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第77話 香取の敗北〜雪崩のように

雪の大地に突如現れた来訪者――香取の大巫女は撤退の準備を進める。

一方、北の国には民のため、守るべき誇りのため、立ち上がる王がいた。

香取軍は運命の時を迎えようとしていた。

ところ変わって、ここは羽の国――


香取の大巫女は伝令役の兵士を見下ろしながら、満面の笑みを浮かべた。


「そうか!弥馬獲支も、『米を置きたる沢のほとりの砦』まで撤退したか!」

「奴佳鞮殿も香取に至りましたし、こちら『山の肩に連なりたる大巫女様の邑』に残る兵は五百ほどになりました」


ウヅ改め『羽越の大将』はそう言うと、大巫女を見上げた。

大巫女は力強く頷き、安堵の吐息を漏らす。


「雪の止み間を突いた窮余の策であったが、殊の外上手くいったのう!」


大巫女は、肩の力を抜くと、どっかと腰を下ろした。

そこにもう一人、血相を変えた見張り役の兵士が駆け込んできた。


「申し上げます!羽の国の民と思われる者が三名、この近くに現れました!」


大巫女は休む間もなく、弾かれたように立ち上がった。


「おおっ、ようやく戻ってきたか!すぐにここへ連れて参れ!」

「はっ!」


見張り役が駆け出していくのを見送り、大巫女は再び腰を下ろすと、期待に目を細めた。


「羽越……これで我らもようやく帰れるのう」

「はい。……ただ……」


ウヅは続く言葉を言い淀んだ。


「ん……。ただ、なんじゃ?」

「羽の国の民に、我らの言葉は、真に届くものでしょうか?」


大巫女はしばし黙したままウヅを見つめていたが、やがて穏やかに笑った。


「大丈夫じゃろう。あの羽の彦尊とは話が通じておったのじゃろうから」



やがて、数名の兵士が、『羽の国の民』と思しき三人の男を囚えて戻ってきた。

男たちは、縄で無惨に腕を縛られ、蛇に睨まれた蛙のように怯えきっていた。

大巫女の顔から笑みが消え、声が震えた。


「……捕らえよとは申しておらぬ……。すぐに縄を解くのじゃ!それと粥を用意いたせ」



兵たちが大鍋を運び、彼らの目の前で火を起こす。

やがて、米がぐつぐつと音を立て始めたが、三人の男たちはそれを見て、震えていた。

ウヅは言葉にならぬ不安を覚えた。

大巫女もそう思ったのか、少しの間、ウヅと顔を見合わせた。


「出来たぞ。せめてもの詫びじゃ、召し上がってたもれ」


出来立ての粥を椀に盛り、大巫女は自ら男たちに差し出した。

受け取った男たちは最初、疑うように見つめるだけだった。

だが、一人が意を決すと、椀を持ち上げ、一気に粥を口に流し込んだ。


「――あちっ!あちちっ!」

男は悲鳴を上げ、口元を押さえてのたうち回った。

それを見た他の二人は、絶望したように互いの肩を抱き合い、縮こまった。


その様子を見ていた大巫女は、コロコロと笑い声を上げた。


「あはは!そんなに急いでかき込むものではない。一度、冷ますのじゃ。

 ほら、こんなふうに」


大巫女は椀を手に取り、「ふーっ、ふーっ」と優しく息を吹きかけてみせた。

それを再び民たちに渡した。

男たちはまだ怯えていた。

だが、一人が恐る恐るすすると、他の二人も釣られるように口をつけた。



大巫女は、ようやく食事を始めた民たちに笑みを向けた。


「我らはそなたたちを捕らえに参ったのではない。

 この邑も、明日にでも明け渡す心づもりじゃ。安心して元の暮らしに戻るがよい。

 そなたらの仲間にも、そう伝えるのじゃ」


男たちは黙したまま、ただじっと大巫女を見つめていた。

彼らは門の外へ促されても、一言も発することなく去っていった。


彼らの背中が見えなくなるまで門外で見送った大巫女は、独り言のように呟いた。


「羽越……あの者らに、我の話は通じたであろうか?」

「……分かりませぬ。

 ただ、羽の彦尊を討った後、この地の子供に出会いました。その際……」


それから、大巫女は十日ほど待ち続けたが、再び彼らが現れることはなかった。


    ※


逃げるように村へと辿り着いた男たちは、王の前に崩れるように膝をつくと、

泣き喚くような声で訴えた。


ユク(鹿)を狩っていたら、タム()を持ったオカイ()たちに囲まれた!」

イペケレ・セセク(不思議な熱い汁)を無理やり飲まされたのだ!

 そして悶えるのを見て、あのメノコ《女》は笑ったのだ!」

「そのメノコはニタニタと笑いながら何かを喚いていた……。

 何を言っているのかはさっぱり分からなかった……!」


彼らを囲み、その話を耳にしていた民たちは、口々に叫んだ。


「ウェンカムイ!」

「ウェンメノコ!」

「ヤニケ……」


王は強く歯噛みをしながら立ち上がった。


「チキサ……!ウノヒコトといい、ウァムタといい、我らを人間扱いせぬ……」


王の双眸に暗い炎が宿った。


「もはや容赦はせぬ。……追い散らしてくれる!」


    ※


香取の大巫女は、自ら邑の見張り台に立ち、どこまでも続く白銀の地を遠く眺めていた。 やがて、隣に控えるウヅを振り返ると、ぼやくように言った。

その顔は少しだけ寂しげだった。


「……羽の国の民は、ついに戻らぬな。我らも、もう撤退しよう」


ウヅは「はいっ」と応じると、その場で大声を上げた。


「――撤退だ! 全軍、直ちに撤退の準備にかかれ!」



大巫女は活気づく陣中をくまなく歩き、細かな指示を飛ばして回った。


「兵糧は、道中に必要な分だけを運び出せ。残りはすべて置いていくのじゃ。

 ここに戻ってきた民たちも、当面は食べるものが必要であろうからな」

「武器や弓矢は、残らず持ち帰れ。

 使い道の分からぬものを残しても、民には邪魔になるだけじゃろう……」

「ほかに何か……忘れていることはないか、羽越の大将?」


大巫女は振り返ると、後に続いていたウヅに尋ねた。


「いいえ。一通り、ご指示なされたかと」



その後――


大巫女は、雪を高く盛り上げた上に置かれた輿(こし)に腰を下ろすと、

楽しげに「ふふっと」笑った。


「雪の台座に輿を置くとは、妙案じゃな。乗りやすくてよいぞ」

「担ぎ手たちも、腰を痛めずに持ち上げられると喜んでおります」


ウヅは大巫女から預かった大刀を杖のように突き、にっこりと微笑んだ。

そして、全軍を鼓舞するように叫んだ。


「――出発だッ!」


長い列をなした香取軍が、ゆっくりと歩み始めた。

過酷な冬籠りだったが、ようやくさとへ帰れる。

兵士たち一人ひとりの胸には、そんな明るい希望が灯っていた。


――ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……。


雪を踏みしめるその足取りは、どこまでも力強く、そして軽やかだった。


    ※


――ズンッ、ズン!ズンッ、ズン!……


雪解けを間近に控えた羽の国の大地を、黒い塊が踏みしめながら進んでゆく。


その先頭を征くのは、北の民の王であった。

漆黒の駒にまたがり、節くれだった長い木の棍棒を天に掲げるその勇姿は、周囲の者たちの魂を激しく奮い立たせた。


屈強な男たちは、日々の狩りに用いる棍棒や石斧、あるいは無骨な弓を握りしめていた。

その背後には、女たちも幼子を抱え、あるいはその手を引き、しずしずと後に続いている。


数千の足が通り過ぎた後には、深く踏み固められ、どす黒く溶けかかった雪の道が、まるで傷跡のように刻まれていった。


    ※


――ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……

――ズンッ、ズン!ズンッ、ズン!……


『山の肩に連なりたる邑』からほど近い、川沿いの分岐点。

そこで二つの異質な足音が、不意に重なり合った。

輿に揺られていた大巫女は、その重厚な響きに、はっと顔を向けた。


「……羽越の大将。こちらへ、何かが向かってくるぞ」


だが、次の瞬間、大巫女の表情はぱっと明るい歓喜に染まった。


「おおっ、民じゃ! 羽の国の民たちが、ようやく戻って参ったのだな!」


大巫女は立ち上がらんばかりの勢いで、弾んだ声を上げた。

「輿を止めよ。我を下ろすのじゃ! 去る前に、一言だけ挨拶を交わして参る。

 ……羽越、我に続け!」


ウヅは鋭く叫んだ。


「――全軍、停止! 北を向いて整列せよッ!」



――ズザッ!ズザッ!ズザッ!


五百名の香取軍兵士が、一糸乱れぬ足音とともに一斉に方向を変えた。

雪を蹴立て、無数の槍と剣が北の空へと向き直った。


    ※


雪原に整然と居並ぶ香取の軍容は、北の民たちの目には、禍々しい災いの予兆と映った。

北の民の王は馬上で振り返り、魂を削り出すように怒号を発した。


「エッ! ウタラ・ヤイコイトゥマパ! タム・コアヌ・イ パイェ!」


男たちは、肩や手を激しく震わせながらも、一歩、また一歩と重い歩を進めた。

女子供たちは、危うさを察して足を緩める。


死地へと踏み出す男たちと、それを見守るしかない女子供――。

両者の間隔は、次第に離れていった。


    ※


香取の大巫女は直立し、馬に乗った男――北の民の王が近づいてくるのを待った。

ウヅは大巫女の大刀を手にして、その一歩後ろに控えた。

香取軍兵士たちは、さらにその数十歩後ろに整列していた。


北の民の王がゆっくりと近づいてきた。

そして、十歩ほどの距離で馬を止めた。



香取の大巫女と北の民の王は、そこで対面した。

二人は互いに声を張り上げた。


「そなたらが羽の国の民か? 我はヤマトの巫女じゃ。

 我らは今から国へ帰るところじゃ!」


「ヤマト・ウタレ・ネ・ヤ? コタン・アヌ・イ・ネ・カ。

 シマニ・ホシッパ・ワ・イサマ!」


「雪が降る間、長居してすまなかった!これからは安心して暮らすがよいぞ!」


「ホシッパレ! ウタレ・エライカ・イラムカムイ ホシッパレ!」


「心ばかりじゃが、邑に糧を残しておいた。よかったら使ってくれい!」


「ウタレ・アヌ・イ・イペ ホシッパレ!」



それからしばらく、両者の間には、重く、長い沈黙が流れた。

吹き抜ける風の音だけが響く。

大巫女はウヅを振り返り、


「羽越の大将……なんと申しておるのであろうか?」


と尋ねたが、ウヅは唸ることしか出来なかった。

大巫女は「……困ったのう……」と呟いた。



馬上の男が親指を立てて、後ろを振り返った。

すると、三人の男が進み出て、それぞれが大巫女を指さした。


「アネ・シキ・ネ・ヤ!」

「ウェンメノコ!」

「ウェンカムイ!」


大巫女は、ぱっと口角を上げた。


「おおっ、この間の者どもではないか」


大巫女が軽く両手を振ると、四人の男は激しく身構えた。

その様子に、大巫女は一瞬目を丸くしたが、やがてにっこりと微笑み返した。

そして、ウヅに囁いた。


「見知った顔もあることだし、いずれ通じよう。我らは帰るとしようか」



二人が背を向けて歩き出した時、背後から馬上の男の鋭い叫び声が飛んだ。


「テレ!」


ウヅと大巫女は揃って足を止め、背後を振り返った。

馬上の男は黙したまま、こちらを見つめていた。


「大巫女様、今のは『待て』という意味だったのでしょうか?」

「そんな気がする。だが、彼の者らから礼を受ける謂れはない。別れを告げるのじゃ」


そう言うと大巫女は、凛とした声を張り上げた。


「北の民に――敬礼!」


ウヅも叫んだ。


「――全軍、抜刀! 捧げ持てッ!!」



――キィィィンッ!


香取の兵士たちが一斉に剣を抜く。

それを高々と掲げて、声を上げた。


――オオオオオオオォ!



その時だった――


北の民たちは口々に叫んだ。


「ウェンメノコッ!」

「エカイ・キ・ナ!」

「オママン・カ・ライケ・アン!」


その声に押されるように、北の民の王は馬を駆った。


「ウェンカムイーーーッ!!」



大巫女は目を丸くして身を捩った。

「大巫女様!」ウヅは叫ぶと、大巫女に覆いかぶさった。


王の剣先が、ウヅの鎧をわずかに掠める。

馬はそのまま走り過ぎ、香取軍兵士の目の前で向きを変えた。


「これを!」ウヅは大刀を手渡した。

大巫女は無言で頷きながら、大刀を固く握りしめた。

ウヅは闇雲に叫んだ。


「――戦闘、用意ッ!!」


    ※


それから四半刻後――


凄惨な衝突は、奇妙な膠着状態へと移りつつあった。


ウヅは大巫女の傍らに駆け寄り、声を絞り出す。


「敵は向かって来なくなりました。ですが……」

「うむ。近づくと、石が無数に飛んでくる……。無理攻めはならぬ」


「はっ! ――全隊、停止! そのまま、ゆっくり後退せよ!」


号令を飛ばし終えると、ウヅは深く、重く息を吐いた。


「ここは僕が殿を引き受けます。大巫女様はお早くお引きください……」

「……分かった。先に引く。後を頼む。じゃが、羽越……死ぬなよ!」


その言葉を背中で受け止め、ウヅは強く、一度だけ頷いた。


「羽越隊、防御態勢を取れ! 道をいっぱいに広がって、そのまま待機!」


大巫女は大刀を高く掲げた。


「他の部隊は我に続け!」


    ※


その後、執拗な追撃が始まった。

森の影、岩陰から放たれる石斧や石弓の(つぶて)が、雨のように羽越隊を叩く。

ウヅは巧みに指揮を執り、自らを餌とするように敵を「越の国」へと誘い続けた。


山の頂へと駆け上がったウヅは、焼けるような肺を震わせ、肩で息をしながら振り返った。

そして手にした剣の先で麓を指し、傍らの兵に告げた。


「見よ……。作戦は成功だ。敵の主力は皆、こちらへ向かって来ている。

 大巫女様が向かわれた方には、もう誰も行っていないはずだ……」


だが、その兵士は返事をする余裕すらなく、膝を突き、荒い呼吸を繰り返す。

その沈黙を破り、別の兵が悲鳴に近い声を上げた。


「――報告! 麓の敵集団、こちらへ向かって斜面を登ってきます!」


ウヅは鋭く振り返り、声を張り上げた。


「ギリギリまで引きつけてから山を下る! 今のうちに少しでも息を整えておけ。

 死なせんぞ、一人もな!」


しばらくの後、ウヅ率いる羽越隊は、雪崩のごとき勢いで山肌を駆け下っていった。


だが、ウヅは決定的な異変を見落としていた。

その時、羽の国の大地を音もなく流れるように――大巫女の向かった砦へと着実に進む、黒く、長い行列があったことを。



お読みくださりありがとうございました。

歴史的に、たぶん、こういう事実は無かっただろうとは思うのですが、

山形・米沢・新潟県北部(下越地方)は弥生時代から古墳時代には移行せず、一旦縄文時代に戻った、とする説があります。

それを、この度、香取の大巫女様のせいにしてみました。……軽くやるなよ、って話ではありますけれども……。


次回「第78話 香取の敗北〜大巫女の帰還」

香取の大巫女様(自作品ながら好きなキャラだった)が、ついに最後の時を迎えます……ありがとう、大巫女様!

(月曜20時ごろ更新予定です)

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