第78話 香取の敗北〜大巫女の帰還
逃走を続ける香取軍を、あの女が追う――
香取の大巫女は最後まで戦うことを選んだ。
そして、その時はやってくるのだった――
ここは、米を置きたる沢の辺りの砦――
先頭を駆ける兵士の一人が、枯れた声を振り絞って叫んだ。
「――開門! かいもーん!」
香取の大巫女もまた、自らの足で大地を蹴り、走っていた。
時折、肺を焼くような苦しさに立ち止まり、それでも手にした大刀を高く掲げて、後続を鼓舞し続けた。
「砦は目の前じゃ! 急げ! 全員、駆け込めッ!」
凄惨な姿で帰還した兵士たち……だが、
迎え入れた砦の守将・弥馬獲支は、彼らを一喝した。
「大巫女様を徒士で走らすとは――何事かっ!」
「――待て、弥馬獲支……。兵を責めるな」
大巫女は両手を地につき、荒い呼吸を繰り返しながら、弥馬獲支を制した。
泥に汚れ、乱れた髪のまま、やがてゆっくりと顔を上げた。
「……大変なことが……起こったのじゃ。……兵らは何も悪くない。悪いのは我じゃ」
弥馬獲支は、かつてないほどに弱り、震える大巫女の姿に言葉を失った。
「一体……何が起こったのですか?」
「……分からぬ」
大巫女は、ただそう答えた。
※
その頃、月山の麓では――
黒巫女は、祠の暖炉に枯れ枝をくべ、その火に手をかざしていた。
そして、ひとりごちた。
「あんな荒くれ者でも、いなくなってみると……これが平穏というものか……」
何かをしていたのでも、深い思案に耽っていたのでもなかった。
ただ漫然と、時を過ごしていた。
と、そこに――
突然、数人の男たちが駆け込んできた。
「フチ!……はぁ、はぁ……っ!」
「ネコン・アン・ラ?」
激しく息を切らす男たちの様子に、黒巫女は動じることなく祠の奥を指さした。
「……タネ、ワッカ・イク・ワ・リシパネ」
男たちは、差し出された瓶に群がり、喉を鳴らしてその水を一気に流し込んだ。
「ニシパ・ヤマト・ウタレ・コㇿ・トゥムヌ……」
「ナン……?!」
「ウタレ・キラㇷ゚・ネ・カ、ニシパ・オママン・アㇱカシ!」
「ウェン! ウタレ・カスパ・エライカ!」
「タネ・アン・ラ・シマニ・ヤン!」
黒巫女は深く、重く頷いた。
「あの女……香取の大巫女とか申しておったな。いい気味じゃが……
黙って見ているわけにもいくまい」
揺らめく炎を見つめながら、黒巫女は祈るように呟いた。
男たちは黒巫女を担ぎ上げ、勢いよく祠を飛び出した。
黒巫女は寒風に身を晒しながら、愛すべき「北の民」の元へと向かった。
※
大巫女から話を聞くと、弥馬獲支は胸を叩いた。
「ならば、後のことはお任せを。石斧と棍棒しか持たぬ敵など、敵ではございませぬ」
「いや……敵では、ない。……民、なのじゃ……」
いまだ息を切らせたまま、大巫女は絞り出すように続けた。
「これ以上、傷つけては……ならぬ……」
言い終わると、大巫女はまた重く、深く、魂を削るような息をついた。
大巫女を輿に乗せ、疲れ果てた兵たちと共に砦から送り出すと、
弥馬獲支は独り、見張り台へと登った。
その場で腕組みをすると、まだ見えぬ、雪煙の彼方から現れるであろう人波をキッと見据えた。
「はっは……いつでもかかって来い! 我が精鋭が、身の程を教えてくれるわ」
※
揺れる輿の上で、香取の大巫女は深く俯き、小さく呟いた。
「……敗軍の将には、酷く居心地の悪い乗り物じゃ……」
誰かの視線が、怖い。
虚勢を張って威儀を正せば、却って己が惨めに思えた。
かといって項垂れていれば、まるで囚人になった気分だった。
ふと顔を上げると、白銀の視界の端に、見覚えのある道が伸びていた。
「止まれ!」
その声に、輿が止まる。
大巫女は右手に見える谷間の道をじっと見据えた。
「……せめて、落ちてくる者を救いに参ろう。
それが、今この我にできる唯一の贖いじゃ」
そう呟くと、大巫女は震える肺を叱咤し、精一杯の声を張り上げた。
「――進路を変える! この先の『始まりの柵』に向かうのじゃッ!」
※
ウヅ改め『羽越の大将』は越の国に入ると、隘路を縫うように駆けた。
囮とはいえ、隠れる場所のない平地を漫然と進むわけにはいかない。
幸いにも、このあたりの地形は目に焼き付いており、記憶に新しかった。
相手の目を欺き、気配を殺しながら、慎重に部隊を前進させる。
背後の山影からは、地鳴りのような『飢えた熱』が、刻一刻と迫っているように感じた。
ウヅは、ただ一筋の希望を求め、『始まりの柵』を目指した。
※
弥馬獲支は櫓の上で腕組みをしたまま、低く唸った。
「な……なんという、数だ……」
北の国の民たちが、視界を埋め尽くしていた。
地響きのように、声を上げながら迫ってくる。
「イペ・コ・レ!」
「メノコ・ポ・ア・カ・イペ・クンネ!」
「ウタレ・カスパ・ヤン!」
弥馬獲支は、歯噛みした。
武器を持たぬ民だった。斬り伏せれば、容易に追い散らせる。
だが、主である大巫女は「傷つけるな」と命じた。
(剣を振るえぬ軍に、何ができる……?)
「……全軍……全小隊、砦を脱出せよ!
敵を刺激するな、身をかわして駆け抜けろ!
砦に火を放ち、奴らの足を止めよ!」
弥馬獲支は各所に火を放つと、泥にまみれて一目散に駆け出した。
振り返ると、北の民たちは、燃え盛る砦の前に跪き、地を叩いて大声を上げていた。
まるで、巨大な焚き火を囲み、儀式を行っているかのようだった。
その声は、激しい嘆きのようにも、あるいは届かぬ祈りのようにも聞こえた。
弥馬獲支はそれを振り切るように、まだ雪の残る峠を目指した。
※
数日後――
大巫女を乗せた輿は『始まりの柵』にあった。
すでに主を下ろし、役目を終えて、主殿を支える柱に立てかけられていた。
主の姿は、柵の内側にある高台にあった。
香取の大巫女は、大きな石に腰を下ろし、周囲を見渡していた。
雪原の向こうから、ぽつり、ぽつりと落人の姿が現れる。
彼らは、この柵に掲げられた香取の将旗を見つけると、駆け寄ってきた。
その安堵の表情を見るたびに、大巫女の心持ちは幾分か和らいだ。
ある時、見張りの兵士の一人が声を張った。
「西方から武装した小隊が接近!百人規模です!」
大巫女は、傍らに突き立てていた大刀の柄へ手を伸ばす。
鋭く地平線を凝視しながら、尋ね返した。
「……追われているか?」
「敵影、見えません! 羽越殿の隊です!」
大巫女はゆっくりと立ち上がった。
小隊は雪煙を上げてこちらへ向かってくる。
その部隊の先頭に、誰よりも力強く駆けてくる者があった。
「ウヅ……良かった……」
※
ウヅは、陽の光を浴びて輝く大刀を目指して駆けた。
「大巫女様!」
そう叫ぶと、大刀が大きく振られた。
ウヅは駆け寄って跪くと、香取の大巫女を見上げて叫んだ。
「大巫女様……ご無事でございましたか!」
「うむ。ウヅも無事で何よりじゃ……」
香取の大巫女は大刀を下ろしながら、ゆっくりとウヅに歩み寄ると
片膝をついて、ウヅの頬に手を当てた。
「おや、まあ……お髭もこんなに伸びて……」
ウヅは込み上げる涙を堪えながら、にっこりと微笑んでみせた。
「そんなことは、もうどうでも……。大巫女様がご無事なら……」
ウヅは感極まり、言葉を継げなかった。
大巫女がそっとウヅの肩を抱くと、静かに言った。
「この地に参れば、ウヅに会えるような気がした……もう一度、ウヅに会えた」
「大巫女様……」
二人は互いの肩を抱き合って泣いた。
北の山の方からも、大きな声が届いた。
「大巫女様ぁぁぁーーーっ!」
大巫女は涙を拭いながら呟いた。
「おお、弥馬獲支じゃ。……弥馬獲支も、無事であったか」
「よろしゅうございました」
その後、弥馬獲支の部隊と共に、三人は『始まりの柵』で焚き火を囲んだ。
互いの傷を労り、失ったものの大きさを噛み締めながら、深い安息の一夜を明かした。
※
だが、その翌朝――
『始まりの柵』は、すっかり北の国の民に囲まれていた。
彼らは、こちらを見上げ、口々に叫んでいた。
「ヤマト・ウタㇻ・エ! イペ・コ・レ・カシ・ヤン!」
「メノコ・ポ・ア・カ・イペ・クンネ。 ウタレ・カスパ・ヤン!」
「ヤマト!」
「ヤマトーーッ!」
香取の大巫女、弥馬獲支、ウヅの三将は、ただ呆然と立ち尽くし、その光景を見下ろした。
見るからに、蟻の這い出る隙もない。
さらに、北側の山並みからは、まだこの群衆に加わろうとする新たな人波が続いていた。
大巫女は静かに目を閉じ、うつむいた。
「もはや、これまで……」
「大巫女様、はやまってはなりませぬ!」ウヅは叫んだ。
「左様!いっそ討って出ましょうぞ!」弥馬獲支も拳を握り、声を張った。
だが、大巫女は力なく首を振った。
「……いや。石や木で殴られて死にとうない……」
そして、じっとウヅを見つめた。
やがて、腰に佩いていた剣を外すと、それを鞘ごと寄越した。
「羽越の大将……これで介錯を頼む」
「大巫女様?!」
「頼む……」
そう言うと大巫女は、着ている鎧も脱ぎ始めた。
その場にはもう、大巫女を直視できる者はなかった。
将も兵も皆、膝をつき、地に手をついて嗚咽を漏らした。
大巫女は凛としてその場に膝を折ると、短刀を抜き、それを自身に向けた。
そして、震えぬ声で一同に告げた。
「我が首を持って、降伏の証とせよ!」
だが、その言葉にも、応える者はなかった。
その時、柵を取り囲む群衆の声も、にわかに静まり返った。
ウヅは涙を溜めながら立ち上がると、大巫女の剣をゆっくりと抜いた。
剣が擦れる「シャリ……」という音がする度に、ウヅの手は止まった。
無情にも剣は全身を現し、その白刃が朝日を浴びて輝く。
ウヅは柄に両手を添えた。
手が震え、目は涙で溢れた。
間近にいるはずの大巫女の姿もぼやけて見えた。
「……少々、お待ちください……っ」
ウヅは堪らず声を上げると、ゆっくりと剣を下ろし、何度も目をこすった。
※
その時だった――
柵を取り囲む群衆が、再び声を上げた。
「ヤマト……ノ……ミナサン!」
柵の内側にいた将兵は弾かれたように、眼下に広がる北の民の群れを凝視した。
「タベモノ!」
「クダサイ!」
大巫女は呟いた。
「ヤマトの皆さん?」
「食べ物、ください……?」弥馬獲支も続いて呟いた。
ウヅは黙したまま、ただ呆然と、民の群れを見つめた。
やがて、群衆の叫びは一つの大きなうねりとなり、雪原に鳴り響いた。
「ヤマト ノ ミナサン タベモノ クダサイ!」
「ヤマト ノ ミナサン タベモノ クダサイ……ッ!」
祈りのような叫びが連呼される中、群衆の中からひとつの黒い影が静かに歩み出た。
「香取の大巫女よ」
それは、大巫女とウヅには聞き覚えのある声だった。
「黒巫女様……」
「何をしておる? そなたに慈愛の心あるならば、この民の声に応ずるべし」
香取の大巫女は、握りしめていた短刀を、力なく雪の上に置いた。
やがて、深く、深く頭を垂れると、憑き物が落ちたように「ふふっ……」と小さく笑った。
「……弥馬獲支。この柵に残る兵糧は、如何ばかりか?」
「あるだけ出しましょう!」
弥馬獲支は強く、清々しい声で応えた。
次の瞬間、ウヅの手から大巫女の剣がこぼれ落ちた。
ウヅは糸が切れたように、そのままその場に崩れ落ちた。
※
数日後――
大巫女の帰還に、香取の民は沸き立った。
皆、口々にその武勲を讃え、声を張り上げる。
「大勝利じゃ! 香取の御威光、北の果てまで届いたり!」
「捕虜の列を見たか? 数千とも聞くぞ」
「まったく……香取の軍は、正に無敵よな!」
勝利の美酒に酔いしれ、高揚する群衆を余所に――。
香取の大巫女、弥馬獲支、ウヅの三将は、香取の海を眺めていた。
「……海がまた少し、小さくなったような気がする……」
大巫女の儚い呟きに、弥馬獲支は重厚な声で応えた。
「大巫女様、乞われるままに連れ帰った北の民たちの処遇ですが……。
その干拓地を耕させては、いかがでしょう?」
その言葉を継ぐように、ウヅも静かに言葉を添えた。
「当面の糧にもなり、彼らの暮らしの術にもなりましょう。
帰りたくなった者は、いつでも帰らせてやればよいのですから」
大巫女は二人を振り返ると、一度だけ深く頷いた。
「我は、しばらくの間、北の国に関わるのはよそうと思うておる。
……何故、我は敗れたのか。その理由がわかるまでは……の」
そう言って目を伏せると、大巫女は春のそよ風のように、お宮の奥へと消えていった。
大巫女の残した言葉は、ウヅの胸の奥に深く沈んだ。
込み上げる複雑な想いが、ウヅの視界を再び潤ませる。
(この戦は……何だったのだろう……?)
(僕は……今の僕は……『和の剣』などではない……!)
ウヅは独りになった後もなお、穏やかな春風に凪ぐ香取の海のさざ波を、ただ、いつまでも、じっと見つめ続けた。
お読みくださりありがとうございました。
結局、最後は大逆転勝ちという「いつものパターン」でした。すみません。でも……
教えてください。歴史とはなんでしょうか?民族とは?文化とは?言葉とは?命とは?
史書の記述より、香取の大巫女様のほうがカッコいい、と思うのは、私だけ……でしょう!(確信)
次回「第79話 光と影」
イセエビ、クジャクの朝貢団がいよいよ出航。待ち受ける先では――?
(木曜20時ごろ更新予定です)




