第80話 漢江の夕闇
意気揚々と帯方郡に足を踏み入れたイセエビとクジャク。
しかし、魏の宮廷では事件が起きていた。
途方に暮れる二人を救ったのは、伊勢の大巫女様が仕掛けた「爆弾」だった。
正始四年四月某日――
イセエビは、遠くに見える港を指さした。
「あれが帯方郡の港かのう?」
その隣で、クジャクは強く頷いた。
「うむ。そうじゃろう。 いよいよじゃな、我らの長い戦が始まる」
「……うむ。魏の都とはどのようなところなのか……早く見てみたいものよ」
※
その魏の都・洛陽の宮殿では――
その日も廷議が行われていた。
だが、いつもと様子が違った。
その廷臣は指を立て、周囲を舐めるように見回しながら言った。
「……故に、司馬懿殿の太尉の任を解くべきと考える」
「――待て!司馬懿殿は魏国の大忠臣!それを……」
別の廷臣がそう叫ぶと、また別の廷臣が一歩前に進み出た。
「左様。司馬懿殿は我が国の柱石、だからこそ失ってはならぬ。
だが、戦に出れば何があるか分からぬ」
「そうじゃ!司馬懿殿に万一のことあらば、如何にする?!」
「如何にも何も……太尉のお役目は、戦に出ることだけではない!」
「司馬懿殿は、勇猛果敢な御方……。 必要がありと判ずれば自ら陣頭に立たれる」
「はっはっ!そんなことも知らんのか?」
「……しかし……軍権を取り上げるほどの落ち度はあるまい」
「落ち度ではない。我々は『司馬懿殿にもっと敬意を払うべきじゃ』と申しておるのじゃ」
「そうじゃ。この際、名誉大都督の称号を贈り、顕彰すべきなのじゃ」
「それは……。称号など、名ばかり。何の権限もないではないか!」
「権限の話ではない。司馬懿殿を讃えよう、と申しておるのだ」
「呉や蜀がまた攻めてきたら如何にする?!」
「……我が魏国に人なし、と申すか?」
「北平に毌丘倹あり、寿春に諸葛誕あり、知恵者・鄧艾あり、若き名士・鍾会あり……ざっと十指に余る」
「……指なら百本あっても足るまい……」
「司馬懿殿の御子息・司馬師将軍もおる……何の不足がある?」
「……何より、司馬懿殿は、魏国の宝。
その御身に、もし万一のことあらば、司馬師殿の孝心をどれほど傷つけることか。
孝を重んずる我が国において、子に不孝を強いるも同じじゃ」
「………………」
大魏皇帝・曹芳は、一方的な展開に青ざめた。
そして、傍らに直立する太傅・司馬懿をちらり見やった。
司馬懿は直立したまま議場を眺めていたが、その額には脂汗が滲んでいた。
曹芳は小声で尋ねた。
「司馬懿……何か言い返さなくてよいのか?」
司馬懿は、こちらをちらりと見やると、腰をかがめて囁いた。
「臣は、この場には『太傅』として臨席しております。
太傅には、廷議で発言する資格はござりませぬ。故に、黙って見ております。
陛下のお心遣いには心より感謝申し上げますが、ご心配には及びませぬ……」
その時だった。
廷臣の一人が高く声を上げた――
「――陛下! ご裁断を!」
曹芳はしばらく黙したまま、その廷臣を見つめた。
(……どちらも選べぬ……今のままがよい。
かと言って、司馬懿がいなくなるのも困る……)
だが、沈黙を続けるわけにも行かない。
曹芳は重い口を開いた。
「太尉の人事は、皇帝……すなわち朕の専権事項じゃ。この場での決裁は……」
「――陛下!」
声を高く上げ、老齢の廷臣が場の中央に進み出た。
「恐れながら……お伺いいたします。
それは、司馬太傅のご助言に基づく仰せでございましょうか?」
曹芳は声を失った。
その時だった――
「――僭越であるぞ!」
そう叫んだのは、司馬懿とは玉座を挟んで反対側に立っていた、侍中・曹爽であった。
「余は、陛下と司馬懿殿の話を聞いていた!
司馬懿殿は『ご心配はご無用』と申し上げていただけじゃ! 控えい!」
その声は鋭く、高く、議場に響いた。
老齢の廷臣は深々と平伏しながら、するすると列へと下がった。
司馬懿の額は、まるで頭から水を被ったかのように、汗で濡れていた。
太尉・司馬懿仲達が朝廷に辞表を提出したのは、この翌日のことであった。
※
そうとは露ほども知らない倭国朝貢団の――
イセエビとクジャクは、帯方郡・郡城の一室にいた。
目の前には、太守補佐・裴世春、塞曹掾史・張政、そして張政の通訳官が座っている。
イセエビは、クジャクと共に机を挟んで彼らと向かい合っていた。
その背後には、各地の彦尊たちとヤマトの地の四長老が座していた。
張政が説明していたのは、朝貢の段取りについてであった。
「伊声耆殿と、掖邪狗殿には、率然中郎将の官位が授与されます。
その他の方々には、率然校尉の官位を授与します」
それを聞いたイセエビとクジャクは顔を見合わせた。
「我の名は、伊声耆か……まあまあ合ってるな」
「書面で通知したのに、『エ』はどこから来たんじゃ?」
「さあ……?」
張政は二人をじろりと睨んだ。
「……続けてよろしいですかな?」
「はい。どうぞ……」
だが――
「――ちょっと待っとりゃーせ!」
そう言ったのは、尾張の彦尊だった。
「その『率然中郎将』だの『率然校尉』だのっちゅうのは、一体何だね?」
「率然中郎将は、皇帝陛下の親衛隊を指揮する武官ですな。率然校尉はその補佐です」
尾張の彦尊は通訳官をじっと見つめると、再び声を上げた。
「いらんわそんなもん!
なんで我らがイセエビの下に付かにゃーいかんのだわ?! 納得いかんに!」
「そうじゃな……」木の国の彦尊も短く続いた。
「如何にも……」明の彦尊は、いつも右に倣う男だった。
「我らもこの歳で軍は……」そう言うと、ヤマトの四長老は互いに顔を見合わせた。
「……じゃあ、我も!」最後まで黙っていた登の国の彦尊は、明るく言った。
通訳官のこめかみの辺りから、一筋の汗が流れ落ちた。
裴世春は、その男を怪訝そうに横目で睨みながら、尋ねた。
「……なんと申しておるのじゃ?」
「はっ……校尉の方々は皆様、ご辞退申し上げます……と……」
「じ、辞退?!……そ、そうか……奥ゆかしい方々じゃ……」
裴世春は扇子を広げた。
「懐かしい感覚じゃ……返礼の使者として貴国を訪れた時以来かのう?」
張政は憮然とした顔を続けていた。
「では、続けます……。
官位授与式は明日、ここ帯方郡の太守の間において、略式で行います。
官位の目録と宝剣は、天子に成り代わり、太守・弓遵から授与いたします」
伊声耆は頷いた。
掖邪狗は通訳官をじっと見つめていたが、張政に視線を移して頷いた。
「朝貢の儀は、以上です。
その後は、皆様、お帰りいただいて結構です」
通訳官が、張政の言葉を訳すと――
――ええええええっ?!
朝貢団一同から、驚きの悲鳴が上がった。
掖邪狗は机を叩いて立ち上がった。
「皇帝陛下の親衛隊長になったのに、陛下にお目にかかれないとは何ごとだ!?」
伊声耆も立ち上がると、両手を広げ、裴世春に食って掛かった。
「先に『都を視察させていただきたい』と書き送ったはず……どういうことですか?!」
裴世春は背を反らしながら、通訳官を横目で見つめていた。
だが、イセエビに目を向けると、小さく呟いた。
「……そう言われても……中央がそう指定してきた、としか……」
※
帯方郡の日が暮れる――
伊声耆と掖邪狗は、漢江のほとりの土手に腰を下ろし、いつまでも沈む夕陽を見つめていた。
伊声耆は、小さく掖邪狗に尋ねた。
「……親書はどうするって言ってたっけか?」
「向こうで『確認後、翻訳してから都に送る』て言うから『漢文で書きました』って……汝が説明してたじゃないか?」
掖邪狗も、気が抜けたように答えた。
伊声耆は川面をじっと見つめた。
「……返礼の使者は、いつ来るんだっけ?」
「来年の今頃……『もう行き方は分かってるから、水先案内人はいらない』って言われたじゃないか?」
二人はお互い、相手を見やることもなかった。
「……他の彦尊たちは?」
「しばらくここにいたが、揃って飲みに行ったじゃないか?」
「……ヤマトの地の四長老は?」
「郡役所を出てからすぐ、揃って飯を食いに行ったじゃないか?」
「……そうか……そうだったな……」
ゆったりと流れる大河が、赤く染まる。
ときどき跳ね返る光が、二人のまぶたを眩しく刺した。
その後も二人は、この光景をじっと眺めていた。
その時だった――
「――よう!お二人さん」
その声に二人は振り返った。
見覚えのある男の姿があった。
「……ナカツヒコ……」
「……来てたのか……」
「ああ。飯でも食いに行こうぜ。いろいろと話もあるんだ」
※
翌日、帯方郡役所・執務室では――
――ガンッ!
裴世春は、大きな音を立ててその頭を机に叩きつけた。
そして、手を震わせながら、
「んななな……、ななな……」
と唸ると――
「――なんだってえぇぇ?!」
と叫んだ。
「……この親書……大変なことが書いてあるぞ……」
「どれですか?」通訳官の男が、裴世春の机に駆け寄った。
「……『いつの日か、倭の都に陛下をお迎えし、ささやかなる宴を』……」
裴世春は怒鳴った。
「けせけせけせけせ! 天子が倭まで下向するわけがないだろう?!」
張政が、裴世春の元に駆け寄った。
「お待ちを! それは文書改ざん……」
「うっ!むむぅ……そうだった……」
裴世春は歯噛みをしながら、低く唸った。
張政は裴世春を見下ろしながら低く言った。
「他に方法がないでしょう……そのまま送る以外には」
「く……首が飛ぶぞ……?」
「ふんっ……親友に会えますな。きっと金玄基は閻魔の足元で待ってますぞ」
「うわあああああ! なんで万葉仮名で書いてくれなかったんだ……!」
「はっはっはっは……」
張政は低く乾いた笑い声を上げると、通訳官の男と目を合わせた。
「おい。俺は逝くけど、お前は……辞めるなら今のうちだぞ?」
※
それから数刻後――
伊声耆と掖邪狗は、帯方郡の港にいた。
「……終わったな……我らの戦は……」
「そうだな……」
「……ナカツヒコが『帰りに新羅の港に寄ってくれ』と言ってたな……どこだ新羅って?」
「さあ……? 『迎えの船を寄越す』って言うてたろうが。目印は浅葱色の旗……」
「……そうだったな……では、そろそろ出るか」
伊声耆は振り返ると、力なく片手を上げた。
倭国の朝貢団を乗せた船が、ゆっくりと岸壁を離れ始めた。
尾張の彦尊が両手を頭の後ろに組みながら、隣りにいる彦尊たちに話しかけている。
「結局、汝らは何しに来たんだて?」
まず、木の彦尊が答えた。
「我は『大陸の思想』をもっと知りたくてな。
淡海の彦尊に言われたんじゃ、『汝の理は、詰めが甘い』……と」
次に目を向けられたのは、明の彦尊だった。
「我は『兵法三十六計』という書があれば、と思うてな。もっと自分を磨くのじゃ!」
登の彦尊は力強く言った。
「我は、魏国の『神』だという天子様を、一目見たかったんじゃ!」
「なんだ、結局、都を見たかっただけなんだがや! 我と一緒だわ!」
そう言うと、尾張の彦尊は野太い声で笑った。
ヤマトの四長老は彦尊たちとは少し離れたところにいて、何か話している。
彼らの表情は、淡々としたものだった。
港の入口にある見張り台から、『出航許可』を知らせる旗が振られた。
伊声耆と掖邪狗が乗った船が港と海の境をまたいだ。
それを見届けると、二人は船底に置かれた木箱の上に、ゆっくりと腰を下ろした。
そこに――
岸壁から、聞き覚えのある声が届いた。
「おーい! おーい! 伊声耆殿! 掖邪狗殿!」
二人は同時に振り返った。
手を振りながら駆けてきたのは、裴世春だった。
だが、引き返すにはもう遠い。
見張り台からの停船指示も出ていなかった。
船はそのままゆっくりと、沖合へと離れて行った。
帯方の港には、必死すぎる男の、高い声が虚しく響き渡った。
お読みくださりありがとうございました。
毎度おなじみ「知ってた」という展開でした。すみません。
多少スパイスを混ぜてますが、魏志倭人伝の行間にそう書いてありますから、
目新しいところは一つもなかったですね……。
次回「第81話 見えぬ影の向こう側」
動き始める東夷情勢!自分で仕掛けた伏線をさっそく解くスタイルです。
(木曜20時ごろ更新予定です)




