第66話 鏡の外の大巫女
再び現れたあの男――砂の彦尊は、木の国の彦尊との運命的再会を果たす。
一方、伊勢の大巫女は淡海の彦尊を訪れ密談……
陰謀渦巻くヤマトの地へ――台与たちは旅立った。
その頃、河内のとある辻では――
「理こそ、我らの光である!」
そう叫びながら立ちつくす者がいた。
頭に被った頭巾も、着ている貫頭衣も土に汚れていたが、それ以上に顔を覆っている濃い髭が目を引く男だ。
右腕を上げたり、大きく振り回す。左手にはむしろのようなものを吊り下げた太い棒を、杖のようにして大地に突き立てていた。
男は叫び続けた。
「正しさを疑うことこそ、罪である!」
だが、その周囲に聴衆はいなかった。
遠巻きに眺める者はいた。やはり気になるようで、口々に囁きあった。
「……なんやあれ?」
「新手の宗教やろ……胡散くさ」
「はようあっちいかんかのう……」
河内の棟梁は仕事の手を止めて川から上がると、自分の荷物の中から生米が入った小さな袋を取り出した。
そして、ゆっくりとその男に歩み寄った。
河内の棟梁は米袋を差し出しながら、凄むように言った。
「……ご苦労はん。悪いけど、あっちでやってくれんか?頼むわ」
その男は黙っていたが、やがて両手で米袋を受け取ると軽く頭を下げた。
そして、そのまま横を向くとトボトボと歩きだし、その場を離れて行った。
河内の棟梁は川に戻ると、一緒に作業をしていた村人に声を掛ける。
「はあ、やっと行ったで。ただの物乞いや」
村人たちは口々に思いの丈を吐き出した。
「男や、女や、理がなんとか……何言うてんねや」
「ほんまや……砂の国には新しく姫尊が立った、いうんに……」
誰かがそう言ったとき、その男は急に足を止めた。
泥にまみれた背中が、目に見えて震えている。
男はゆっくりと振り返った。
その瞳には、物乞いの卑屈さはなく、狂気じみた怒りが宿っていた。
「器が……王になっただと……?」
低く、地這うような声が漏れた。
河内の棟梁は、その眼光に気圧され、思わず身を縮めた。
「あかん。あいつ、触れてはあかん奴や。知らんぷりせえ!」
その時――
純白の服を着た大人らしき男の一行が通り掛かった。
「おお。誰かと思えば、砂の彦尊ではないか。こんなところで何をしておる?」
「……そなたは……木の彦尊……」
「まあ、積もる話は後じゃ。我と共に参らぬか?」
そんな話をしていたかと思うと、一行はいつの間にか去っていなくなっていた。
※
渡しの頭は黙したまま船竿を操っていた。
その眼前では、どこかの大人と土まみれの男が対等に話をしている。
彼にとっては客であったが、その取り合わせに違和感を覚えていた。
だが、その二人は、彼の視線を意には介さず話を続けていた。
その大人は言った。
「我はこれから淡海の彦尊に会いに参るのじゃ。砂の彦尊は?」
「我は……特に宛もない」土まみれの男が応えた。
「そうか。では、この先まで共に参ろう。飯を食わせてやるぞ」
「ふんっ」砂の彦尊は鼻を鳴らしたが、その直後、腹の虫が鳴いた。
「……では馳走になろう、木の彦尊」
木の彦尊は満足げに笑った。
渡しの頭が川下に船を進める間、木の彦尊は一方的に話し続けていた。
「イセエビが纏向のお宮を改築しているそうじゃ……まったくけしからぬ」
「あそこは我らが聖地。然るべき血筋を引く、然るべきお方が座す宮処じゃ」
「……でな、我はクニトラ王こそがふさわしいと思うのじゃ……そなたはどう思う?」
「我は神代の大王をヤマトの地に招いた八咫烏の子孫ゆえ……」
「うんうん……のう、そなたもそう思うであろう?」
その間、砂の彦尊と呼ばれたその男は、一言も口を開いていないように見えた。
だが、渡しの頭はそれには触れなかった。
「間もなく河内の海に出ます」
すると、木の彦尊は振り返って言った。
「おう、そのまま淀川の入口まで行ってくれ」
「……承りました」
渡しの頭は目を細め、遠くを見やりながら思った。
(これで米二升や……「淀川も登れ」言い出せば、もっと取ったる……)
※
ちょうどその頃――
伊勢の大巫女は淡海の彦尊の館を訪れていた。
形式的な挨拶を交わしたのちは、互いに肩を寄せて、ひそひそと話をした。
彦尊は腕組みをして呟いた。
「左様でございましたか。そんなことが……姫尊もご苦労が耐えませんな」
「ええ、まったく……」
「王の居場所は重要です。近くにいてこそ民は従います……ですが、それは淡海も同じですよ?」
大巫女は眉を下げた。
「では、伊勢の大巫女をもう一人立てましょうか?」
「大巫女様だらけになってしまいますな……我も我もとなればキリがない」
ここから大巫女は、さらに声を潜めた。
「大巫女の上に立つ大巫女が必要だと思うの」
「……ほう?」
「巫女の中に良い子がいるの。今は阿蘇の斎女ですが、次の大巫女になる子です。
しかも、香取ともつながりがある……。この子に伊勢を継がせたら……?」
しばらくの間、淡海の彦尊は黙したまま横目で大巫女を見つめていた。
「阿蘇の大巫女でもあり、香取の大巫女でもある、伊勢の大巫女様が誕生する……と」
大巫女は頷きながら口角を上げた。
淡海の彦尊が笑みを浮かべて「ふっ」と息を漏らした。
「阿蘇がそれを認めますかな……?」
「阿蘇の大巫女様は、一度決めたことは変えない方なのよ」
「他の者が異議を唱えれば……大義がないか……」
そう言うと、彦尊は顔を曇らせた。
「しかし……『大王』の二の舞になりませぬか?」
伊勢の大巫女はがっくりと項垂れた。
「……ダメかしら?」
淡海の彦尊は眼光を鋭くして囁いた。
「その巫女にも、相応の覚悟を持ってもらわなければなりますまい」
大巫女は視線を落としたまま「はい」と頷いた。
※
それから数日後――
伊都国の巨大な門が、重々しい地響きを立てて開かれた。
そこから先は、もう「女王の盾」の内側ではない。いつ、どこで、誰が牙を剥くか分からない――ヤマトという名の巨大な渦中への入り口だ。
金玄基は馬の鞍を締め直しながら、ふと鏡の一件を思い返していた。
目の前では、ルナがまだぶつぶつと不満を零している。
「絶対に神籍から除くべきです、あんな神様!人の真面目な卜を『ありえへん』だなんて……。
台与様、いいですね? 大巫女になられた暁には、バサッといきますよ、バサッと!」
台与は困ったような笑みを浮かべ、「はい、はい」と生返事をしながら、慣れない手つきで旅の荷物を整えている。
(……勘弁してほしいな……)
玄基は一人、天を仰いで、心の中で密かに手を合わせた。
(あの神様……名前は何だったか、有江辺命。
……頼むからルナ様に抹消される前に、ヤマトの滅亡だけは確実に『ありえへん』ことにしてください……)
玄基はその目でクニトラを見たことがある。だから、あの冷徹な微笑は、あまりにも現実的に思えた。それを「失敗」と笑い飛ばせる台与たちの感覚は、心強い一方で、薄ら寒くもあった。
「玄基さん、どうなさいました? そんなに熱心に空を拝んで」
水惟が涼しげな顔で隣に並んだ。その腰には、研ぎ澄まされた剣が静かに収まっている。
「……いえ。あの助っ人……いなくなっちゃうんでしょうか?」
「助っ人? ああ、あの神ですね」
水惟はクスクスと笑い、門の外へと続く埃っぽい街道を見据えた。
「心配しなくても、大丈夫ですよ。神籍を抹消できるのは『伊勢の』大巫女だけですから」
「……伊勢の……?」
「ええ、台与様は阿蘇の大巫女様の後継者……『伊勢の』大巫女様にはなりません」
玄基が聞き返そうとした時、先頭を行く久米が豪快に声を張り上げた。
「さあ、出発だ! 口より先に剣が語る世界へ!」
その声を合図に、一行はゆっくりと動き出した。
背後でゆっくりと閉まっていく伊都国の門。玄基は一度だけ振り返り、そして、未知なる「現実」が待つ東の空へと視線を戻した。
お読みくださりありがとうございました。
この話、いくらでもぐちゃぐちゃに出来ますが、今回はここまでにします。
少し整理が付いたら、またごちゃごちゃにします。
次回「第67話 それぞれの船出」
再び世界が動き始めます。
(木曜20時ごろ更新予定です)




