23 当たり前が特別で、特別が当たり前
「……夜の海って、こんなにも綺麗だったんだな」
マナミが眠った後、俺はこっそりと家を抜け出していた。
マナミに一言伝えておいてもよかった。
だけど俺は、密かに家の後ろの崖に腰を掛けて、ただ先の見えない海を眺めている。
月明かりと星の点灯だけが頼りになる。
この島に来て、何度も、幾度も、この先も、自然と共存していることを忘れないだろう。
マナミありきの部分を除いて言えば、傷跡を気にするだけ無駄だと思わせてくる程に。
マナミもエルリッシュ王も言っていたが、この島では生き延びるのが主だ。もしかしたら世界規模かもしれないが、俺の胸の中でずっと突っかかっている。
生きる、その行為で悩むことはなかった。
生き延びる、そう考えたらどうしても悩んでいた。
この海が毒に染まっていても、島が綺麗であり続けるのは、島を守りたい、魔女として生き延びてきたマナミがあったからだろうか。
――筋肉よ。俺は今、どうして悩んでいる?
俺は久しぶりに、筋肉に訊ねた。
あの日、マナミに自分が無いと言われてから、俺は筋肉に委ねるのを恐れていた。
その恐れは少しして、影のドラゴンとの戦いで無意味と知ってしまったのだが。
海の揺らめく音が耳を撫でてくる。
水分を含んだ夜風が、心地よさを覚えさせるように肌を撫でている。
月明かりに照らされて、白銀の音色が水面に宇宙を広げていた。
銀の粉をかけた揺らめきは、きっと人口の明かりに遮られたら、見ることは叶わなかっただろう。
ふと息を吐いても、筋肉は何も伝えてこない。
筋肉は寝てしまったのだろうか。
俺がクロジであるように、筋肉は黒次という名前をマナミに受けたのだから、自立していてもおかしくない。
俺はただ単に、寂しさを紛らわせている。家族を失い、記憶の場所を無くし、自分を偽っているだけかもしれないが。
何も答えない筋肉に求めるのをやめて、俺はただ心のそこで筋肉を信仰してから、仰向けで背中を地に預けた。
宙に浮く足が、波際の冷たい風を知って心地いい。
「魔女に恋をして、生きている」
何度もその思いだけが、俺の中では期待に胸を膨らませた子どものように、こだましている。
当たり前が特別で、特別が当たり前。
俺の当たり前だった日常は、異端児と言われるほどの色彩で染まっていた。
その中でも、あの日聞いた御伽話、魔女の話だけは忘れられずにいる。
印象に残り続けるほど、その物語の虜になっていた。
空にふと伸ばした手。
誰かが、何者かが……掴んでくれる手が、包み込んでくれる手がないと、知っておきながら。
この時までは。
「ここにいた」
聞き馴染んだ、まったりした声が聞こえてきた。
伸ばした手を受け止めるように、小さな手が指の隙間を縫いながら重なっている。
俺の顔を覗き込んでくる、純粋な黄緑色の瞳。
「……マナミって、俺が求めているものを分かっているのか?」
俺はマナミの手に誘われるまま、体を起こしながら訊いた。
マナミは首を横に振り、ただ俺を見てくる。
夜だと錯覚させない。マナミの瞳はそれほどまでに、俺を意識させてくるんだ。
瞳の奥に広がる、宇宙のような意識の中に誘い込むかのように。
「分からない。でも、クロジが……魔女を、私を求めているのは知っている」
「まあ、何度も言ってるからな」
「正直しつこい。魔女は恋をしない、叶わない、って何度も言ってるのに……」
「それでもマナミは俺を傍においてくれるじゃないか」
「都合の良い考え。クロジは、その、私の傍に居てくれる方が都合いいの」
マナミはそう言って、俺の手を握ったまま空を見ていた。
俺はあまり意識していなかったが、夜にもかかわらず数匹のドラゴンが飛んでいる。
空飛ぶトカゲ、という印象が最初は大きかったが、ドラゴンの肉を食べてからはだいぶ印象は変わった方だ。
味的にはトカゲよりも、脂の載った極上のカエルに近いのだから。
マナミは空から視線を下ろし、言葉を続けた。
「島の地に生きるドラゴンはね……強いもの、私以外に強い可能性があれば、そこによって行くの。だから、エルリッシュだけに反応している、はずだった」
「……はずだった?」
弱ければドラゴンが近寄らない言い方だが、予想が外れているような言い方が気がかりだ。
「それは、時が来たら話すから」
「分かった」
「いいの?」
なんでマナミが驚いたような顔をしているんだ?
俺は別に無理に聞きたいわけでも、話してほしいわけでもない。
振っているなら聞き出すのも訳ないが、マナミの表情は明らかに聞いて欲しくなさそうだ。
だからこそ俺は聞かない。
たとえ相手が魔女だとしても、俺はこの島で生きている、それだけで今は十分だから。
無論、魔女に恋をしている、という価値観があってのものだ。
「……その代わりに良いことを教えてあげる」
「なんだ?」
何だと思う、と言いたそうに、いたずらな笑みを浮かべるマナミ。
「私の魔法はね、島全土に使えるの」
「島全土ねー……え、島全土?」
俺は聞き間違いかと思って、もう一度訊ねた。
正直、マナミが魔法で水を供給しているのは、王国のどこかに貯水するものがあると思っていた。
水自体はどこかに貯水しているようだが、マナミはここにずっと居るにも限らず、王国に行った際はドラゴンの件で必ず感謝されていた。
そもそも俺は、マナミの魔法自体を正直知らない。
光ったと思えば、熱く焼かれるし、貫かれるで、魔法は既に俺を仕留めていることが基本だ。
「うん。誰がどこにいるのか、も分かるから、いつでもクロジに魔法を使える」
「一応聞くけどさ、それ、死と書いて死運転じゃないよな?」
「……しうんてん?」
「すまん。俺を直接狙う、って意味じゃないよな?」
「地に生きるドラゴンと同じ扱いだから、安心して」
それは安心だ、ってなるわけがない。
今までの情報をまとめるなら、国を襲う悪いドラゴンはマナミの魔法で強制的に仕留めていた……つまりそのドラゴンと俺は同じ土俵に立たされていることになる。
俺が仮に筋肉を宗教のように広めようもの、または空のドラゴンを誤って狩ろうものなら、マナミの魔法がいついかなる時も俺を狙っていることになるのだから。
愛の告白にしては情熱的だが、流石に受け止めきれるほどの時間はなさそうだ。
「マナミ、俺は気兼ねなく魔法を撃てる的じゃない」
「なら、魔法を恐れること。魔女はそれほど怖いし、危険だから」
「マナミは優しいけどな」
マナミは照れ隠しか、俺の頬を無理やりつねってきた。
頬がマナミと違って硬いせいか、とりあえず魔法で焦がされこそしたが。
「もう。お話はおしまい。クロジ、いないから心配……召し使いを管轄内に収めないといけないから、早く寝るの」
「あのさ、もしかして……いや、何でもない」
マナミは自身のベッドで寝ていたが、俺のベッドに自らの意志で入り込もうとして気づいたのか、と聞こうとしたが喉の奥に呑み込んでおいた。
それにしても、心配されるのも悪い気はしないな。
「そうだな。寝るかな」
「その方がいい」
そう言ってマナミは俺の背を押してきた。
まるで何かをせがむ子どものようで、どこか幼さを感じてしまう。
夜だけは、夜が明ける時間を理解している、そんな風潮すらも感じさせるほどに。
「なんでせかすんだよ」
「なんでも」
俺の背を押して笑みを浮かべるマナミは、少し変わった魔女だ。




