第75話 偽の大巫女
ルナは立ち上がった。「ちんちくりんです!」
しかし、老獪な淡海の彦尊に金玄基たちは追い詰められてゆく。
当日、待ち構えていた思わぬ罠に、台与はとっさの一手を放った。
台与は、七色の羽衣を纏ったまま、ずっと無言で立ち尽くしていた。
その目線は、平伏する淡海の彦尊夫婦に向けられていた。
だが、静かに目をつむると「ふぅ」と短く息を吐いた。
その時だった――
「――まあ!なんて不似合いなこと!」
これまで沈黙を守っていたルナが、すっと立ち上がった。
その場にいた全員の視線がルナに集まった。
「……だぼだぼで、ごわごわで、つんつるてんのちんちくりん……」
「ちん……」台与はたじろいだ。
「全然、可愛くありませんわ!やはり、着る人が着てこその……」
――はっはっは!
突如、淡海の彦尊は腹を抱え、大きな声で笑った。
その場にいた全員が彦尊に目線を戻した。
「あはは、ははは……はあ、はあ、ふう……」一通り笑うと、彦尊は息を整えた。
「ご安心なされませ。この衣は、遠目には見えませぬ」
台与だけ残して館の庭に降りると、淡海の彦尊は掌で台与が立つ場所を指した。
「ほら。いかがです?」
「う、うう……本当ですわね……今のお着物しか見えません……」
「光の衣です」
ルナはそれ以上は何も言わず、目を細め、口を尖らせていた。
淡海の彦尊は誇らしそうに腕組みをすると、遠目に台与を眺めた。
「淡海でもその名を知られた名工の作……ですが、その老婆は秘伝を伝えず死にました。
おそらく染めにも工夫があるのでしょうが、織り方が皆目分かりませぬ」
金玄基は沈黙を続けるほかなかった。
そうしていると、ルナが横目を向けながら、肘で金玄基の脇腹を突いた。
金玄基は、震える口で尋ねた。
「恐れながら……彦尊。それなら台与様でなくても……。
適当な郎女に着せ、あの高楼に立たせれば宜しいのでは?」
すると、一瞬で周囲は暗闇に閉ざされた……かのようだった。
淡海の彦尊は目だけを光らせ、こちらを睨んだ。
まるで、闇夜の黒雲が迫ってくるかのようだった。
「……汝はどこの者じゃ?……それに何のありがたみがある……?」
金玄基は身を縮めるほかなかった。
※
その頃、森ノ宮の館では――
竃に息を吹き込みながら、アヤメは呟いた。
「……大丈夫やろうか。
あの人、肝心な時になんか落とし穴ば踏み抜くごたっとこのあるけんね……」
傍らに立っていたイワネは笑った。
「大丈夫たい。今までもなんとかなってきたっちゃなかか?」
その時、背後からスミレの声が響いた。
「おとー、もう逃げられないぞ!……どーん」
アヤメは、さっと振り返った。
スミレはそれまで遊んでいた木の人形を囲炉裏の灰に埋めていた。
「いやー……アヤメさん、たすけてぇ……」
スミレの遊びは、まだしばらく続きそうだった。
※
金玄基らが庭先から戻ってくると、台与は小さく尋ねた。
「もう脱いでも宜しいでしょうか? 破けそうで、身動きができません……」
その言葉に、淡海の彦尊は目を丸くした。
だが、次の瞬間、奥方を振り返ると、慈しむように頷いた。
音もなく台与の背後に回った奥方を眺めながら、彦尊は言った。
「案外丈夫ですので、その程度で破れはいたしませぬ。
ですが……左様ですな。窮屈でありましょう」
奥方は薄氷を扱うような手付きで、そうっと羽衣を外してゆく。
台与は深い息を吐き出すと、その場へゆっくりと膝を折った。
「それほどまでに仰せでしたら……写し身も巫女の務めです。
お望みどおりにいたします」
その言葉に、金玄基とルナは揃って腰を浮かせた。
だが、台与は振り向かない。ただ黙って、薄い笑みを彦尊に向けた。
彦尊は両手をついた。
「おおっ!では、明朝……そうだ!
折角ですから、段取りもそれらしく整えましょう……」
台与は変わらず笑んでいたが、それ以上、ひとことも口にすることはなかった。
※
翌日・未明――
台与は七色の羽衣を羽織り、高楼の最上階に座していた。
木の引き戸を閉じたままのその部屋はまだ暗く、はじめは灯明の明かりだけが頼りだった。
だが今では、遠目に見える山の端が、薄っすらと白くなり始めていた。
金玄基の他には、久米もいた。
二人は合図とともに左右の引き戸を開ける役だった。
台与は、静かに目を閉じていた。
金玄基は膝をつき、声を掛けた。
「台与様……」
「久米、玄基……」
「はい」
「何があっても……笑わないように」
そう言うと、台与は赤らめた頬をこちらを見やった。
だが、その目に笑みはなかった。
金玄基は背筋を正すと、精一杯、真剣に台与を見つめ返した。
「はい!」
※
その頃、高楼の足下では――
奥方は、淡海の彦尊のすぐ横に立ち、台与のいる高楼を見上げていた。
奥方の方から彦尊に囁いた。
「どうなるのかしら?楽しみ……」
「……うむ。あの時は、我もまだ幼かった……」
そう言うと、淡海の彦尊は鋭い眼差しで台与がいる高楼を見上げた。
(台与……か。今のところは合格じゃ。だが、これならどうする?)
淡海の彦尊は大声を上げた。
「――合図の太鼓を鳴らせ!」
※
――ドーン!ドーン!ドーン!
太鼓は三度鳴った。
台与は金玄基に目を向けると、静かに頷いた。
そして、天を見上げるように顔を上げると、両の手を大きく広げた。
「開けます!」
玄基は叫ぶと同時に、渾身の力で木戸を引いた。
左右の引き戸が勢いよく走り、一気に外の世界が飛び込んでくる。
湖面を跳ねる眩い光。
それと同時に、あの銅を焼く咽るような匂いが、怒涛の如く室内へと流れ込んできた。
だが――。
そこに待ち構えていたのは、彦尊と奥方だけではなかった。
階下には、その匂いの中で生きる民たちが、黒い塊となってうねっていた。
淡海中の民がこの場所に集ったのかと錯覚するほどの、圧倒的な人の波。
彼らは皆、冷たい地面に膝をつき、祈るような眼差しを一点――高楼の上の台与へと注いでいた。
台与は呟いた。
「……なに……これは……?」
※
――オオオオオオオオオオオ!
大きな歓声が上がった。
群衆は口々に叫んでいた。
――姫尊じゃ!お戻りになられた!
――我らの姫尊!
――ありがたや!
まるで神を崇めるかのように、その手を高く掲げ、ゆっくりと地につける。
淡海の彦尊は、腹の底から声を轟かせた。
「この度、新たにお迎えした『伊勢の姫尊』じゃ。崇めよ、皆の者!」
そして、その場に膝を折ると、両の手を高く掲げた。
「――姫尊!お言葉を……!」
短く言い放つと、彦尊は深く、深く平伏した。
そして、冷たい土に額を擦りつけたまま、低く呟いた。
「さて、これをどうする?若き姫尊よ……。
泣き喚くも、背を向けて逃げ出すも論外。
かといって、上気せて大巫女になりきろうものなら……見限るのみ……」
※
その頃、河内では――
河内の棟梁は山裾の小道を歩いていた。
後から、棍棒を手にした五人の男たちが忍び足で続く。
一行は音も立てずに、そーっと小道の脇の窪みを覗き込んだ。
その時、穴の中から声がした。
ンゴッ、ンゴッ……ブルルル……
河内の棟梁は叫んだ――
「――イノシシやあああああああああ!」
六人の男が一斉に穴の中の獲物に襲いかかった。
「今日は猪鍋やあああああ!」
「いや、丸焼きやろ!」
「なに言うてんねん?!バラして炙るんが美味いんやぁぁ!」
「我、もも肉でええで!」
「我は胸や!」
「頭や!頭狙え、あほ!!」
ボコッ!スカッ!ゴツッ!バキッ!
音が響くたび、そのイノシシは力なくよろめいた。
※
その時、淡海の高楼では――
三人は無言のまま、階下の群衆を見つめていた。
台与は、よろりと一歩、身を引いた。
よく見ると、膝も震えている。
「おのれ……」久米は低く唸った。
「謀られた……」金玄基も小さく呟いた。
「――玄基殿。今からでも遅くない!戸を閉めましょう!」
そう言うと、久米は引き戸に手をかけた――
「――待って!」
鋭く制したのは、台与だった。
「……静かに……」
台与はもう一度天を仰ぎ、目を閉じて大きく息を吸った。
次の瞬間、唇をぎゅっと結ぶと、眼下に広がる群衆をきっと見据えた。
※
台与は透き通った、しかし、よく通る声で言った。
「……まず、皆さんにお詫びしなければなりません。
私は『大巫女』ではありません」
台与がそう言うと、ざわめきが起こった。
隣同士、顔を見合わせる者、こちらをじっと見上げる者もいた。
やがて、ざわめきは静まった。群衆が息を呑む音が聞こえたような気がした。
「天から降ってきた奇跡でも、神の声をそのまま伝える者でもない。
旅の途中の巫女です。……この羽衣は、丈を直してもらった借り物です」
※
淡海の彦尊は冷ややかに目線を落とすと、短く鼻で笑った。
「ふっ……やはり、降りたか……」
だが、次の瞬間、再び台与を見上げた。
台与の声は震えていたが、まっすぐに届いた。
「ですが……皆さんが今、私の姿に見たものは、決して偽りではありません」
※
「私の背に、皆さんが見た光……それは、あなたがたご自身の光です。
この地を耕し、汗にまみれ、それでもなお『光を失わない』、あなた方の心。
あなた方の『誇り』……それが、眩しく輝いて見えたのです」
群衆の中から、啜り泣くような声が漏れた。
台与は、なおも続けた。
「皆さんが見た『姫尊』の姿……それは、あなた方がその手で作った『この国の栄光』。
それは失われたものではなく、今、新たに生まれました。
皆さん自身の、新たな決意なのです。
私は、その決意を映し出す鏡になれたでしょうか。
神の言葉ではなく、皆さんの心の声を、届ける者であれたでしょうか」
台与はゆっくりと、群衆に向かって深く頭を下げる。
「私を崇めないでください。
ただ、私の中に映った『あなた方自身の強さ』を、どうか信じてください。
もし今、皆さんの目にヤマトの栄光が見えたのなら……私は、この旅をしてきて本当に幸せです」
※
高楼前の広場全体がしんと静まり返った。
その静寂の中で一人、淡海の彦尊は呆然と呟いた。
「なんということだ……この娘は、まさに……」
彦尊は糸が切れたように、両の手を地についてその場に崩れ落ちた。
「いや。この娘こそ本当の……」
やがて、彦尊の目元から、熱いものが一雫こぼれ落ちた。
それを合図にしたかのように、地を震わせる雄叫びが上がった。
かつてないほどの歓喜と解放の叫びであった。
――姫尊!
――我らの姫尊!
――おかえりなさい姫尊!
その地鳴りのような叫びは、いつまでも、いつまでも鳴り止むことはなかった。
※
台与は両手を天にかざしながら、にっこりと微笑んだ。
そして、小さく呟いた。
「……だから、違うって言ってるのに……」
金玄基は目を細めながら、その横顔を見つめた。
(無理もありませんよ……俺も本物の……いや、
こうであって欲しいと願う『王』の姿を見ましたよ……台与様)
歓声に包まれた淡海の邑を、突き抜けるような朝日がまばゆく照らした。
台与は七色の光を放ちながら、いつまでも立ち尽くしていた。
その姿は、女王・卑弥呼よりも、さらに女王のそれであった……ように金玄基には思えた。
お読みくださりありがとうございました。
お約束どおりというか、予定調和的、お花畑的、知ってた感満載の大逆転劇でした……すみません。
でも――
十三歳で王になったら国内の争乱が静まった、という女王・台与。
この程度のことは朝飯前にやってのけたのではないか……?というのが、私の考えです。
次回「第76話 器の見定め」
東アジアNo.1王者決定戦です!
(月曜20時ごろ更新予定です)




