第79話 光と影
台与は闇の中から目覚めた。
イセエビ、クジャクを正使とする朝貢団が出発。だが、海の向こうは危険がいっぱいだ。
その頃、来ぬ国の王・クニトラは陽だまりの中にいた。
その頃、伊勢の社の片隅では――
台与は、ようやく長い眠りから覚めた。
ルナは寝台の傍らから優しく微笑みかけた。
「ずっと、うなされていたのですよ」
台与は頭に白い布を巻き、それを額で三角に折っている。
だが、この日、数日ぶりに上体を起こした。
台与は、白湯を注いだ湯呑に口をつけた。
「なにか言っていましたか?」
「いいえ。何も……」
ルナはそう答えた。
金玄基は冷水に浸した布を絞りながら、台与たちを横目に見つめた。
(ルナ様は何故そんなウソを……言っても何になることではないが……)
その目には、その時の光景がまだ焼き付いていた。
◇◇◇
台与は左手を胸に当てたまま、右手を天井に伸ばした。
そして、目を閉じたまま、苦しそうに呻いた。
「お母様……お母様……」
◇◇◇
台与は重ねてルナに尋ねた。
「伊勢の大巫女様は……?」
「まだお戻りにはなりませぬ……」
「むぅー」
ルナの答えに、台与は頬を膨らませた。
金玄基は思わず「ふふっ……」と短く笑った。
◇◇◇
伊勢の社に到着した日――
金玄基たちは、さっそく、伊勢の大巫女に面会できることとなった。
大巫女は御簾を挟んで、台与らと相対した。
金玄基は台与のすぐ後ろに控えたが、不思議な違和感を感じていた。
(伊勢の大巫女様が、御簾ごしに台与様と会う……何かあったのだろうか?
俺や久米さんがいるから?……なら、同席させなければいいのに……)
その心配は、今度は見事的中した。
台与は平伏しながら、大巫女に言った。
「この度は、阿蘇の大巫女様の使いとして参りました」
「はい」
台与は、その隣で平伏していたルナと目を合わせた。
「阿蘇の大巫女様は『伊勢の大巫女様が伊勢にいないのは何故か?』とお伺いになり……」
「あら、まあ……」
台与とルナは、顔を見合わせた。
「この度は、淡海の伊勢に参って、お詫びなど言上いたすお役目を仰せつかり……」
「おほほ……」
台与とルナは、眉をひそめて見つめ合った。
「大巫女様。御簾の内に参らせていただいても宜しいでしょうか?」
「ええっ? ダメです!」
二人の巫女は構わず立ち上がり、歩を進めた。
ルナが御簾に手を伸ばした。
その時、御簾の向こうにいる大巫女は言った――
「――なりませぬ、台与様!」
台与とルナは目を丸くして立ち止まった。
「とよ……さま?!」
二人は御簾の内側へとなだれ込んだ。
台与の声が静かに届いた。
「……どなたです?」
その後、御簾の向こう側では、小声での問答が続いた。
やがて、聞き慣れぬ、女のか細い声が漏れた。
「だって、だって……大巫女様が仰ったのです。
人が来たら、『はい』と『あら、まあ』と『おほほ……』とだけ言えばいい、って……」
◇◇◇
「あれがホントの、にせの大巫女です……」そう言うと、台与はもう一度白湯をすすった。
「まあまあ……それもお役目だったということで……」
そう言うと、台与は口を尖らせてこちらを睨んだ。
金玄基は笑みを浮かべながら、絞った布を台与に手渡した。
「まだ少しお熱があります。 これをして、もうしばらく横になっていてください」
※
同じ頃、末盧の港を望む山の上に――
朝貢団を乗せた船を見つめる、阿蘇の大巫女とナギサヒコの姿があった。
阿蘇の大巫女はぽつりと言った。
「……大丈夫かのう、あやつら……」
ナギサヒコは遠ざかる船影を眩しげに見つめながら、穏やかに返した。
「大丈夫でございましょう。此度は、段取りも万端、整ってございますから」
「ふむ……」
阿蘇の大巫女は深く、溜め息を漏らした。
「ナカツヒコも一緒について行ってくれればのう……」
「仕方ありませぬ。魏では『お尋ね者』になってしまっているようですから……」
阿蘇の大巫女は、思い出したように尋ねた。
「して……イヨの手紙じゃが……」
「はい。返書をしたため、送りました。
ただ『千年』と言われても困るので、『何に何年かかるのか?』を知らせろ、と」
「……励ましの言葉も添えてやってくれたか?」
「はい。『あまり真に受けて根を詰めるな』と、諭しておきました」
「うむ……それでよい」
そう言うと、阿蘇の大巫女は、うつむきながら輿を置いた方へと歩き始めた。
ナギサヒコは振り返ると、引き留めるように鋭く尋ねた。
「――ところで、イセエビからの要望には応じられますか?
台与を、伊勢の斎女に寄越してくれという……」
すると――
「――イヨは、やらぬ!」
阿蘇の大巫女は急に足を止め、ナギサヒコを振り返ると、鋭い眼光を向けた。
しかし、すぐに背を向けると、低く呟いた。
「だが……」
「だが……?」
「……運命には逆らえぬやも知れぬ」
それだけ言うと、大巫女はまた歩を進めた。
※
その数日前――
ナカツヒコの姿は馬韓の港にあった。
船を降りてから、まず耳に飛び込んできたのは、不穏な噂だった。
「馬韓の王が自らが出陣し、新羅という国の都に向かった……」
ナカツヒコは馬を飛ばした。
辿り着いた新羅の都は、立ち込める土煙と兵たちの怒号に包まれていた。
ナカツヒコは王旗を求めて、再び馬を走らせた。
やがて、馬韓王と再会した。
「おお、瓢公!」
馬韓王はナカツヒコを見るなり、親しげに両手を広げた。
ナカツヒコは、王の前に平伏すると、尋ねた。
「王者様、これは一体、いかなることでございましょう?」
「いや、なに……魏の使者が『新羅を討て』と、しつこく迫るものでな……」
「なんと?!」
「だが、三日ほど包囲したら帰るつもりじゃ。 新羅王にも内々に、その旨伝えておる」
ナカツヒコは拱手すると、深々と頭を下げた。
「……ご配慮、痛み入りまする」
「だが、それが済んだら『では、朝貢しろ』と言ってくるのであろうよ。
まったく……頭痛の種は尽きぬ」
馬韓王はナカツヒコに床几を勧めた。
「それでな、瓢公。そなたに相談がある。
我が国の鋼材をもっと買って欲しいのだが……」
ナカツヒコは勧められるままに、床几に腰を下ろした。
※
数日後、魏国・帯方郡では――
裴世春は、太守・弓遵を前に拱手礼を取ると、声を高くした。
「太守様、お喜びください! 馬韓が賊の討伐に成功したそうにござりまする。
先ほど使者が参りまして……」
ひととおり報告すると、弓遵は手を叩いた。
「そうか、してやったりじゃ!……で、朝貢は、いつになると申しておった?」
「……それはもう、すぐにでも……」
「馬韓が我が魏に降れば、東夷に呉が手出しできる国はなくなる……!大手柄じゃ!」
そう言うと、弓遵は片手を掲げて笑った。
裴世春は、にこやかな笑みを浮かべた。
だが、その背筋には冷たい汗が流れていた。
(戦をしたばかりで、貢物の話など出るはずがなかろうに……。
まあ、後日、辻褄を合わせておけばよいか……)
※
同じ頃、呉国・建業では――
大司馬・呂岱は、丞相・顧雍の元を訪れていた。
「――ごほっ!ごほーーーーほっ……ほっ! げふっ……げふん……っ……」
顧雍は呂岱が入室してくるなり、大きく、長く咳き込んだ。
そして、ゆっくりと寝台から身を起こすと、床に置いた靴に足を入れた。
「見ての通りじゃ、呂岱殿。もう長くはない……」
「何をおっしゃいます、丞相……」
顧雍は澄んだ目で呂岱を見つめると、静かな笑みを浮かべた。
「わしは、次の丞相には貴方がよいと思うておる。だが……貴方は賢明な方だ。
きっと辞退なされるでしょうな」
呂岱は何も言えず、ただじっと顧雍を見つめた。
だが、顧雍が身をよじるようにして姿勢を正したのを見届けると、重い口を開いた。
「本日は、丞相府から密命を出していただきたく、お願いに参りました。
陛下もご承知の件なのですが……」
――ごほっ!ごほっ……ごほーーほんっ!……ごふっ、ごふっ!
呂岱は、差し出すべき水差しに手をかけようとして――その手を止めた。
今はこの老人の矜持を汚すべきではないと、気付いたからだ。
「……失礼。続きを……」
顧雍はそう言うと、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
その後、何度か咳き込みながらも、呂岱の話を聞き終えると、顧雍は低く呟いた。
「倭国に使者……大都督も危ない橋を……うっ!……うんっ……。
……分かりました。明日にでも、丞相府の者を寄越しましょう。
具体的な文面は、その者と詰めてくだされ……ううっ、ごふ!……ごふっ」
そこに――
床を滑るような足取りで、一人の下女がその部屋に入ってきた。
その手には、水瓶と空の器を乗せた盆があった。
その女は顧雍の傍らに盆を置くと、器に水を注いだ。
その際、伏せていた顔をこちらに向けた。
一瞬、その目に鋭い眼光が宿ったのを、呂岱は見逃さなかった。
(……どこぞの間者ではなかろうか?)
いつの間にか、呂岱はその女に見入っていた。
すると、女は薄く笑った。
そこで――
呂岱は、再び顧雍に尋ねた。
「ところで、丞相……その女、私にくださりませぬか?――」
――ごほっ!ごほーーーーおんっ!ごほっ……ごほっ……
顧雍はまた、大きく咳こんだ。
「は……はは……。呂岱殿は、お歳を召されても、なおご盛んですな。
ご健康の秘訣ですかな?」
「い、いえ。そういうわけでは……」
「呂岱殿には、長生きしていただきたい。 一向に構いませぬが、ただ……
この者は無口ですが、なかなか気の利く女でしてな。 今すぐに、とは……ちと……」
「あ……はは……丞相、戯言です。 お忘れくだされ……」
「はっ……はっは、ごふっ!……ごふ、ごふっ……」
その女はまた滑らかに顧雍の傍らに寄り添うと、水を勧めながらその背を撫でた。
その後、顧雍の背後に控えると、呂岱を見つめ、にっこりと笑った。
(只者ではない……誰とつながっている? 魏?蜀?……はっ!太子、あるいは魯王か?!
それとも……?)
呂岱はさらに惑った。
それが――呂岱という男であった。
※
ここは、来ぬ国・霧島の宮――
来ぬ国の王・クニトラは、その広縁を音もなく歩む。
それは身を潜めるためではなく、彼なりの配慮であった。
風に乗って、大巫女・ヒムカの声が届く。
クニトラは柱の影にさっと身を隠すと、声のする方をそっと覗いた。
(……今日もやっておるな……)
宮の庭先では、ヒムカが近くの集落から来た子らに囲まれていた。
木板を手にし、聴き語りをしている。
それは、もう何度も目にし、見慣れた光景だった。
ヒムカが口にするのは、神話の一節であった。
その声は流れる歌のように響く。
ヒムカが木板をめくると、子らは食い入るようにその身を乗り出す。
彼らの目の輝きに、クニトラはある種の嫉妬を覚えていた。
だが――。
(……天の岩戸か……)
クニトラはその場に立ち尽くし、ヒムカの奏でを聞いていた。
それに気づいた子供の一人が、ちらりとこちらを見やる。
クニトラは黙したまま、コクリと頷いてみせた。
子供らは互いに、ちらりちらりと見合い始めた。
すると――
ヒムカの声が止んだ。
クニトラは、急いで神殿の影に隠れた。
「ええと……どこまで話しましたっけ?」
ヒムカが子供たちに尋ねる。
クニトラは心の中で呟いた。
(アマノウズメが立ち上がったところまでじゃ……)
クニトラはそっと腰を下ろし、静かに壁にもたれた。
そして、ヒムカの語り口に耳を澄ませた。
目を閉じると、そのまぶたの裏側には、子供たちの輪の中で、目を輝かせて木板に見入り、ヒムカの話を聴く己の姿があった。
温かい春の風が、霧島の宮を通り過ぎて行った。
柔らかな日差しが、ヒムカと来ぬ国の子らを照らす。
その光が作った影の中で、クニトラは一人、穏やかな時を過ごした。
そこにはまだ、嵐の前触れのようなものは、どこにも無かった。
お読みくださりありがとうございました。
今回の話を書き終わって、ある言葉「汚水とワインの法則」を思い出しました。
「樽一杯のワインにスプーン一杯の汚水を注ぐと、樽一杯の汚水になる。
樽一杯の汚水にスプーン一杯のワインを注ぐと、樽一杯の汚水になる。」
ですが、ささやかな幸せを求め続けることを「努力」といい、「希望」というのかも知れません。
次回「第80話 漢江の夕闇」
朝貢団として乗り込んだイセエビとクジャク。彼らを待ち受けていたものとは――?
(月曜20時ごろ更新予定です)




