38 なんのために歩き出すのか
第二章です
しばしの時が流れても、マナミとの関係は変わらず……マナミからは恋をしないのが前提のままだ。
俺は、今はそれでもいいと思っている。
マナミの事だから、向き合うべきものがあるから……俺に目を向けている時間は無いのかもしれないのだから。
悲しいけど、それが現実だ。
別に一人になるわけではない。だからこそ、マナミの傍にいられるだけで、満足しておくのが最善なのかもしれない。
筋肉と話せなくなったけれど、俺はマナミと生きている証で十分だ、と何度も、何度も、あの日から言い聞かせた。
底が見えないほど深い水の中で意識を沈めている感覚の時、微かに声が聞こえてくる。
「……ロ……クロ……ジ……」
聞き馴染んだ、まったりとした優しい声色。
俺の好きな、あの声だ。
一方通行の愛でこそあるが、最愛の魔女。
「……クロジ。いつまで寝てるの……」
「……うぅ、ああ? マナミ?」
重たい瞼を上げると、マナミの顔が覗き込むように横から見える。
レンズに付いた水滴でぼんやりとした視界なのに、黄緑色の瞳は宝石のように輝いていると分かる。
マナミだから、分かるのかもしれない。
愛しい顔を朝から見られたんだ、口を緩まさない理由はなかった。
「どうして、クロジ、泣いているの?」
俺が驚く間もなく、マナミはそう言って、ほっそりとした指先で俺の目尻をなぞるように触れてきた。
触れられた指先に水滴がついたのは、見なくても分かってしまう。
泣いているつもりはなかったが、思い出したから自然と溢れてしまったのだろう。
まだまだ未熟だな、と思ってしまう。
「怖い夢でも見たの? クロジ。よしよし」
まるで悪夢を見た赤子を癒すかのように、マナミは俺のベッドに座り、俺の頭を撫でてきたんだ。
――マナミの手、心地いいな。
俺の手よりも一回り以上小さくて、ほっそりとしているのに、優しい温かさが好きだ。
こんな時、筋肉が見ていたらきっと意地悪してきただろう。
向き合ったのだから、離れないといけないのに……俺は、俺は……。
というか、マナミが躊躇なくヨシヨシと頭を撫でてくるせいで、すごく恥ずかしいのだが?
「……恥ずかしいな。てか、俺は赤ん坊か!?」
「わっ、びっくり」
「棒読みじゃねぇか」
絶対に驚いていない、って分かるくらい、マナミはわざとらしく言ったのだ。
「……すまない。ちょっと、思い出してな」
「仕方ない気もする。だって、ここはドラゴンこそ未だにいるけど、捕らわれない安らかな場所だから」
あの日以来、ドラゴンは消えるとばかり思っていた。
マナミが後ほど大魔女に訊きに行ったところ、マナミの試練の為に放っていたドラゴンはそこまでいなかった、と伝えられたらしい。
島中に湧いているドラゴンは大魔女曰く、世界がバランスを取るために産んだ異物、との見解だ。
マナミが納得していたので特に聞いていないが、島を守る、絶島の魔女にとっての使命は消えないのだろう。
島を守る魔女が居て、時間に捕らわれないからこそ、こうして豊かな時を過ごしてしまうのかもしれない。
「本当に……あの喧騒や結果が、嘘みたいだな」
「実際にあったこと」
そう言っておでこに指を当ててくるマナミは、何かと距離が近づいた方ではある。
天然なのか、まったりとしている故なのかは不明だが、マナミが自由なら願ってもないことだ。
それはそうと、俺はマナミがずっとノースリーブワンピースの寝間着姿なのが辛い。
薄着だけにとどまらず、俺の横にいるのだから尚更だ。
「クロジ。顔が赤い……人で言う、熱? 今でも筋肉頼りなのに、熱が出るの?」
「え、ちょっ、マナミ!?」
マナミは戸惑いを見せずに、自身のおでこを俺のおでこに当ててきたんだ。
少し斜め気味ではあるが、一つ間違えれば吐息が耳を撫でそうだ。
間違える以前に、距離が近づいたせいで、腕を動かせばマナミのふくらみある部分に当たりかねない。
男としては、ある意味アンバランスな綱渡りをさせられている。
安全保障がない、それ程までに怖い話はないものだ。
マナミの体温がひんやりとしているのに、俺の体温は急上昇してしまう。
マナミにここまでドキドキする……筋肉と会話できなくなった弊害だろうか。
魔女に恋をしたい。それなら、この距離は望むべきはずなのに、上がる心拍数に驚きを隠すことができない。
近づいているこの距離、ほんの数秒だった。なのに、何分、何時間、何年も時が止まっていたように感じてしまう。
感情が動くことに困惑するのは、マナミにだけだろう。
気づけば、マナミはおでこを離していた。
そして確かめるように、自分の手をおでこに当てて、俺のおでこに自身の手を当て、少し首を傾げている。
「……温かい? 少し熱っぽい? クロジ。召し使いの働きはしなくてもいい。安静にして寝ていて」
「マナミ……俺は大丈夫だから。少し遅れたけど、食事の準備をするよ」
口は災いの元と言うが、この場合はマナミに俺の心境を隠したい気持ちが勝ってしまう。
マナミに隠しごとをする必要はないのに、俺は何を思っているのだろうか。
近くに放ったベストを手繰り寄せ、身に着けようとした時だった。
「クロジ」
「どうした?」
「クロジは……私があの力を扱えるって、思ってる?」
今のマナミにとっての悩みの種だというのに、少し震えた声でこそあるが、どこか安心しているようにも聞こえる。
ちょっと息を吐いてから、マナミに目をやった。
「マナミならできるさ。別に、島の為とかじゃなくてさ、マナミがどうしたいのかでいいと思ってる。向き合っているのか、って前に言っておきながら変だろうけどさ……俺は、俺は……」
どうしても言葉に詰まってしまう。
仮に、今思っている言葉を吐き出したら、マナミはなんて受け取るのか。
その場その場で意見をころころ変えているわけではないが、マナミの意志を俺は尊重したい。
それでも、無理をしてほしくない、と少なからず思うんだ。
変に自分を重ねるのは……俺が、筋肉の声を聞けなくなったのを実感して、思い出すたびに不安で感情が揺れるせいだろう。
それでもこうして普通に過ごせているのは、一人を感じない、マナミの存在が大きいと言える。
「マナミらしいまま、それでもいいと思う。曖昧だけどさ、俺は今のマナミじゃないと恋をしない、ってわけじゃないし、ありのままのマナミを好きでいたいんだ」
「……ま、また……そうやって、恋や、愛って……っ!」
マナミは急に意識したのか、慌てたせいで焦点の合っていない瞳を誤魔化すように、自身の頬を両手で抑えていた。
もっちりと形を変えるマナミの頬は、すごく柔らかそうだ。
実際、筋肉に当たっていた時の感触を思えば、すごく柔らかいのは事実である。
マナミは誤魔化すためなのか、俺のベッドから降りて、その場に立っていた。
窓から入った風で揺れる右ワンサイドテールは、艶やかな一面をみせている。
「クロジの、馬鹿。でも……落ち着いた、ありがとう」
「マナミが楽になったなら良かったよ。……なんだよ」
「着替える姿、見せないからね?」
「いい加減、この家もリフォームした方がいいか?」
簡単にできないでしょう、なんて軽く笑いながらに言うマナミは楽しそうだった。
日が経ってこそいるが、俺はマナミの行きつく先が楽しみで仕方がないんだ。
魔女らしくなのか、マナミらしくなのか。俺はそんなマナミの未来を想像しながら立ち上がるのだった。




