人に、いつもの穏やかな口調で話し、目に親しみを宿らせた。
「最近、イノシシを仕入れたんだが……よろしかったら見てみないか?」主人はためらいがちに切り出した。
「イノシシ肉か」レオンは少し考えてから言った、「出して見せてくれ。」どういうわけか、主人の様子がいつもと違うと感じた。全身に緊張が張り詰め、声まで震えている。
「そ、それが困ったことに……イ、イノシシが生きたままなんだ」主人は急にどもり始め、目線をさまよわせた。「よ、よろしければ、私が案内して、見に行きませんか?」
「連れて行け。」レオンは疑いの目で主人を眺めると、額に細やかな汗が浮かんでいるのに気づいた。何か隠し事を抱えている様子だ。目を合わせて真意を探ろうとしたが、主人は巧みに視線を逸らした。自分の気のせいではない、レオンは内心つぶやいた。主人は誰かに脅されているに違いない。そうなら、同行しない方が賢明かもしれない。前方に危険が潜んでいる可能性がある。だが、長年築いた主人との友情、そして生きたイノシシへの好奇心から、レオンは真相を確かめるため、ついていくことに決めた。
「つ、着いた……こ、ここだ」主人はレオンを一軒の豚小屋へ案内し、何かに怯えているかのように体を震わせていた。
「ぶう……ぶう……」
イノシシの鳴き声が響いた。主人は嘘をついていない。豚小屋の柵の中には、計六頭のイノシシが閉じ込められていた。
レオンは傍らに立ち、柵の中のイノシシを上から下までじっと眺め、生きた獲物を食卓の絶品料理へ仕上げる調理法に胸を躍らせ思いを巡らせていた。
レオンがイノシシに見入っている隙に、主人はこっそり姿を消した。その直後、マントをまとった男が小屋の中へ踏み入れ、顔は暗闇に覆われ、表情をうかがい知ることはできない。
「伯爵邸の料理長、レオンか?」マント男がレオンに問いかけた。
「私に何か用か?」レオンはあたりを見回し、食材業者の主人がいつの間にか消えたことに気づいた。やはり罠だ。来るべきではなかった!心臓の鼓動が速まり、警戒心を強め、マント男を睨み据えた。
「一つ、頼みたい用事がある」マント男の声には、断る余地を与えない強硬な圧力が滲み出ていた。
「まともな用事ではないだろうな」レオンは冷ややかに笑い、マント男を目で釘付けにした。相手が黒いマントから突然武器を取り出すのではないかと警戒しながら、頭の中ではこの場を逃れる手段を必死に巡らせていた。
「お前にとって、この上ない好機だ」
マント男はそう言いながら、マントの内側へ手を差し入れた。レオンは緊張のあまり一歩後退し、顔を伝った汗が乾いた地面に滴り落ちた。
幸い、マント男が取り出したのは鋭いナイフではなく、重みのある銭袋だ。軽く揺らすと、金貨同士がぶつかり合う澄んだ音が響いた。
「この中に大金貨が10枚入っている。用件が済めば、さらに10枚追加で渡す」マント男は慌てふためくレオンの様子を満足げに眺め、視線に嘲りを宿らせた。
「これほど気前がいいとは」レオンは口を開いた、「もしかして、伯爵に毒を盛れというのか?」
「やるか、やらないか?」マント男の視線は冷たい光を放つ刃のように、年老いたレオンの身に突き刺さった。
「お断りする」レオンは言い放つと、まっすぐ玄関へ向かって大股で歩き出した。背中の衣服に広がる大きな汗染みが、内心の緊張と不安を露わにしている。
「後悔することになる」マント男は遠ざかるレオンの背中を見つめ、意味深な笑みを唇に浮かべた。
追跡されるのを恐れ、小屋を出たレオンは重い体を引きずりながら必死に走った。
追ってこなくてよかった。レオンは内心思った。20枚の大金貨は確かに魅力的だ。自分だって金が嫌いなわけではない。だが、もしデブ伯爵が毒殺されれば、料理長である自分が真っ先に疑われるのは必定だ。
一ヶ月が過ぎ、レオンはこの出来事をすっかり忘れかけていた。ところが昨日、マント男がレオンの娘を誘拐し、脅迫してきた。兵士が城に到着する前にデブ伯爵を殺害しなければ、娘の命はない、と。
レオンに選択肢はなく、激しい葛藤の末、ついに覚悟を決め、震える両手で伯爵の夕食に毒を盛った。だが、伯爵は何か気づいたのか、その晩はまったく食欲が湧かず、ワインを二杯飲んだだけで、香り高い夕食に一口も手をつけなかった。
心を込めて調理した料理が使用人によってすべて厨房へ運び戻されるのを見て、レオンは焦りのあまりその場で足踏みをし、汗が雨のように流れ落ちた。今日中に伯爵を始末できなければ、明日兵士が城に到着した瞬間、愛する娘を永遠に失うことになる。
真夜中、レオンは両手で顎を支え、ベッドに腰掛けて思いを巡らせていた。他の者が静かに臥床している時間、レオンの精神は普段の三倍も研ぎ澄まされていた。必死に考えを巡らせれば巡らせるほど焦りが募り、過剰な思考のせいでこめかみの血管が一本一本浮き上がっていた。彼の心の中では、激しい心境の変革が起きていた。
彼は窓際へ歩み、窓を開けて外を眺めた。澄んだ満月が夜空に高く掛かり、身に染みる冷たい風が正面から吹き付けてきたが、レオンはそれらに一切気に留めなかった。月の光も冷風も無視し、指で窓枠を強く押し固め、遠くの山々をまっすぐ見据えた。やがて答えを見つけたかのように、レオンは窓を閉めた。あまりに力を入れすぎた指には、うっ血が浮かんでいた。
レオンは厨房の明かりを灯し、戸棚から次々と食材を取り出し、鋭い包丁を手に取った。
「料理を作るためじゃない」レオンは内心つぶやいた、「これは人を殺すための練習だ」
まな板の肉を伯爵の体だと思い込み、レオンは何度も刃を突き刺した。その時、背中に何者かの視線を感じ、落ち着かない気分になった。誰かに盗み見られているような気がする。
「気のせいか?」レオンが振り返ると、背後には何もなかった。
空想の中でレオンはデブ伯爵を72回殺し終え、73回目の一撃を繰り出そうとした瞬間、遠くから足音が響いてきた。彼はすぐさま動きを止めた。
「こんな夜中に何を調理しているの?」年配の女中が背後から話しかけてきた。
女中の顔には乾いたしわが刻まれており、この城で働いた年月はレオンより長く、長年の同僚でもあった。
レオンはひどく驚き、唇を噛みしめて振り返ると、包丁を背中に隠し、必死に無邪気な表情を繕った。
「はい」レオンは平静を装って答えた、「殿様が夕飯を口にしなかったので、クラウス執事から夜食を作って届けるよう命じられました」
「そうなのね」老女中は同情の目を向けた、「真夜中に起こされるなんて、本当にお疲れさま」
「大丈夫」レオンは緊張を抑えて話す、「私もちょうど眠れなかったところです。」
「明日、二坊様がお戻りになるそう」老女中は世間話を始めた。
「私もそう聞きました」レオンは気まずさを抱えながら返事をする。
「二坊様は本当にお気の毒だ」
「そうですね」
「長坊様もそう、前途洋洋たる方だったのに、馬から墜落して命を落とすなんて」
「そうですね」
「だが、この一件のおかげで、二坊様の立ち位置は以前よりずっと良くなった」
「そうですね」
「殿様、二坊様に爵位を継がせるつもりはないらしい」
「どうしてですか?」レオンは内心の苛立ちを必死に堪えて尋ねた。
「だって、二坊様は正妻のご子息ではないもの。それに」老女中は左右を見回し、周囲に人がいないと確かめてから、声を潜めて囁いた、「外に、できた子がいるらしい」
「何ができたのですか?」レオンは辟易しながら問い返す。
「殿様の婚外の私生児」
「そうですか」
「他の誰にも話しちゃダメ、漏れたら大変なことになる」
「心得ております」
「大丈夫?汗をかいている」老女中が心配そうに尋ねた。
「あ、ああ」レオンは慌てて左袖で額の汗をぬぐった、「コンロの火がかっかと燃え盛っているせいかもしれません」
「この老婆め!」レオンは腹立たしさに心の奥で叫んだ。「普段はこれほど饒舌じゃないのに、どうしてこのタイミングに限ってくどくどと話し続けるのだ。夜明けまでくどくど話され続けたらたまらない。誰か、この女を黙らせてくれれば……」
レオンは一刻も早くこの老婆が立ち去ってくれることを切望し、自分の練習に戻りたかった。一瞬、彼は妄執に囚われ、この女さえいなくなれば、娘がたちまち自分のもとへ帰ってくると思い込んだ。
「早く行け、早くどこかへ消えろ」レオンは内心ひたすら祈り続けた。瞳の奥には獣性にも似た怒りがうっすらと湧き上がり、手に握る包丁で、目の前の老婆の首に突き立てたい衝動に駆られた。
「それでは仕事を続けてください。私は失礼します」
ついに、自らに迫る危機を察したのか、老女中は慌ただしく立ち去った。
やっと行ってくれた。レオンは長くため息をついた。もしこの女がもう少し長居していたら、自分が衝動を抑えきれず、刃を向けずにはいられなかっただろう。
厨房で二時間余り殺害の練習を重ねたところで、もう大丈夫だと判断し、レオンは厨房の扉をしっかり閉めた。
伯爵の寝室の前までたどり着くと、扉には施錠がされていなかった。レオンは大きく息を吸い込み、扉を開けた。
室内には大きなベッドが置かれ、伯爵の遺体が静かに横たわっていた。胸元には短剣が突き刺さり、鮮血が敷布全体を真っ赤に染め上げている。レオンはその場に立ち尽くし、驚きと戸惑いに胸がいっぱいになった。な、なぜこうなっている?自分が殺そうとしていた伯爵が、すでに誰かに殺されてしまったのか?
レオンは五分ほど茫然と佇んだ後、我に返った。この場に居続けてはならない、一刻も早く逃げ出さねば。
自室の布団に戻ったものの、恐怖と困惑が渦巻き、眠りにつくことはできなかった。翌朝早く、城へ到着した兵士たちがレオンをぐるりと取り囲み、伯爵殺害の犯人だと告げた。




