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第90話 月下の静寂

金玄基、ついに掖邪狗と対峙――ヤマトを巡る水面下の攻防が始まった。

一方、各地の有力者たちは続々と意見を固めつつあった。

そんな夜――台与は、薄く細った月を見上げるのだった。


ヤマトまで、あと一月(ひとつき)――


金玄基(キム・ヒョンギ)の姿は、纏向にあった。

木の国の従者を二人、従えて来ていた。

一人は自分に理解を示してくれている者、もう一人は自分に反発心を抱いている者。

それには確たる理由があった。


金玄基は、その二人を後ろに控えさせ、自らも御簾の前に膝を折った。


御簾の向こうには、伊勢の大巫女がいる。

その手前には、伊声耆(いせいぎ)掖邪狗(えきやく)が重々しく並んでいた。

台与とルナは、御簾の脇に並んで座り、こちらをじっと見据えている。

久方ぶりの再会であったが、二人の顔に笑みはない。

むしろ、射抜くような鋭い視線をこちらに向けていた。


まず、御簾の奥から冷ややかな声が響いた。


「我は木の国の者を呼んだ。汝を呼んだつもりはないが……?」


金玄基は静かに平伏して応じた。


「私めが、木の国の家宰・金玄基にござりまする」


伊勢の大巫女は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「我らから離れ、木の国へ走ったか。居心地もさぞ良かろうな……」

「ははっ。お陰様をもちまして」


そう言って慇懃に頭を下げると、伊勢の大巫女はすっくと立ち上がった。

そのまま取りつく島もなく、部屋を後にするつもりのようだ。

台与とルナもそれに続き、御簾の向こうへと姿を消した。


巫女たちが去るのを待っていたかのように、掖邪狗が重い口を開いた。


「この度は『ヤマト』の段取りを打ち合わせるためにお越し頂いた。

 これより先は、我ら両名がお相手いたす」


    ※


控えの間へと戻るなり、伊勢の大巫女は、

後から付いてきた台与に顔を寄せ、小さく囁いた。


「……あんな感じで良かった?」


台与は口元に微かな笑みを浮かべ、囁き返した。


「はい、上出来でございます。

 これで、木の国の者らが玄基に疑念を抱くことはございますまい」


    ※


掖邪狗は居ずまいを正し、声を張った。


「……よって、こちらの提案が通った場合においては、前回のヤマトにて拝承済みであるゆえ、大巫女様による神前での『お伺いの儀』は執り行わぬ。

 ただし、木の国の提案が通った場合は、改めて『お伺いの儀』を行い、神意を問う。

……ここまでで、何ぞご異議はござるか?」


金玄基は深く息を吸い込み、堂々と胸を張った。


「ございまする!」


掖邪狗は眼光を鋭くし、こちらを睨んだ。


「ほう……申されよ」


「改めて『お伺いの儀』を行う際、我らの案が不当に否とされることの無きよう、確かな保証をいただきたい」


掖邪狗は絶句し、伊声耆と顔を見合わせた。

だが、すぐに向き直ると、片手を床に叩きつけた。


「汝は、神をも恐れぬ不届き者と見えるな……」


金玄基も負けじと身を乗り出す。


「少なくとも、神意に、『伊勢の方々の意』が混入しないことを保証していただきたい」

「――なにぃ?!……無礼な!」

「ご無礼を承知で申し上げておりまする!」


と、その時――


後ろから、金玄基の服の裾を引く者があった。

振り返ると、木の国の従者――反抗的な方の男が、無言のまま、小刻みに首を横に振っていた。


(掖邪狗殿とは口裏合わせをしていない。本気で怒ってるのだろうが……)


金玄基はその男に囁いた。


「……ここは譲れぬのだ!」


すると、木の国の従者たちはガタガタと震えた。

腕組みをして俯いていた伊声耆が、ここでようやく口を開いた。


「しかし、我らは決めごとの際、神意を問うのが慣習でしてな。

 『神意無し』では返って民が不安になるというもの。そこで……こうしては?


 そちらの案が通った場合、お伺いの儀では『吉凶のみ』を占う……いかがかな?」


「それは良い。……いかがか?」掖邪狗が合いの手を入れた。


金玄基は、しばらく低く唸った。


「我らの案に、意図的に『凶』と出るようなことは――?」


「――ない!」


掖邪狗は即座に言い放った。金玄基も食い下がる。


「何をもって、そう断言できるのですか?」


その問いには、伊声耆が静かに、そして諭すように答えた。


「亀甲で占うからです。道理を解する者には自ずと明らか……」

「……ならば、同意いたします」


金玄基は、そこで折れた。

このようなやり取りが半日ほど続き、残りは翌日に持ち越しとなった。


    ※


木の国・控えの間に戻ると――


金玄基は腕組みをして、その日のやり取りを思い返した。


   ◇◇◇


「――お待ちください! それは……」


と、金玄基が叫ぶと、やはり後ろから裾を引かれた。

二人の従者が小さく言った。


「もう、その辺りで……!」

「それは、我らの国では常識です……」


――あっはっはっは!!


伊声耆と掖邪狗は顔を見合わせ、声を揃えて豪快に笑い飛ばした。


   ◇◇◇


連れてきた従者二人は、さっそく布団を敷している。


「食いつき過ぎですよ、家宰殿」

「……大陸では、あのような激しいやり口が常識なんですか?」


そう呟きながら、二人ともどこか呆れたような、

しかし、冷ややかなだけではない視線をこちらに向けた。

そんな二人に、金玄基は訪ねた。


「どこか、我らに不利な点はなかったか……?」


「――ありませんでした!」


二人は声を揃えた。



と、そこに――


トントン……と襖が音を立て、するすると開いた。

憮然とした表情の台与が姿を現した。


「皆様。伊声耆が『お酒をご一献いかが?』と申しておりますが……」


従者たちは口々に言った。


「私は遠慮いたします」

「ええ。今日はもう……散々、冷汗をかきましたので……」


すると、台与は鋭くこちらを睨んだ。


「……家宰殿は……?」


    ※


金玄基は、伊声耆、掖邪狗と三人で卓を囲んだ。

伊声耆が徳利を差し出した。


「汝とは、これまで馴染み薄かったが……今後はよろしくお頼みいたす」


掖邪狗は、にんまりと笑った。


「明日は、お手・柔らか・に……っ!」

「ははは……こちらこそ……」


金玄基は肩をすぼめながら、苦く笑んだ。


しばらくすると――


しばらくすると、台与も姿を現した。

今度は昼間の憮然とした仮面を脱ぎ捨て、満面の笑みを浮かべている。


「お疲れ様でした、玄基。頑張ってますね」

「ええ。倭人なら、神を憚って避けることばかり申しておりました」掖邪狗が相槌を打つ。


「……恐縮です……」


金玄基はじっと台与を見つめた。

ふと、張り詰めていた胸の奥が、温かく解けていくような心地がした。


そのまま見合っていると、台与は両手を頬に当てた。


「顔に何か付いてますか? あんまり見ないでください……」

「左様。見過ぎですぞ」掖邪狗のからかいに、伊声耆が「わっはっは!」と豪快な笑声を上げた。

皆揃って、腹の底から笑った。



だが――


呼ばれたのは、酒を酌み交わすためだけではなかった。

三人で顔を寄せ合い、声を潜めた。


まず伊声耆が囁く。


「来ぬ国から札が返ってきたのだが、いつもは『不参加』に印があるのに、此度は『空札からふだ』であった。……禁則なのだがな」

「……どういう意味なのです」

「『参加』はせぬが『不参加』でもない……の意であろう。扱いが難しい国よ」


そう呟いた掖邪狗の顔は既に赤いかった。

玄基が「つまり、来るということですね?」と尋ねると、二人は重々しく頷いた。


次は金玄基から囁き返す。


「ですが、護衛は将二名のみとのこと……」

「ヤマトへ来るのが本物か?国元に残っておるのが本物か?」と、伊声耆が尋ねる。

「それが分かりませぬ。そちらでは何か……?」金玄基は頭を振った。

「何も……。一応、ナギサヒコ王には伊都に残って頂く手筈……」と掖邪狗は言った。

「……そうですか……」金玄基は頭を垂れた。


続いて、掖邪狗が金玄基に小声で尋ねた。


「……ところで、木の彦尊の真の目的は何じゃ?」


「クニトラ王をここに招き、自らは宰相としてお仕えしたい、と……」

「……なんじゃ、それは?」

「利もありましょうが、名誉欲ですね。ご自分は八咫烏の子孫なんだそうで……」

「……欲のない奴じゃな……」

「けれど……」と言い淀むと、金玄基は囁いた。

「いずれにしても、この地に都を築くことになります」


掖邪狗は真っ赤な顔で、何も言わずに手を差し出した。

金玄基と掖邪狗は、固い握手を交わした。

伊声耆だけは一人、眉をひそめた。

「我は、都には大巫女様に入っていただきたいのだがな……」



そこからは、声を元に戻しての放談となった。

掖邪狗がこぼす。


「帯方から連れ帰った連中が『大和湖の水を抜け』などと申してきおってな……」


「んぐっ!……それでどうした?」と伊声耆が尋ねると、掖邪狗は

「『とんでもない』と突っぱねてやったわ!」と叫んだ。


「……義父(ちち)も同じことを言っておりました。彼らの理由は?」


金玄基が尋ねると、掖邪狗は首を振った。


「『泥濘(ぬかるみ)だらけで、測量ができぬ』と、ほざきおるのだ……」

「……『そくりょう』ってなんじゃ?」伊声耆は目を白黒させた。

「分からん!」と低く唸ると、掖邪狗はさらに声を潜めた。

「さらにはな……。

 この辺の山を、二つ三つ取り壊すことになるが、良いか?と訊いてきた……」



――良いもなにも!!

――わっはっはっは!

――どうやるんじゃ?!


その場にいた全員が、大声で笑った。

「はぁー」と息を吐くと、掖邪狗は金玄基に尋ねた。


「実際、大陸ではどうするのだ?」

「大陸には、人手が沢山ありますから……あとは、馬や牛を使ったりしますね」

「そういう動物も使うのですか……」

「荷車や船など、道具もたくさん、その場で作ります。そのための職人を雇ったり……」

「工事をしない者も雇うのですか?……ほう……」


掖邪狗は盃を一気にあおると、拳を顎に当ててしばらく唸っていた。

金玄基も手にした盃をちびりとやった。


(この調子だと、端から見ても、ただの宴にしか見えないだろうな……)


だが、宿所に戻ると、少しばかり寂しい結末が待っていた。

木の国の従者が二人とも、既にいびきを上げて寝ていたのである。


    ※


その翌日――


掖邪狗は、金玄基をギロリと見据えた。


「……ですので、次の新月の日より、双方ともに、

 ヤマトの地の九人の長老への接触は一切禁止。……よろしいな?」

「ま、待たれよ!」


そう叫んだ金玄基は、すぐさま両側から袖を強く引かれた。

木の国の従者たちは、困り果てたような顔で口々に囁く。


「いつも、そうですから!」

「……普通ですから……」


金玄基は両脇の二人を交互に振り向きながら、小刻みに頷いた。

伊声耆と掖邪狗はこちらを見ながら、「へっ」とせせら笑った。


    ※


その夜――


ヤマトの地の九人の長老たちは、橿原(かしはら)の長老の館に集っていた。

皆黙したまま、灯明の火を見つめていた。

だが、橿原の長老は、おもむろに口を開いた。


「……まだ、ヤマトはだいぶ先じゃが……我はもう、だいたい決めた」


促されるように、他の長老たちも静かに続いた。


「我もじゃ」

「うむ」

「だいたいの……」


そのうちの一人が、部屋の隅で座る男に声をかけた。


「唐古の……汝だけとなったようじゃぞ?」

「……まあ、まだ時間はあることじゃし……」

「ゆっくり考えればええ……」


唐古(からこ)の長老だけは、相変わらず固く腕組みをしたまま、石仏のように微動だにしない。

その夜、一度だけゆっくりと目を開いたが、結局、最後まで言葉を発することはなかった。


    ※


同じ頃――


備の国の彦尊は、淡海(おうみ)の彦尊の館を訪れていた。


「鉄が入らぬ理由が分かったのは良いが、対策がないのじゃ……」

「ふむう……」


淡海の彦尊は、嘆息する備の彦尊を横目に見ながら、気のない相槌を打った。


「我の国は鋳物中心なので銅のほうがよい。 鉄は脆くて使い物にならんのだ」

「あっ……」


備の彦尊は急に顔を上げると、淡海の彦尊を指差した。


銑鉄(せんてつ)を鋳型に流し込んでも、強度は出ぬぞ。

 鉄は叩き鍛えねば、真に丈夫にはならぬのだ」

「なに……? 叩いた鉄をまた溶かして流し込むのか?」


「いや、叩いた鉄は、もう容易には溶けぬ……」

「では、鋳型を外してから叩けと? それでは形が歪み、大事な紋様も消えてしまうではないか」

「ううむ……。そこが、何とも悩ましいのだな……」


「……いずれにせよ、我ら(淡海)には、無用の長物じゃよ……」

我ら(備の国)には必要なんじゃ……なあ、友よ」


そう言うと、備の彦尊はどこか媚びるような笑みを浮かべ、淡海の彦尊の顔を覗き込んだ。


「大巫女と大王、どちらに付けば、我の国にも再び鉄が回ってくるようになると思う?」


淡海の彦尊は、含み笑いを返した。


「それは、大巫女様であろうな。

 伊都のナギサヒコ殿が大巫女様と深く繋がっておるのは、周知の事実ゆえ」


備の彦尊は、深く頭を垂れた。


「やはり大巫女か……。だが、いざという時に頼りになるのは大王の方なのだ。

 ……まことに、悩みどころよな」


    ※


一方、木の国では――


かつての()の国の彦尊が、木の彦尊の館を訪れていた。


   ◇◇◇


つい先刻のことである。

木の彦尊は、現れた友の姿を見るなり吹き出し、その肩を叩いた。


「どうした、その顔は? これでは、青痣の説法師じゃ!」


青痣の説法師は喉の奥で唸った。


「……とりあえず、何か食わしてくれ……」


   ◇◇◇


このやり取りがあって、木の彦尊と青痣の説法師は、膳を共にしていた。

木の彦尊は椀を手にしたまま、尋ねた。


「ほう……行く先々で殴られ、蹴られ、追われ続けておる、と」

「ふむ……そんなことは、今さら珍しくもない……」

「だがな、友よ。我が帯方に行って聞いてきた話によれば、汝の説く話もあながち間違いではないようじゃぞ?」

「説ではない!……むぐ、もぐ……真理じゃ!」


青痣の説法師は、一心不乱に飯をかき込んでいる。


「ふむ……だがの……東国では、まあまあ、反応が良い……」

「東国……どの辺りまで行って参ったのじゃ?」

「富士は越えておらぬが……」


その言葉に、木の彦尊は一瞬だけ、鋭く目を光らせた。


「左様か……。まあ、今宵は我の館でゆるりと致せ」

「すまぬ。厄介になる」


そう言うと青痣の説法師は、また飯を口に入れた。


    ※


台与はお宮の縁側に腰を下ろし、夜空に浮かぶ薄い月を見上げていた。


目の前庭では、ウヅ改め『羽越の大将』が木剣を振るっている。

警備の合間を縫っての鍛錬に、寸刻の余念もなかった。


台与は風に乗せるように、小さく尋ねた。


「羽越の大将殿……都は、本当に出来るでしょうか?」


羽越は不意に手を止めて、こちらを振り返った。

やがてゆっくりと歩み寄ると、台与のすぐ隣に腰を下ろした。


「阿蘇の大巫女が得られた御神託ですから……きっと、いつかは……」


曖昧に言葉を濁し、羽越は汗を拭った。

その後は黙したまま、台与と同じ月を見上げる。


「いつかって……いつのことです?」


台与が重ねて問うと、羽越は微かに唇を綻ばせた。


「……出来るのは、だいぶ先なのでしょう?」

「千年、かかるとか……」

「ならば、台与様がお気に病むことではありますまい」


台与は一瞬、羽越を横から睨みつけた。

だが、すぐに夜空へ視線を戻し、吐息をつく。

「……ご武人はお気楽で……」言い掛けた言葉を遮るように、

羽越は呟いた。


「香取の大巫女様も、よくこうして月を見上げては、お悩みになっておいででした……」


台与がハッとして顔を向けると、羽越は遠い目をして続けた。


「月に問うのだ、と仰せでした。 ご自分の使命は何か?それに添えているか?……と。

 そうやって、ご自分でご自分をお責めになって……きっと、今も……」


そこまで言うと、羽越は深くうつむいた。

やがて、垂れ下がった前髪の間から、一粒の雫が落ちた。


「台与様は、真似をなさらないほうが宜しいと思うのです……僕は」


台与は黙したまま、羽越の横顔を見つめ続けた。


新月まで、あと数日。そして次の満月を迎える頃には、運命のヤマトが始まる。

上手くいくのか。勝てるのか。焦燥は消えない。

だが、こうして隣で静かに俯いている羽越を見ていると、


己の悩みも、祈りも、この月の満ち欠けのようなものなのかも知れない――


そんなふうにも思えるのだった。



お読みくださりありがとうございました。

国際交渉の前段階、いわゆる「実務者レベル会合」的なものをイメージしてみました。

いつものように、こういうことが実際にあったかどうかは、脇に置いておくスタイルです。

伏線を張りすぎて回収しきれない、いつものパターンを踏襲しつつ、

「大和」という一つの国が出来上がってゆく過程を、なるべく詳細に描写していきたいと思っております。(みじんも写実的ではありませんが)


次回「第91話 理の侵食」

正始四年(西暦243年)の倭国全体会議・ヤマトが始まります。

前回はボロボロでした。今回は……?

(木曜20時ごろ更新予定です)


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