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第89話 真と偽の境目

クニトラ王、出航――衝撃の報せがヤマトを駆け巡る。

そして大陸で蠢く「魏・呉」の思惑。さらに、懐かしき「あいつ」が帰ってきた。

嘘か真か……それを看破するものは、信じる者の目だった――

正始四年十一月。木の国――



「うーん……うーん……」


その男の子は、机に向かい、可愛らしい声で唸った。歳の頃は、七歳ほどか。

金玄基(キム・ヒョンギ)は、その傍らから見つめている。


(この子も父親と同じように、いずれ「我は八咫烏の子孫なり!」とか言うようになるのだろうか……?)


そう思うと、金玄基の顔に苦い笑みが浮かぶ。


「若様、その字は……こうですよ」

「うう……どこがどう違うのじゃ……」


若様は口を尖らせた。


「汝なぞは、糞でも食らっておれ!」


金玄基も口を尖らせて、若様を見つめた。


「えええ?! 若様がこの書物の漢字をすべて書けるようにならぬのに??」

「むうー……」


若様は再び唸ると、机上の布へ視線を戻した。

慣れない手つきで筆を動かすその横顔を、金玄基は目を細めて眺めた。


だが、子どもが飽きるのは早い。

若様は庭先を指差して叫んだ。


「――あっ! たぬき!」


見ると本当に、一匹の狸が縁側に立ち、こちらを窺っている。

金玄基はゆっくりと立ち上がった。


「はいはい。追い払って参りますので、若様は手習いを続けてくださいね」

「えー……」


金玄基はゆっくりと狸に歩み寄った。

すると、狸は素早く飛び降り、縁側の下に潜っていった。


金玄基は縁の下を覗き込んだ。狸の姿は、既に無かった。

だが――



「――!」


そこには、不自然に布きれが落ちていた。

素早くその布を手に取り、ちらりと見る。


(――クニトラ王、出航! 本人か否か特定できず……か。カゲマルさん……)


金玄基はそれを素早く懐にしまうと、二本の指で顎をさすった。

床下の影が強く頷いた。

金玄基も小さく頷き返す。


(台与様には、既に回送済みか……よしっ)


金玄基はゆっくりと立ち上がった。

若様が顔を上げ、尋ねる。


「……逃げちゃった?」

「はい。これで、若様も心置きなく続けていただけます」

「ぶー……」


金玄基は歩みながら、にっこりと笑った。


    ※


その頃、来ぬ国の船の上――


その舳先(へさき)には、クニトラが微動だにせず立ち尽くしていた。


タギリヒコは、王の背中を尻目に船尾に立ち、故郷の方角を眺めていた。

来ぬ国の大地は、既に見えなくなって久しい。

それは郷愁というよりも、取りに戻ることの叶わぬ忘れ物を思い出した時のような、空ろな心持ちだった。


「……なあ。あそこにおわすのが本物の彦尊っちゃろ(だよな)?」


隣りに立つアラツヒコに小声で尋ねる。

憮然とした表情を崩さないアラツヒコは、同じ方向を見つめながら低く唸った。


「おはん……何を言いよっか。

 あちらにおわすが『本物の彦尊』やと思い、お仕えせんならんど」

「……あんにゃ(アニキ)は、どう思っとるん?」

「………………」


その後、二人はいつまでも、遠ざかる西の方角を見つめ続けた。


    ※


西の方角といえば――


呉の大司馬・呂岱(りょたい)はその日、全身を黒服で覆っていた。

香の煙がもうもうと舞う中、祭壇をじっと見据えている。

眼前には、丞相・顧雍(こよう)が横たわっていた。


(呉の『良心』が、また一人……消えた……)


呂岱は焼香を済ませると、棺の前に膝を折り、深く深く平伏した。



呂岱と入れ違いに、葬儀の場に姿を現したのは、大都督・陸遜りくそんであった。

傍らには諸葛恪(しょかつかく)を伴っている。


呂岱と目が合うと、陸遜は緩やかに拱手し、頭を下げた。

諸葛恪は背筋を伸ばしたまま、眼光鋭くこちらを睨んでいる。

呂岱もまた拱手すると、重々しく頭を下げ返した。


すると、陸遜はゆっくりと呂岱に近づき、耳元で囁いた。


「先日、魏の司馬府から文が参りました。長江河口に停泊している楼船は、なにか?と」

「……看破されましたか……」

「ですが、ご心配なく。『亶州(せんしゅう)を探索する船じゃ』と返しておきましたゆえ……」

「……かたじけない」


陸遜は軽く一礼すると、何食わぬ顔で葬儀の奥へと進んでいった。

諸葛恪はこちらを睨みつけたまま歩き出し、すれ違いざまに「フンッ!」と鼻を鳴らした。


呂岱はしばらくの間、その背中を見つめていた。

やがてその姿が見えなくなると、一つ、深く重い溜息をついた。


    ※


一方の魏国・洛陽では――


散騎常侍(さんきじょうじ)司馬昭(しばしょう)は、久しぶりに父・司馬懿の邸宅を訪ねた。


「父上。尚書省の元同僚から聞いたところによりますと、例の楼船は『亶州に向かうもの』と回答があったそうです」


「左様か。……だが、昭よ。亶州とは何処(いずこ)にあると思う?

 その州の名は、呉が時に『倭国』を指す隠語として用いることもある」


「倭国……女王・卑弥呼は、魏に隠れて呉とも通じておる、と?」

「そこまでは分からぬ。ただ……」


言い淀んだ後、司馬懿は口をつぐんだまま一点を見つめた。

その眼光は、遠く海を越えた東の島国を射抜いているかのようだった。


(倭国……何かと因縁のある国よ。台与殿といい、先日のあの親書といい……)


    ※


その倭国・伊勢の社では――


ウヅ改め『羽越の大将』は、深々と平伏した。


「香取軍・羽越、大巫女様のご要請により、兵二百を率いて只今、着任いたしました」


伊勢の大巫女は御簾の向こうに座し、左手には台与とルナが、右手には伊声耆(いせいぎ)掖邪狗(えきやく)が控えている。


御簾の向こうから声がかかった。


「香取の大巫女様は息災か? あのような文を頂いた後ゆえ、案じておる」

「お心遣い、痛み入りまする。

 以前にも増して無口におなりあそばされましたが、剣の腕はますます冴え渡り……」

「ほう?」

「そのお太刀筋、今や誰一人として見切れる者の無いほどにございます」

「……左様か。お体に障りがないのなら、何よりじゃ」


伊勢の大巫女は、続けて尋ねた。


「ところで。『羽越の大将』という名は、初めて耳にする。

 汝はいずこの者で、香取にはいつから仕えておる?」


ウヅは、かしこまって答えた。


「ご無沙汰いたしております。

 以前、こちらでお世話になりました『ウヅ』にございます」


そう答えると、


「ウヅ?!」

伊声耆が腰を浮かした。掖邪狗も振り返り、こちらを凝視した。

「巫女の!?」


ウヅは静かに頭を下げた。


「この名は、香取の大巫女様より賜りましたものにございます」


「まことか? どれ、面を……」と言うと、伊勢の大巫女は御簾をかき分けて現れ、

「おやおや……立派な男子になられたのう……」と呟くと、目を細めた。


ウヅは苦笑いを浮かべた。


「それが……男になったような気は、まだ……してないのです……」



台与は黙したまま、その一部始終を聞いていた。

だが、内心では驚愕に震えていた。


(本当に?! この方が……あのウヅお姉様……?)


言われてみれば、顔には確かに面影はあった。

だが、かつての艶やかな白い肌には、今や精悍な髭を蓄えている。

背丈も肩幅も大きく逞しくなり、巫女だった頃の面影はどこにもない。

『若武者』という言葉がこれ以上なく似合う風貌へと変わっていた。


隣にいたルナが、堪えきれずに笑いかけた。


「お帰りなさい、ウヅ!」


すると、羽越の大将はルナに鋭い視線を向けた。


「……『羽越の大将』と、お呼びください。兵らの手前もございますゆえ……」

「……はい……」


ルナは閉口した。

台与は、おそるおそる声を掛けた。


「羽越の大将殿……」


羽越の大将は一瞬、小さく唸ったあと、柔らかい声で答えた。


「……台与様は、ウヅで結構です」


台与は思わず拳を握り、立ち上がった。


「何が、どう違うのですかッ?!」


その瞬間、その場にいる全員の笑い声が弾けた。


    ※


同じ頃。来ぬ国の大殿では――


上座に腰を下ろすクニトラを、ヒムカは遠目に見つめていた。

傍らの、前の霧島の大巫女は柱の影に隠れ、覗き込むようにして上座を見ている。

前の大巫女がヒムカの耳元で囁いた。


「大巫女……あれ、本当のクニトラだと思う? 少し違う気がするのだけれど……」


ヒムカは前の大巫女に顔を向けた。

だが、しばらくは言葉を返さなかった。


「お義母様……今朝、お船にお乗りの方が、本物の大王……クニトラ様ですよ」


「ええっ?!……そうだったの?」

「……はい。ですが、どうか知らぬふりをして差し上げてくださいね」


ヒムカは静かに念を押した。

前の大巫女は絶句したまま、こちらを凝視している。

その瞳には、まだ拭いきれぬ疑念の色が混ざっていた。


「……どの辺で分かるの?」


その問いを受け、ヒムカは上座のクニトラへと視線を戻した。

そして静かに目を閉じると、小さく笑んだ。


「大王は常に、戦いの中に御身を置かれる御方ですから……」


    ※


船は、ひたすらに木の国を目指し、波を蹴立てて進む。


来ぬ国の王・クニトラは黙したまま、眼光鋭く前方を見据えていた。


朝からずっと、立ち位置も、立ち姿も変わらない。

激しい潮風をものともせず、波に揺られても動じぬその威容は、例えるならば、動かざる山の如し。


その視線は、水平線を越え、クニトラにとって初めて踏む地・中洲(なかつくに)を見据えていた。




お読みくださりありがとうございました。

ついつい、敵方の来ぬ国(狗奴国?)を格好良くしてしまいます……なんでなんでしょう?

個人的には、そもそも狗奴国を敵だと思い込みすぎているのではないか?という疑問も、あったりします。


次回「第90話 月下の静寂」

今度のヤマトは(今度こそ?!)一筋縄では行かなそうです!

(月曜20時ごろ更新予定です)

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