第81話 見えぬ影の向こう側
東アジアを覆う見えない影が動き出した。
呂岱が、裴世春が、台与が……翻弄される人々。
そして、金玄基が最後に見たものとは――?
倭国に帰る船あれば、倭国へ向かう船あり――
長江河口の港に、鄱陽湖から巨大楼船が到着したその日、
呉帝国・大司馬・呂岱は、太子・孫和の邸宅へと歩を進めていた。
急な呼び出しだった。
(太子が私に……何の用だろう?)
呂岱には、心当たりがなかった。
そこに、傍らから呼び止める声が、呂岱の耳に届いた。
「おう、呂岱! 変わりはないか?」
振り返ると、魯王・孫覇が立っていた。
目を輝かせて、こちら見ている。
「聞いたぞ、聞いたぞ? そなた、女を探しておるとか――」
「――えっ?!」
呂岱は青ざめた。
「……どなたがそのような……」
「なあに、もっぱらの噂じゃ……。ちと我が家に寄っていかぬか?」
孫覇はそう言うと、呂岱を袖を引いた。
だが、呂岱は丁寧に拱手しながら辞退した。
「太子に呼ばれておりまする。 先を急ぎまする故、今は……」
「……そうか。 では、帰りに寄れ。余の寵姫たちを見せてやろう」
「ははっ。では……参らせていただきまする……」
呂岱は拱手すると、深々と平伏した。
(危なかった……丞相のお宅にいた下女は、魯王の手の者であったか……)
冷や汗を垂らしながら、呂岱は太子邸へと辿り着いた。
やがて、中に通され、入ってみると、奥にいたのは太子・孫和の母・王夫人であった。
夫人は椅子に腰掛けたまま、呂岱をじっと見つめた。
「大司馬……」
「これはこれは……この度のお呼び立て、いかなる御用でございましょうか?」
すると、夫人は静かに答えた。
「そなたが女を求めていると聞きました――」
「――なっ!! なんですって?!」
ふたたび、呂岱は青ざめた。
「……ど、どなたが……そのような……?」
「もっぱらの噂です」
夫人は呂岱を諭すように続けた。
「大司馬……そなたはお役目も重く、陛下にとってもお大切な御身……。
やたらと市井の女など求めるものではありませぬ」
「は……ははっ」
「必要ならば、私が素性の確かな者を見繕い、紹介します。
どのような者がお好みです? なんなりと申すのです」
「……い、いえ……その……あの……しかし……では……」
言い淀みながら、呂岱は王夫人に返す言葉を頭の中で慎重に選んだ。
(……どういうことだ? 太子と魯王……どちらも同じことを……)
呂岱の背は汗でぐっしょりと濡れた。
(……誰だ? 誰の手の者なのだ?! 誰の……?)
不快感に耐えながら、呂岱は、まだ見えぬ女の影の向こう側をじっと見据えた。
それが――呂岱という男であった。
※
呂岱が見据えるその先には、彼の知らぬ男が、静かに佇んでいた――
新羅王国・宰相・瓢公――またの名をナカツヒコは、王城の片隅の部屋で一人、文に目を通していた。
そして、ひとりごちた。
「呉が来ぬ国に使者を……不味いなぁ。倭国にも知らせたほうがいいな。
……だが、こちらも忙しくなってきたし……。
こういうの誰か引き受けてくれないかな……そうだ。あいつ、どうだろ?」
ナカツヒコは文を持った手を伸ばすと、声を低くして呟いた。
「カゲマル……これを、難波津にいるあいつに届けてくれ」
すると、天井から、影がすっと飛び降りてきた。
影は、ナカツヒコの手にした文をひったくると、風のようにその場から消えた。
その直後、部屋の外から、守衛の声が響いた。
「宰相様、申し上げます! 岬の見張り台から報告! 倭国の船が現れました!」
「わかった。すぐ行く!」
ナカツヒコは、すっくと立ち上がった。
「……さあて、帯方帰りの奴らを迎えてやるとするか……」
※
その魏国・帯方郡・太守の間では――
太守・弓遵、建中校尉・梯儁、そして裴世春の三名が、顔を揃えた。
卓の上には、倭国から来た親書が広がっている。
塞曹掾史・張政は、部屋の隅に腰を下ろし、黙したままそれらを眺めていた。
特に感想も持たず、ただ淡々と彼らの声を聞いては、書面に墨を落としていく。
裴世春は机の上に肘をつき、組んだ手を額に当てた。
「倭国の使者を取り逃がしたのは痛かった……」
弓遵が梯儁に尋ねた。
「その『台与』という者は、何者なのじゃ?」
その問いに、裴世春が面を上げた。
「倭国女王・卑弥呼の宗女です。実は、前回の朝貢の際も、密かに同行しておりました」
「……ほう?」
「私が倭国へ使者として参りました際も案内としてついて来て……その際は確か八歳であったかと」
「八歳……?」弓遵は目を丸くした。
「では、今もって十一歳……童ではないか?」
「はっ……そうなりまする」
その言葉に、弓遵は目を伏せて沈黙した。
しばらくすると、顔を上げ、尋ねた。
「世春。親書に注釈を添え、幼子の戯言……ということで処理はできぬかの?」
裴世春はしばらくの間、低く唸っていた。
だが、ゆっくりと立ち上がると、弓遵に拱手した。
「恐れながら、太守様……『戯言』とまで断じるのは、いささか危ういかと。
ここは、『倭人の拙い手による漢文ゆえ、真意は測りかねる』……と書き添えるのはいかがでしょうか」
「うむ……完璧じゃ。……だが念のため、何晏様にもお伺いを立ててみるとしよう」
梯儁は震えながら呟いた。
「倭国は危険じゃ……親書まで、魅惑に満ちておる」
張政は記録をつけながら、心の中で呟いた。
(なんじゃ……大騒ぎするほどのことではなかったではないか。
まったく官僚というやつは、ちょっとしたことに恩を着せおって……)
そして、笑みを浮かべながら弓遵と見つめ合う裴世春の横顔を、ジロリと睨みつけた。
※
その倭国・伊勢の社では――
――ドタドタドタドタッ!
広縁を足早に歩む女の足音が響いていた。
やがて、広間に座す台与とルナの前に、伊勢の大巫女が現れた。
「あら、台与ちゃん。いらっしゃい! ごめんね、待たせちゃって……」
「いえ。私こそ、突然お伺いしてしまい……」
「いいのよ、いいのよ。まあ、ルナも一緒で……元気だった?」
「はい。大巫女様にまたお目にかかれ……」
「そう……」
大巫女はにっこりと笑むと、二人の前にすっと座った。
「話は代役の子から聞いたわ。 後でゆっくり話すから、今から行きましょう」
「えっ、今から……どちらへ?」台与は尋ねた。
「このお社の宝物庫よ。……来れば、分かるわ」
そして、にっこりと笑むと、大巫女は、またすぐ立ち上がった。
※
台与は、まずは目の高さにあった宝物をまじまじと見つめた。
そこは倉庫のような所だった。
薄暗い部屋の中に、ところ狭しと棚が並び、歩ける場所はわずかしかない。
その棚の間には、品物が種類ごとにまとめられ、整然と陳列されていた。
「その辺は、神事で使う道具ね。珍しいものじゃないわ、阿蘇にもあるでしょ?
この間、魏から届いた神獣鏡はあっち。これは奴奈川の大巫女様から頂いた翡翠、何年かに一度届くの。この箱はこの辺りで穫れる真珠……琥珀もあるわ。中に蟻がいるのよ?……それから……」
大巫女は、台与の数歩先にいて、宝物一つ一つを説明して歩いていた。
そこには、やはり、太陽にまつわる神事で使う品が多かった。
中には貴重そうな物、初めて見るものもあった。
だが、台与の感情は揺さぶられない。
それよりも、ここに連れてきた大巫女の真意のほうが気になった。
台与は、大巫女の背中を見つめた。
大巫女は、こちらをくるっと振り返ると、にっこりと笑んだ。
「どう?台与ちゃん。なにか欲しいものあった?」
台与は大巫女の顔をまじまじと見つめた。
「いえ。特に……」
「あら、欲がないのね」
大巫女は一瞬目を丸めたが、すぐにクスクスと笑った。
そして、両手を大きく広げた。
「じゃあ、『ここにあるもの、ぜ〜んぶあげる!』って言ったら……どう?」
台与は目を大きく開いて、大巫女を見つめた。
「全部……ですか?」
「そう……全部よ」
大巫女は薄く笑った。
「……詳しいことは戻ったら話すわ」
そう言うと、大巫女はするすると宝物庫の出口に向かった。
台与は黙したまま、大巫女に続いた。
(詳しいこと……。大巫女様は、何一つお話しなさっていない……)
それが、台与の率直な感想だった。
※
広間に戻った大巫女は、ルナを傍らに座らせると、台与とは正対して座った。
切り出しは、至って単刀直入だった。
「台与ちゃん、伊勢の斎女になってくれないかしら?」
「……伊勢の……?」
台与は両手をついたまま、顔だけを上げ、大巫女を見つめた。
その瞳はキラキラと輝いている。
「そう。この伊勢の」
「でも、私は阿蘇の……」
「それは分かっているわ。 伊勢のお社の斎女は先の戦で亡くなって、長いこと不在なの。
阿蘇の大巫女様にはお伝えしているはずなんだけど……困ってるのよね……」
そう言うと、大巫女は手を頬に当て、視線を宙に浮かせた。
台与は思った。
(ようやく私から目を逸らした……)
台与はそのまま黙って、大巫女の次の一手を待った。
その間、ルナも声を潜めていた。視線だけを大巫女と台与の間で往復させている。
その場には、しばし重たい沈黙が流れた。
やがて、大巫女は目だけを台与に向けた。
「それが条件。……どう?」
台与は、大巫女をじっと見据えた。
台与の眉がわずかに吊ったのを察したのか、大巫女は手を膝の上に置き、背筋を正した。
そして、射抜くような鋭い目になると、真っ直ぐに台与を見据えた。
「どうなの?……台与」
(『ちゃん』が抜けた……これは、本気だ……)
台与は覚悟を決めた。
「お断り、申し上げます」
そして、深く深く平伏した。
「私は、阿蘇の斎女です。 お手伝いなら喜んでいたしますが、お役目までは、お引き受けいたしかねます」
大巫女は、そのまま黙っていた。
沈黙は、先程よりもさらに重たさを増した。
やがて、大巫女はゆっくりと立ち上がった。
一歩また一歩と、台与に近づく。
そして、台与の前で立ち止まると、ゆーっくりと膝を落とした。
「面を。台与……」
台与はそうっと、そうーっと頭を上げた。
すると――
「――ちゃん! じゃ、お手伝いしてね!」
そう叫ぶなり、大巫女は台与に抱きついた。
台与はあまりのことに声が上ずった。
「わっ、わわわ……は、はいっ!」
「んー……良い子。本当に良い子……」
伊勢の大巫女は台与の頭を撫で回した。頬ずりまでした。
やがて、すっくと立ち上がると、台与とルナを振り返って言った。
「じゃあ、さっそく出かけるわよ!」
「ど……どちらへ?」
「山背に行って……それから、森ノ宮ね。
ああ、でも歩くの面倒ね……遠回りだけど、船で行こうか」
その数日後、大巫女と台与らの姿は、森ノ宮にあった。
※
その夜、森ノ宮では――
金玄基は、久しぶりに家族三人で囲炉裏を囲んだ。
「(……三人?)お義父さんたちは?」
尋ねると、アヤメは鍋をかき回しながら言った。
「河内の棟梁さんのところに、引っ越したったい」
金玄基は頭を垂れた。
(……なんで待っててくれないかなぁ……)
その間、こちらをじっと見つめていたスミレが、真っ直ぐに金玄基を指さした。
「おとう……」
「何だい?スミレ」
「後ろに誰かいるよ?」
金玄基は背後をさっと振り返った。
「……誰もいないよ?」
「うん。上に行った」
「上?」
金玄基は、首だけで天井を見上げた。
すると――
目の前に大きな黒い塊が――
迫ってくる――
そして――
――コツンッ!
固い物が額に当たった。
金玄基は仰け反ったまま、背中から倒れ込んだ。
コロンコロン……何かが床を転がる音がする。
「栗だ!」
スミレはひょこひょこと歩いて、それを拾い上げると、金玄基に渡した。
よく見ると、栗の皮は二つに割られ、中に何かが詰められていた。
金玄基は呟いた。
「……カゲマルさん……」
隣では、アヤメがスミレに尋ねていた。
「誰がおったと? お母には見えんかったよ?」
「知らない人」
その後も続いた母子の会話を聞きながら、金玄基は栗から出てきた文に見入った。
お読みくださりありがとうございました。
本作の「伊勢の大巫女様」は「政治バイタリティお化け」です。
太陽神の化身ですので、当然過ぎて平凡な設定ですね……すみません。
これまでは阿蘇と香取にスポットを当て過ぎてましたが、これからは伊勢の大巫女様が倭国をリードして参ります。
次回「第82話 鉄と血と」
難波津・新羅・河内で繰り広げられる人と家族の物語です。
(月曜20時ごろ更新予定です)




