第74話 七色の羽衣
初めて見る「本当の」伊勢。そこにカイの笑い声が響く。
備の彦尊と見送った後、丁寧親切に台与を誘った淡海の彦尊だったが、
金玄基には、何か企みがあるように思えた――
巨大な、国だった。
どこまでも続くかのように並ぶ人家。
その間を縫って、驚くほど大勢の人々が行き交っている。
風に乗って漂ってくるのは、銅を焼く独特の匂いと、
腹の底に響く職人たちの威勢の良い掛け声。
渡し口からもはっきりと望める巨大な高楼は、陽光を浴びて遥か遠くにそびえ立っていた。
台与は川船に揺られたまま、ぽかんと口を開けて、その光景に見入っていた。
その隣に座すルナも、金玄基もが、言葉を失った。
そこへ、渡しの頭の乾いた声が響いた。
「着きましたで。ここが『本当の』伊勢や。……あ、『元々の』ちゅう意味やで?」
その声で、台与はようやく我に返ったように振り向くと、ゆっくりと船を降りた。
ルナがそれに続き、先に降りていた久米が周囲を警戒するように立つ。
最後に金玄基が船を降りると、渡しの頭は台与を見やって言った。
「ほな、お代はいつものように、森ノ宮の長老からいただきまっさ。おおきに」
「……ありがとうございました」
渡しの頭は無言でニッと笑みを返すと、早々に船を操り、難波津の方角へと去っていった。
改めて、台与と金玄基は、眼前に広がる淡海の邑をじっと見つめた。
金玄基は思った。
(……お義父さんがこの街を見たら、なんと言うだろう?)
◇◇◇
「台与様!」
脳内のカイは、真っ赤な顔をしてそう叫ぶと、満面の笑みを浮かべた。
そして、片方の手を台与の肩に置き、もう片方の手で淡海・伊勢の邑を指さした。
「悪いこたぁ言わん!ここばい、ここがよか!
都なら、ここに決めてしまわんしゃい!」
そして大きな口を開け、空を仰いで反り返ると「がはは、がはは」と笑った。
◇◇◇
その妄想はあまりに鮮明だった。
金玄基は固く目を閉じると、振り払うように、首を強く横に振った。
その時、隣にいた台与がうつむきながら尋ねてきた。
「カイさんがこの邑を見たら、なんと仰るでしょう……?」
台与を振り返った金玄基の脳裏に、先ほど振り払ったはずの笑い声が再び鳴り響いた。
※
ふと見ると、大通りを二人の男が肩を並べ、悠然とこちらに歩いてくるのが見えた。
そのうちの一人は、金玄基にも見覚えがある、備の国の彦尊であった。
だが、隣を歩くもう一人は、初めて見る顔だ。
「……備の国の彦尊と、淡海の彦尊が参ります」
台与が小さく呟くと、ルナがその耳元で囁き返した。
「ここが、淡海の彦尊の仰っていた『こちらの伊勢』……ご自身の邑なのですね」
台与は黙したまま、小さく頷いた。
近づいてくる二人の男たちは、周囲の耳を気にする様子もなく、その会話の内容までが風に乗って聞こえてきた。
「……そうか。汝の国にも鉄が届かぬか」
「ああ。我の国は古来より銅が主じゃ。
鉄はまだそれほど扱っておらぬゆえ、民の暮らしに障りはないのだが……」
そう言って、不意にこちらへ目を向けたのは、備の彦尊だった。
「これはこれは、台与殿。先日は何かとお世話に……」
台与は黙したまま、丁寧に頭を下げた。
備の彦尊は手短に挨拶を済ませると、淡海の彦尊を振り返って言った。
「……では、何事か分かれば知らせてくれ」
「ああ、すぐに使いを出そう。道中、気をつけてな」
「うむ。では、またな」
備の彦尊はそう言い残すと、渡し口に繋がれた船の一艘に軽やかに乗り込んだ。
船が岸を離れると、淡海の彦尊は音もなく手を振り、それを見送った。
しばらくの後、淡海の彦尊は台与を振り返ると、改めて恭しく平伏してみせた。
「失礼いたしました、台与様。
備の国とは先祖代々の付き合い……無下にはできぬのです。
さあ、我が館へご案内いたしましょう」
その言葉に、台与は目を丸くし、慌てて掌を振った。
「あ、いえ。私どもは伊勢のお社に参るつもりで……。
こちらから行くのが早いと、船頭さんに伺いまして」
淡海の彦尊も目を丸くして台与を見つめた。
「え?……足休めもせずに、このまま伊勢へ?」
淡海の彦尊はふっと、春風のような柔らかい笑みをこぼした。
「ここからは山越えにございますよ。
そんな無理はなさらず、まずは我が館にて旅の埃を落とされませ……」
「……はい。では、お言葉に甘えて……」
台与はうつむきながら、消え入りそうな声で答えた。
金玄基は、その一部始終を黙って見守っていた。
淡海の彦尊は、とても優しく台与に接している。
だが、その洗練された物腰の奥に、どこか得体の知れない、油断ならぬものを感じずにはいられなかった。
※
淡海の彦尊の館へと招き入れられた一行は、格式高い客間へと通された。
「今、粗茶を淹れて参ります。ごゆるりとなさっていてください」
そう言い残して彦尊が部屋を後にすると、ルナは台与の耳元で密やかに囁いた。
「……最後の目的地に、先に来てしまいましたね」
「仕方ありません。伊勢の大巫女様には事後のご報告といたしましょう」
二人は顔を見合わせ、無言のまま頷き合った。
やがて三人の視線は、部屋の隅に恭しく飾られた一点の装束に吸い寄せられた。
それは、陽光を透かすほどに薄く織り上げられた、類まれなる美衣であった。
部位ごとに異なる色彩に染め抜かれたその布地は、数えれば七色。
手間と素材を惜しみなく注ぎ込んだ極上品である。
その形と、あまりに繊細な仕立てから、高貴な女性が纏うものだと一目で知れた。
「ははは……気になりますかな?」
いつからそこに居たのか。
盆を手にした淡海の彦尊が、穏やかな声を台与らに掛けた。
彦尊はゆっくりと膝を突き、茶を配りながら誇らしげに目を細めた。
「今の阿蘇の大巫女様が、姫尊にされる際にお召しになった御召物にございます」
「阿蘇の大巫女様が……」
「ええ。大巫女様が十五の時……。あれから何年の歳月が流れたことか」
淡海の彦尊は遠い目をして、七色の衣を愛おしげに見つめた。
「あれは、長く苦しい戦が、ようやく終わりを告げた日でもありました」
「戦……」
「はい。誰が敵で、誰が味方かも判じがたき大乱でございました。
我らも幾度、死線を越えたことか……」
「……」
金玄基はその言葉を噛み締め、固唾を呑んで続きを待った。
女王・卑弥呼が共立される直前の動乱。
かつて、魏の使節として伊都国を訪れた際、役人たちから聞いた。
今思えば、恥ずかしくなる。
あの時自分は裴世春の無礼千万な問いを、何の気もなく訳していた。
◇◇◇
裴世春は伊都国の大殿にどっかと座り、倭国側の役人に尋ねた。
「倭国では何故、王が女なのですかな?男の王は絶えたのですかな?」
金玄基がそれを通訳すると、倭国の役人は揃って顔を見合わせたものだった。
「いや、かつては男王でした。ですが、かくかくしかじか……」
「さよう。大巫女様は天の意思を体現する姫尊。倭国を代表する王の中の王にござる」
それを通訳すると、裴世春は怪訝そうな顔を金玄基に向けた。
◇◇◇
金玄基が我に返った時、台与とルナは静かに湯呑を手に取っていた。
だが、その眼差しは、語り続ける淡海の彦尊を真っ直ぐに射抜いていた。
彦尊は未だ、追憶の淵を彷徨っているようだった。
「あの日、羽衣を纏われた大巫女様のお姿は……それはもう、この世のものとは思えぬほどに美しかった。……あのお姿を、もう一度拝してみたいものだ」
彦尊が湯呑を床に置く微かな音が、沈黙の支配する部屋に重く響いた。
※
台与はスッと目を伏せ、湯呑の茶をすすった。
その刹那、金玄基は見てしまった。
穏やかに語っていたはずの淡海の彦尊が、剥き出しの刃のような眼光で、無防備な台与をじりじりと睨みつけているのを。
(……なんなのだ、今の目つきは。この男、何を考えている……?)
だが次の瞬間、彦尊の顔には、春の陽だまりのような柔らかい笑みが戻っていた。
「……そういえば、台与様もいずれはあのお方の跡を継ぎ、大巫女となられる御身……
一度、着てみられますか?」
「えっ?!」
台与は弾かれたように目を丸くした。
一方、その言葉にルナは少女のように瞳を輝かせた。
「まあ……! きっと、それはお似合いになりますわ、台与様!」
「お……お姉様……」
台与は、じとっとした目をルナに向けた。
その時、淡海の彦尊の瞳が、再びギラリと異様な光を放った。
だが、すぐに元の優しい笑みに戻ると、彦尊は笑った。
「ははは。そう遠慮なさらずとも。
この羽衣、他にどなたかが袖を通すようなものでもございませぬし……」
「――?!」台与は身を退いている。
「ほんの少し、羽織ってみるだけでも……お嫌ですか?」
彦尊はにこやかに笑いながら、畳み掛けた。
金玄基は内心、穏やかではいられなかった。
(この男、何を仕掛けようとしている……?)
嫌な予感だけが胸の内で膨れ上がる。
だが、目の前の相手は剣を抜いているわけではない。
台与を何から、どう守れば良いのか……金玄基には全く分からなかった。
※
七色の羽衣を纏わされた台与は、終始、石像のように無表情だった。
まずは自分自身の肩や袖を見回すと
「……だぶだぶです……」と零した。
「ははは……」
淡海の彦尊は薄く笑った。
台与の傍らには、彦尊が「奥」と呼ぶ端正な顔立ちの女が控えていた。
奥方は羽衣のあちらこちらを細い指先でつまみ上げ、慈しむように台与に尋ねた。
「台与様は、今おいくつでいらっしゃいますか?」
「十一です……」
「では、まだ少し大きうございますね。なれど、要所をまつれば……」
言いかけて、奥方は彦尊と視線を交わした。
彦尊が短く「うむ」と頷くと、彼女は台与の手を優しく引き、隣室へと誘った。
「では台与様、丈を合わせましょう。さあ、こちらへ」
その後に続いて、感情が消えたままの台与が、部屋を後にした。
金玄基が見ている限り、奥方の前で彦尊の目が怪しく光ることはなかった。
奥方の瞳は、水底のように澄んでいた。
ただ夫に呼ばれ、言われるがまま、慈しみを込めて台与に衣を着せていた。
(……先ほどの、あの眼光は何だったのだろう?)
金玄基は、己の思い過ごしかと内省し始めた。
そんな時、台与が部屋に戻ってきた。
相変わらず、その顔に笑みはない。
「おお……」彦尊は感嘆の声を漏らすと、台与に乞うた。
「少し上を向いて、両手を大きく広げてみてください」
台与は言われるがまま、両手を伸ばした。
それでも、表情一つ動かさない。
対象的に、彦尊は満面の笑みを浮かべていた。
「日の出とともに、あれなる高楼にお立ちになりますと、この衣は七色に輝くのです」
彦尊が指し示したのは、渡し口からも見えたあの高楼だった。
この館の目の前にあった。
台与はしばらく無言でいたが、やがて「なるほど……」と他人事のように呟いた。
すると、再び彦尊の眼光が、獲物を狙う猛禽のような鋭さを取り戻した。
「明日の朝、試されてはいかがですか?」
だが、その不気味な眼光はすぐに消えた。視線が奥方に移ったからだ。
「まあ……。私は大巫女様の就位式を拝見したことがございませんの。
一度で良いから、見てみたいですわ、あなた……」
金玄基は、奥方の目をじっと見つめた。
だが、そこには純粋な憧れだけが宿っているように見えた。
その時だった――
淡海の彦尊は笑みを浮かべたまま、不意に両手を床につけ、深々と頭を下げた。
「台与様。明日、あの高楼の上で、その衣を着て見せてはくださいませぬか。
……思い返せば、今まで我が事にばかりかまけて、年若い妻に何もしてやれませなんだ。
せめて奥が喜ぶ顔を見たいのです」
夫に合わせるように、奥方もまた両手をついて平伏した。
「私からもお願いします。もしよろしければ、ぜひ……一度だけでも」
金玄基は狼狽し、思わず腰を浮かせた。
割って入るべきか、成り行きに任せるべきか。
助けを求め、ルナへ目を向けた。
すると、彼女は胸の前で両手を合わせ、口角を上げていた。
だが、その目は全く笑っていない。
その冷徹なまでの眼差しが、余計に玄基を迷わせた。
台与は、相変わらず無表情のまま、その場に立ち尽くしていた。
平伏する夫婦を見つめながら、ただ沈黙を貫いている。
その徹底した「心の不在」は、金玄基の焦燥をわずかに鎮めていた。
お読みくださりありがとうございました。
すでにある都は見た目には美しいですが、住みづらそうですね。
これから作る都は苦しいことが多そうですが、しがらみのない気楽さもありそうです。
次回「第75話 偽の大巫女」
偽物のレッテルを貼られて、主人公が退場?!台与様……!
(木曜20時ごろ更新予定です)




