第84話 のり弁政治
三国時代末期の魏――そこは「のり弁」だった。
呉も――? いつの間にか、のり弁に包まれてゆく世界……。
そんな中、台与とルナだけは――
ここは、魏国・洛陽の宮殿――
大魏皇帝・曹芳は久しぶりに玉座に腰を下ろすと、居並ぶ廷臣たちを眺めた。
すぐ左隣には、太傅・司馬懿が直立している。
右隣には、大将軍・曹爽が立っていた。
儀式は儀礼に則って行われた。
廷臣の一人が声を上げた。
「それでは、倭国女王の親書を読み上げまする。
尚、帯方太守・弓遵の注釈によれば、『これは倭人の拙い手による文であり、その真意は測りかねる』とのことでござりまする」
曹芳は「うむ」と短く頷いた。
その廷臣は、書簡を顔の高さに持ち上げると、さっと広げた。
「日出づる処、天と地を統べる女王、万里の波濤を越え、天上の太陽たる大魏の若き帝へ、千年の情念を捧げ奉る。……」
――ザワザワ……
曹芳は顔をしかめた。
廷臣たちも眉をひそめて囁き合った。
「……なんじゃと?」
「正気か?!」
「これが司馬懿殿の推す倭国……」
「なんと淫らな……」
だが、読み上げは無慈悲に続いた。
「我が国の浜に打ち寄せる波は、陛下を想う我が吐息なり。
我が国の森に満ちる霧は、陛下を夢見る我が衣なり。……
この身は遠く蓬莱の果てにあれど、我が魂は夜な夜な星を渡り、帝の御枕辺に侍りて、その若き熱を吸い取らんと欲す。……」
――ドサッ!
――ぱたり……
「うう、ぐぬぅ……」
周りの廷臣たちが一人、また一人とその場に倒れてゆく。
曹芳は目を伏せ、沈黙を貫いた。だが、両の手は小刻みに震え始める。
脇に立つ司馬懿は、じっとりと脂汗を滲ませていた。
「金銀財宝は土くれに過ぎず。
我が欲するは、ただ帝の御慈悲と、魂の交わり。
この書を読みし時、帝の指先に我が温もりを、その瞳の奥に我が影を感じ給え。
天命のままに、我らは一つの炎となりて、共に天下の闇を焼き尽くさん――」
「――もうよい!」
曹芳は立ち上がり、叫んだ。
「原本をこれへ!」
書簡を手にした吏部尚書・何晏が進み出た。
「陛下……写しなら、こちらに……」
「うむ。……むむ?むむむ……黒塗りだらけではないか?」
何晏は黙したまま、薄く笑った。
曹芳は背筋を伸ばし、威儀を正して何晏を睨みつけた。
「朕は、台与に(……会うたことがある、とは言ってはいけないんだった……)」
何晏は曹芳の顔を覗き込むように面を上げた。
「……いかがなされましたでしょうか……?」
「倭国女王の人となりはよく知っておる。 このような親書を寄越す者ではない!」
「ですが、これが……」
「――嘘じゃ!」
曹芳はしばらく無言で、何晏と睨み合った。
自然と全身に力が入った。
握りしめた拳を、胸の高さまで持ち上げた。
「なんたるのり弁政治だ! これがそなたの政か? 皇帝に知る権利はないのか?!」
その瞬間、何晏はわずかに顔をしかめ、数歩詰め寄った。
「……のり弁だと……?」
「あ、いや……」
曹芳は司馬懿を振り返った。
だが、司馬懿は依然として目を閉じ、石像のように固まっている。
何晏は拱手すると、深々と平伏した。
「恐れながら、陛下……体調を崩す廷臣が相次いでおります。
お早めにご承認を……賜われますでしょうか……?」
曹芳は唇を噛み、何晏を見据えた。
だが――
今の曹芳には、この状況を覆す術はなかった。
「……分かった」と声を絞り出し、顔を伏せながら議場を後にした。
何晏は、曹芳に続いて司馬懿も退場したのを見届けると、懐から手鏡を取り出した。
「ああ……崩れてしまった。美しい私が……」
指の腹で、皺の寄った白粉を丁寧に伸ばす。
しっとりと鏡を覗き込むと、独り頷いた。
「うん……やはり美しい。私……」
そして、壇上の曹爽をちらりと見やった。
目が合うと、曹爽はにやりと笑んだ。
※
数日後――
司馬懿の自宅に曹芳からの使者が下った。
使者は「太傅におかれましては、急ぎ宗廟に来るように」と言った。
司馬懿は心中、不審を抱いた。
「急にお呼び出しとは何ごとであろう……?」
司馬懿が宗廟に辿り着くと、曹芳の姿は既にあった。
黙したまま先帝・曹叡の肖像を見上げていた。
「陛下。臣・司馬懿、参りました。お待たせいたしましたこと、平にご容赦を……」
「――よい。 それより、一つ聞きたい。朕の先祖は何処から身を起こし、今日を築いたのか?」
「お戯れを……そのようなこと、童でも存じおりまする」
「今一度聞きたいのじゃ」
司馬懿はしばし沈黙した。
「……では、申し上げまする。太祖武帝は沛国譙県の人、漢の霊帝に仕え……」
司馬懿は淡々と、しかし力強く語り続けた。
曹丕の代、ついに禅譲を受け大魏を興したくだりでは、自然と声に高揚が混じった。
語り終えると、彼はちらりと曹芳の横顔を見やった。
曹芳の頬には、涙が滴っていた。
司馬懿は静かに尋ねた。
「陛下、何故お嘆きになりまする?」
「それほど偉大な先祖を持ちながら、朕のだらしなさに涙する。
今の朕は曹爽の操り人形に過ぎぬ……」
曹芳はうつむき、司馬懿に背を向けた。
「思えば、そなたには何ほども報いて来れなかった。……この玉帯を取らせる」
※
その翌日――
司馬懿の自宅に二人の息子――司馬師と司馬昭が訪ねてきた。
話を聞いた司馬師は尋ねた。
「子供用の玉帯を賜ったですと?」
司馬昭も続いた。
「漢の献帝も車騎将軍・董承に同じことをなさったと聞き及びまする」
司馬懿は頷いた。
「故に、昨晩調べたら、やはり詔が忍ばせてあった。
『台与があのような事を申すはずがない。本当はどうあったのか調べてくれ』とあった。
やはり、先日の儀には何かあるのじゃ」
「なんと……」
「陛下……おいたわしや……」
「師、昭。儂はこれより病と称して隠遁する。うまく口裏を合わせよ」
「ははっ!」
二人の息子は揃って平伏した。
※
その頃、洛陽郊外では――
――オオオオ……オッ!
盾を持って歩兵が走る。
――ハッ!ハッ!ハッ!ハッ!
剣兵たちは、一歩進むごとに剣を振り上げ、もう一歩進むと剣を振り下ろした。
その脇を通り過ぎる馬車の中で、裴世春は顎をさすった。
「……これでわしもまた昇進……なわけ無いか。何もしておらぬからの……」
そして、演習に励む兵たちを眺めると、ぼそり呟いた。
「帯方に戻ったら、また一から出直しじゃな。馬韓・辰韓の仕置きも山積みじゃし。
それにしても……」
裴世春は、別れ際の何晏の言葉を思い出した。
◇◇◇
何晏は白粉の匂いを漂わせながら、裴世春の至近にその顔を寄せた。
「それとな……新羅という国には、手を下さずともよいぞ。 分かったか?」
「はっ……ははーっ……」
◇◇◇
(何晏様が止めろというのだから、止めておこうか。すると……帰っても仕事がないな)
裴世春はうつむきながら、上目遣いに自身の進む方向を見つめた。
※
数日後、新羅王国・宰相居館――
瓢公ことナカツヒコは、李と話をしながら歩いていた。
その後には、兵士が数人続いている。
「李さんが通訳……? あいつらの儒教の講義をか?」
「ああ。でも、学者先生の言うことは難しくてよく分かんねえ。だから、方々が喜びそうな内容にすり替えて伝えておいたぜ」
「ふーん……古書屋にもついて行ったって?」
「ああ。難しい本を買おうとしてたんでな。後で説明を求められたら困るから、簡単な本を勧めておいた。そしたら、かえって喜んでたぜ」
「……余計な世話かけちまったな。すまねぇ」
「いやいや、お互い様だ。じゃ、おれは帯方に戻るぜ」
「ああ、ありがとう。また今度、そっちにも行くよ」
「おう、じゃあな」
李は馬にまたがると、足早に去って行った。
ナカツヒコは立ち止まったまま、その背中を見送った。
その時だった――
――シュルルルルル……サクッ!
どこからともなく飛来した長針が、ナカツヒコの鼻先を掠め、門柱に突き刺さった。
「賊だ! 探せ!」
衛兵たちが一斉に駆け出す。
だが、ナカツヒコは悠然と針を引き抜くと、結ばれていた文を広げた。
やがて、ひとりごちた。
「ふふ……『司馬懿殿、ご退場でござーる』てか。こいつは面白くなりそうだな。
また曹侍中におひねりを配らにゃならんようだが……儲かってるから、何とかなるか」
※
こちらは呉国・荊州総督府――
諸葛恪は、大都督・陸遜に一礼すると、すぐに面を上げた。
「大都督。丞相府より、大都督のご承認が必要な書類を持参いたしました。お目通しを」
陸遜は短く「うむ」と頷くと、書類の一つ一つに目を通していった。
「こちらから送った船は、もう出たか?」
「いえ。それが、まだでございます」
「……何?」
陸遜は手を止めて、すぐ前に立つ諸葛恪を見上げた。
「何かあったか?」
「出航許可が下りませぬ」
「……どういうことだ?」
「太子と魯王が、呂岱殿を取り合っておりまして……」
諸葛恪は、最近の都・建業での動向を説明した。
「……つまり、どちらも呂岱殿の手柄を己のものとしたいのです」
聞き終わると、陸遜はがっくりと頭を垂れた。
「……孫登様がご存命なら……。ああ、今のは聞かなかったことにしてくれ」
「私は、亡き太子は嫌いです。
……大都督、今のも聞かなかったことにしてくださいますね?」
そう言って、諸葛恪はニヤリと笑った。
陸遜はかつて国内に広まった噂話を思い出し、溜め息をついた。
「やれやれ……」
◇◇◇
それは、太子・孫登がまだ幼かった頃のこと――
孫登は、諸葛恪の目を真っ直ぐに見上げて言った。
「お主などは、糞でも食らっておれ!」
諸葛恪は即座に孫登を睨みつけて言った。
「ならば太子は『卵だけ』をお召し上がりになられませ」
傍らで聞いていた孫権は「どういう意味か?」と静かに尋ねた。
すると、諸葛恪は毅然として答えた。
「どちらも出処は一緒でございます」
孫権はその場で手を叩き、高らかに笑った。
◇◇◇
陸遜はぼやいた。
「そなたは……いちいち何か言い返さねば気が済まないのかね?」
諸葛恪はその問いには答えず、ただ黙したまま立ち尽くしていた。
陸遜は再び、深く重い溜め息をついた。
「……我らは呉国の臣。 人がなんと言おうと、国に従い、国を守って行こうぞ」
言い終わると、陸遜は押印した書類の束を差し出した。
※
そこは難波津・森ノ宮の館――
「やっぱり、のり弁は食べるものですね……」
そう呟くと台与は、海苔を乗せた飯椀に「さくっ」と箸を差し込むと「もりっ」と掬い上げ、それを「はむっ」と口に運んだ。
「もぐ……あちこち、歩き回り……もぐもぐ。お腹が、空いたのです……」
森ノ宮の長老は静かな笑みを浮かべた。
「神つ国から取り寄せた岩海苔です。たくさん召し上がってください」
「はい……!」
台与は満面の笑みを返した。
ルナは椀を顔に近づけると、目を閉じて大きく息を吸い込んだ。
「んー……。磯の香りがしますわ……」
台与はすぐさま、長老に椀を差し出した。
「んん……! おかわりです!」
それを見たルナは、静かに台与を諭した。
「台与様、いけません。ちゃんと、お口を空にしてからお代わりしませんと。
私はまだ一杯目ですよ」
「んぐ……お姉様が、遅いのです……」
その言葉に、ルナは眼光鋭く台与を射抜いた。
台与も負けじと睨み返す。
二人の視線は、時を追うごとに鋭さを増していった。
やがて――
「ずるいですわ!……抜け駆けですわ!」
「私は、負けません……」
「こら! お口に入れたら、おしゃべり禁止ですよ!」
「はむっ………………!」
「んむっ……!」
二人の巫女は火花を散らしながら、競うように箸を動かした。
長老は目を細めて、その様子を眺めた。
「あの……おかずも召し上がってくださいね」
二人は同時に長老を見据え、無言で力強く頷いた。
森ノ宮に上った月は、傾く間もなかった。
飯を盛った櫃も、膳も、海苔の器も、間もなく底を見せるようになり――
次の瞬間には、すべてが空になっていた。
お読みくださりありがとうございました。
魏帝・曹芳が『のり弁政治』だの『知る権利』だの、そんな言葉を使うはずがないのですが……。
しかし、当時も同義語は存在したと仮定し、敢えて当時の言葉ではなく、現代語を使用しました。
※現代語は文字数を減らすのに便利で有用ですね
今話のテーマは「誤った三段論法」です。
(1)伝統は正義である
(2)『のり弁政治』は三国時代から存在した(……っぽい)
(3)ゆえに、『のり弁政治』は正義である
この論は、結論が誤っているのみならず、
どこにも『真』である命題が存在しない(そもそも前提が間違っている)
という点に注意が必要です。
作業としましては、二章先「第六章」への伏線を張っております。
魏志倭人伝には、「倭国に黄幢を仮授した」とあるのですが……個人的には、とても信じられません。
黄幢とは「皇帝の将旗」でして、本来は皇帝の権威を示す重要な軍旗です。
日本で言えば『菊の御紋』とか『錦の御旗』とか、それに近いもの。
そういう物品を外国に渡して寄越す……というのは、事実としても不可解ですし、
それを平然とやってしまう政府(朝廷)が存在……したとしても、正気の沙汰だったとは思えません。
かといって、皇帝本人や皇帝権限を代行する大将軍が倭国に渡った、という記述も無い……と。
この点には、裴松之は疑義を呈していないのですが、内心では
裴松之「えっ、皇帝の旗を国外にホイホイ出しちゃったの? 管理体制どうなってんの?」
と叫び、注釈すら付けられなかったのではないか……?そんな想像すら膨らみます。
ですが、魏志倭人伝に書いてあることですので、この異常事態が発生した理由を作り出さなければなりません。
これからも、無理筋を道理に変えるため、隙あらば伏線を張り巡らせて参ります。
また、のり弁と言えば「焼きのり」ですが、この時代(正始年間)にはまだ存在しなかったため、
岩のりご飯となってしまいましたことを、深くお詫び申し上げます。
次回「第85話 その男・木の国の彦尊」
台与様と金玄基の前に、ついにあの男が立ちはだかる――ヤマトの運命やいかに?!
(木曜20時ごろ更新予定です)




