第68話 森のお爺さま
難波津に到着した台与たち一行――そこれ待っていたのは、旧知の老人・森ノ宮の長老。
そして、明かされるナカツヒコの正体。
台与は母たる人に思いを馳せる――。
翌朝――
水惟は舳先から前方を指差した。
「着きました。あれが難波津です」
だが、船はその場に停泊したまま、動かない。
ルナが水惟を覗き込むようにして言った。
「早く港に入りなさいよ」
「潮目が読めない……。あそこを見てみな、渦が巻いてるだろ。
浅瀬に乗り上げたら、この大船は一歩も動けなくなる……」
金玄基はそのやり取りを、台与と並んで見つめていた。
※
同じ頃、その老人――森ノ宮の長老も、停泊する船を眺めていた。
そして、静かに笑った。
「初めての人だな。ハツヒコ、案内してやってくれ」
「はい」とひとこと頷くと、ハツヒコは裏の桟橋へと向かった。
※
「おーい!」
金玄基はその叫びに振り返った。陸と海の狭間から、小舟が近づいてくる。
誰かが櫓を漕ぎながら、手を振っている。
目の前では、水惟が縄で編んだはしごを下ろしていた。
小舟は縄のはしごの前にすーっと着いた。
次いで、舵を漕いでいた男がしなやかな動きで登ってくる。
男は船に乗り込むと、鋭い視線で辺りを見渡した。船司を探しているようだった。
だが、誰が教えるでもなく、すぐに水惟を見据えて言った。
「ご案内します。我に付いてきてください。
港の奥は川が流れ込んでいて、逆巻く流れがあります。
ですが、迷わず一気に入れば抜かせます。
勢いをつけて、まっすぐに入ってください」
「分かりました。よろしくお願いします」
水惟は頷くと、帆柱を見上げて叫んだ。
「帆を上げろ!あの谷間に向かって全速前進!
漕ぎ手は待機!櫓はまだ入れるな!」
その号令とともに、巨大な帆がバサリと風を孕んだ。
船体は軋み声を上げながら、ハツヒコの小舟が導く海の隘路へと、矢のように突き進んでいった。
それはまるで、船ごと誰かに後ろから押されているかのようだった。
(少しでも船の向きが変われば、そのまま陸に乗り上げてしまうのではないか……?)
金玄基にはそう見えた。
こうなると、子供の心配が先に立つ。
スミレの姿を探し求め、アヤメの胸で静かに寝ている姿を見つけた。
だが、次にはアヤメが心配になった。かなり潮の早い海だ。子供を抱いたまま泳げるのだろうか?
その間、台与は黙したまま、船の進む先を見据えていた。
この悠然とした態度は、どうにも真似できそうになかった。
港に入るまでの間、金玄基は、時間の流れがとても遅いものに感じられた。
港の入口に差し掛かると、水惟が叫んだ。
「皆さん、船底の横木に捕まってください」
その直後、船は大きくがくんと舳先を下げ、またすぐに浮き上がった。
それは大きな揺れで、立っていたらおそらく飛ばされていただろうと思うほどだった。
だが、揺れが収まると、船は静かにゆっくりと旋回を始めた。
嵐のような咆哮を上げていた潮の音が、嘘のように遠のいた。
気がつけば、船は鏡のように穏やかな内海を、滑るように進んでいた。
――そこには、外海の荒々しさが嘘のように、静謐な水の鏡面が広がっていた。
金玄基は胸を撫で下ろしながら辺りを見渡すと、誰も慌てた様子はない。
「考えてみたら……俺の家族は海の民なんだった……」
一人息を切らせながら立ち上がった金玄基を、家族全員がにんまりと見つめていた。
難波津の桟橋が近づいてくる。
既に到着していた案内人の男は小舟を降りると、頭の上で両腕を大きく交差させ、そのまま力なく首を左右に振った。
その先では、一人の老人が片手を大きく振っていた。
※
台与は船を降りると、まず桟橋に降りてきていた老人の元へと向かった。
「お世話になります、森ノ宮の長老様」
「お帰りなさい、イヨ様……あ、今は台与様でしたな」
そして、老人は手を広げ、台与たちを屋敷へと誘った。
ルナとも旧知のようだ。軽く会釈を交わしてすり抜けてゆく。
水惟や久米といった軍人は深々と頭を下げていた。金玄基も、彼らに習った。
森ノ宮の長老は、台与を屋敷の広間に迎え、その上座に据えると、平伏して口上を述べた。
台与は形式的な挨拶を述べた後、懐から布を取り出した。
「ナカツヒコから、文を預かっております」
長老は両手でそれを受け取ると、さっと広げた。
その横から、ハツヒコとスエヒコも文を覗き込んだ。
長老は黙したまま文を見つめていた。
だが、脇から覗き込んだスエヒコは深々と首を横に振り、ハツヒコは天を仰いでため息を漏らした。
「あの……親不孝者めが……」
「えっ……?」台与が呟いた。
長老は文を畳みながら、台与に視線を向けた。
「この度は、お務めご苦労さまにございまする。
今宵は我が家でごゆるりとお休みくだされ。お連れ様も、別棟をご用意しておりますので、ご案内いたしまする」
そう言うと、長老はにっこりと笑い、そして立ち上がった。
※
その日の昼食は、広間に膳が並んだ。
慣れぬ席に、カイたち金玄基の家族は身を固くしていた。
だが、長老が昔話を語ると、場は徐々に和んでいった。
「我は、『大人の自覚を持ちなさい』という意味で言ったのですよ」
◇◇◇
その昔、森ノ宮の長老は、夕食を囲みながら次男に言った。
「ナカツヒコ、お前もそろそろ大人になるのだから、この家から出ていくようだぞ」
「うん!」
その次男は即座に、そして素直に答えた。
◇◇◇
長老は笑いながら続けた。
だが、その笑みにはどこか諦念が見え隠れしているように見えた。
「そうしたら、次男は次の日の朝いなくなってしまったのです。
朝一番の船に乗ったようなのです……それ以来、帰ってこないのですよ」
「――あはははは!それは素直なお坊ちゃんですな!」
カイは大笑いだ。
だが、他の者は困惑の笑みを浮かべていた。
マサカドとチドリはきょとんとしていた。
スミレは「ぶーぶー」と言いながら、アヤメを困らせていた。
台与はうつむきながら箸を口に運んでいたが、よく見ると顔が真っ赤だった。
「今度よく言っておきます……」
「ぜひとも、お願い申し上げまする……と申し上げたいところですが……」
そう言うと、長老は遠い目をした。
「言えば言うほど帰って来ないような気がします……そういう奴なのです……」
※
その晩は、月夜だった。
森ノ宮の長老は、館の縁に座り夜空を見上げていた。
台与は、その背中をしばらく眺めていた。
遠目には微動だにせず、空を仰ぐその姿から目が離せなかった。
ナカツヒコは得体の知れない印綬を手に、これから大陸に渡ろうとしている……これを伝えるべきだろうか。
台与がそう思っていると、森ノ宮の長老が振り向いた。
「台与様……」
「長老様……」
台与は静かに長老の隣へと歩むと、そのすぐ隣に腰を下ろした。
二人はしばらく、明るく輝く月を見上げた。
台与はゆっくりと手を伸ばし、長老の腕に手を絡めた。
長老が台与に目線を移す。
「台与様……」
「今まで、知りませんでした……ごめんなさい」
「……何をです?」
台与は顔を上げ、長老の目を見つめた。
「今宵は『お祖父様』とお呼びしても宜しいですか?」
「なんと?」
「私は、あなたの……」
その時、長老は台与の眼の前に手をかざした。
そして、台与の目を見つめると、自分の口に人差し指を当てた。
「……今宵だけですよ?」
「はい!」
そう言うと、台与は長老に微笑みかけた。
長老は台与の手から腕を抜くと、その手を台与の肩に回した。
そのまま、二人はじっとしていた。
しばらくすると、長老の手が一瞬、プルプルと震えた。
長老は台与の顔を覗き込むように尋ねた。
「台与様のお母様は、阿蘇の大巫女なのですよな?」
台与は長老を見上げた。
一旦、首を横に振る。だが、すぐに目線を下げた。
「はい。表向きは……」
「そうですか……」
長老の言葉は、安堵のため息のように聞こえた。
そして、もう一度、重々しく尋ねた。
「お母様は、どんな方なのですか?」
台与は魏の使者と共に香取に行った時のことを思い出した。
目に涙が溢れてきた。
「……富士のような方です」
「富士?」
「美しく、気高く、誰も寄せ付けない、凍った山のような……」
長老は、顔を見せない台与の頭だけを見つめていた。
しばらくすると、肩に置いていた手を上げ、愛おしむようにその髪を撫でた。
その後は、二人とも黙っていた。
ただ無言で、静かに、明るい夜空を眺め続けた。
※
その頃、羽の国では――
雪がしんしんと降り続いていた。
香取の大巫女は唸った。
「……寒い……!」
暗闇に包まれた仮の社では、火鉢はもうもうと炎を上げていた。
煙を抜くための窓から隙間風が舞い込み、冷気が身に沁みこむようだ。
大巫女、弥馬獲支、奴佳鞮、そしてウヅ改め『羽越の大将』の四人は卓を囲み、地図に見入っていた。
皆、鎧の上から布団を被っている。
四人の中で最初にこの格好をして軍議に現れたのは、香取の大巫女だった。
戦場ではあまり見た目に拘らないようで、それはウヅにとって新たな発見だった。
弥馬獲支がぼやくように進言した。
「当面の敵はなく、ここで雪に埋もれていても詮なきこと……引き際を考えましょう」
「そうじゃのう……」大巫女は呟くように応じた。
その時だった。
物見の兵の一人が、軍議の場に駆け込んできた。
「申し上げます!
邑の表門に黒装束の老婆が参っております。大将と話がある、と……」
その場にいた全員が、その兵に視線を集めた。
大巫女は呟いた。
「こんな夜中に……以前、羽越が会ったという巫女様であろうか?」
ウヅは大巫女と目が合うと、軽く頷いた。
(おそらくそうだろう……だが、何をしに……?)
跪き返事を待っている兵士に、大巫女は答えた。
「我が参ろう」
そして、静かに布団を板の間の上に置くと、出口へと歩んで行った。
社の外に出ると、大巫女はちらりと振り返りながら言った。
「……なんじゃ。結局、皆来るのか……」
果たして、四人の武将は揃って黒巫女と相対した。
数人の門衛がかざす松明の中、黒巫女は凛とした姿勢でじっと立っていた。
大巫女はその前に進むと、軽く頭を下げ、まずは巫女として挨拶の口上を述べた。
「この地の巫女様と拝察いたします。
ご挨拶が遅れましたご無礼、お詫び申し上げます」
「うむ……じゃが、そのような話ではない。羽の彦尊の首を返してもらいに参った」
「首を……?」
香取の大巫女は顔を上げて聞き返した。
黒巫女は静かに答えた。
「うむ。首がなくては、生まれ変わりの折、不自由であろう……と思うてな」
大巫女は黙したまま、黒巫女を見つめていた。
ウヅをはじめ、その場にいた全員が驚いた。
こんな雪の降る夜中に、老婆が一人、不気味なものを持って帰ろうというのだ。
だが、大巫女は静かに応じた。
「羽の彦尊は、私どもなりの方法で霊を慰め、土に返しました」
黒巫女は表情ひとつ変えず、漆黒の瞳で大巫女を見据えた。
「掘り出してたもれ。我らには我らのやり方があるよって」
大巫女はしばしの沈黙ののち、拒むことなく、静かに掌で塚の在処を指し示した。
数名の兵たちが、塚を掘り返す間、黒巫女はその様子をじっとを見つめていた。
掘り出したそれを抱くように受け取ると、黒巫女は一言呟いた。
「おお……この地の王、羽の国の彦尊、愚かなる者よ。
満足することを知らず、考えることは己の欲得ばかり……。
だが、汝は我の息子であった……」
その声を聞くと、香取の大巫女は脇にいた黒巫女をじっと見つめた。
だが、何も尋ねることはなかった。
黒巫女は、深々と降り積もる雪の中に溶けるようにして去って行った。
大巫女は門の外に立ち尽くし、その背が見えなくなるまで見送っていた。
「生まれたばかりの子を抱くように、首を抱えておった……。
悲しきかな、子を持つ者の切なさよ」
吐き出した白息とともに漏れたその言葉は、誰に宛てたものでもなかった。
大巫女はくるりと向きを変えると、それ以上は何も語らず、うつむきながら雪を踏みしめて歩き出した。
ウヅは、その背に言いようのない孤独を感じながら、黙したまま後に続いた。
お読みくださりありがとうございました。
当時の地形図等を眺めていたら、難波津って日本一入りにくい港だったのではないかな?と思えてきました。
この港、自然に発展したのでしょうか?それとも誰かのゴリ押し……?
次回「第69話 河内とともに」
ヤマトを語るのに(おそらく)欠かせない難波・河内の物語です。
(木曜20時ごろ更新予定です)




