第117話 ローマ人の休日
大和での騒動から離れ、木の国へとやってきた台与たち。
美しい海を眺めながら、明かされるルキウスの過去、そして女たちの賑やかな笑い声――。
束の間の休息は、傷ついた台与たちの心を温かく癒やしてゆき……。
わずかに小雨が降る日のことだった――
台与たちが木の国にやってきた。
ルキウスもきていた。
彼は台与の後ろから憮然とした表情で、黙したままこちらを見据えていた。
それを見て、紀玄人は小さく溜め息を吐いた。
(……やれやれ……だけど、接待し甲斐はありそうだな……)
だが、それより気になることがあった。
三人とも、馬に乗ってやってきたのだ。
出迎えた時は、思わず目を丸めた。
「リュシアさんも、馬に乗れるのですか?」
リュシアは手綱をたぐりながら、平然と言った。
「ええ。羅馬では馬くらい、誰でも乗るわ」
「操り方も同じですか?」
「うーん……少し勝手が違ったけれど……だいぶコツは掴めました」
台与が、ふんす、と鼻を鳴らして言った。
「ならばルナお姉様も、やってやれないことはない筈ですねっ」
紀玄人は黙したまま、深く頷いた。
その言葉には、思い当たる節があった。
◇◇◇
馬で移動する台与に付き従う時は――
ルナは、いつも台与と同じ馬の背にまたがる。
そして、脇の下に手を回し、ピッタリと体を押し当てる。
馬が進み始めると、決まって声を震わせた。
「はわわ……あわわわ……あんまり揺らさないでください……ひぃ〜!」
そういう時はだいたい、傍目にも分かるほど全身が震えていた。
台与には、くすぐったくて堪らないらしい。
ある時――
「ちょ、ちょ……あまり変なところを……」
と台与が言い掛けると、ルナは高い声で小さく呻いた。
「……変なところ……どこにあるの……?」
台与は一瞬、身を固くした。
やがて、ゆっくりと振り返り、眼光鋭くルナを見据えた。
片時も離さず持ち歩いている天叢雲剣の柄に、じわりと手を伸ばす。
そして、低く唸った。
「……お姉様……今なんとおっしゃいましたか?」
「はわわわッ!」
ルナは素早く馬から飛び降り、走った。
それを、台与は馬で追いかける。
「――こらあぁぁぁぁぁ! お姉さま!」
だが、追いつかなかった。
そればかりか、ルナの後ろ姿は遠ざかる一方だった。
台与は叫んだ。
「そんなに速く走れるなら――最初から乗るなぁぁぁあああああ!」
◇◇◇
そのような場面を、紀玄人はしばしば目にしていた。
だが、次の瞬間、苦く笑った。
「……ルナ殿は、逃げ足が速いだけかも知れませんよ?」
※
だが、案内した先では――
ルキウスは、満面の笑みを浮かべて叫んだ――
「――おおっ、テルマエ!」
リュシアは目を丸くし、絶句気味に呟いた。
「……野外テルマエ……」
台与は無言で、しきりに頷いている。
紀玄人は、鼻をこすりながら言った。
「えへへっ……これなるは木の国自慢、高湯にござりまするっ。
近くに湯が湧いていたので、付近の民に手伝ってもらい……」
だが、その言葉はルキウスに遮られた。
「行こう! 倭国のテルマエへ!――賽は投げられた!」
すでに興奮気味だ。
言うが早いか、高湯目がけて駆け出した。
台与とリュシアは顔を見合わせて、くすくすと笑った。
アヤメは、スミレの手を引きながら、呆然とルキウスの後ろ姿を見つめていた。
「海人でもないのに高湯が好きな方、初めて見たわ……」
紀玄人は目を細めた。
(……ご機嫌を取るまでもなかったか……)
だが、その一方で困惑した。
ここには、湯舟が一つしかない。
木の国・家宰の立場を乱用し、個人用に整えた高湯であった。
恐る恐るアヤメに尋ねた。
「ルキウスさんが行っちゃったから……先に男が入っていいかい?」
アヤメは固く口を結んだまま無言で頷くと、薄く笑った。
※
風呂場を目にすると、ルキウスは両の手を拡げた。
そして、耳が張り裂けるかと思うばかりの大声で叫んだ。
「来た!見た!」
そして――
――ドボーンッ!
飛び込んだ。
床石に尻を打ち付ける。
「――痛ッ! 浅いぞ!」
「す……すみません」
やがて――
――バシャッ!バシャン!バシャーン!
湯舟を泳ぎ出した。
紀玄人は流石にムッとした。
(……落ち着いて入れないのか、この野郎……)
だが、しばらくすると静かになり、両肘を湯船の縁に掛けて、海を眺めた。
鼻歌まで口ずさんでいる。
そして何より、紀玄人は、笑うルキウスを初めて見た。
(大和では、いつも偏屈な顔で怒鳴ってばかりだったからなぁ。誘って良かった……)
ルキウスは目尻を下げたまま顔をこちらに向けると、浜辺を指差した。
「あの砂かな? この間、コンクリートを作るのに使ったのは?」
紀玄人は口角を上げつつ、眉を下げて頷いた。
「ええ、そうです。あの時は……残念でしたね……」
◇◇◇
それはもう、だいぶ前。大和の現場でのこと――
掖邪狗は眉を寄せ、低く唸った。
「なに……石が足りない?……今ある分で、何とかやってくれぬか……」
「何ともならん! もう一つもないんだッ!」
そう言った新羅の技師の切実そうな表情に、紀玄人も困り果てていた。
偶然、その場に居合わせただけだったのだが。
すると――
ルキウスは両手を広げて二人に歩み寄り、声を張った。
「石がないなら、作ればいいじゃないか?!」
掖邪狗は目を丸めた。
「石を……作る? 汝は神か?」
「ああ、砂と貝殻……灰は私が用意しよう。あと薪を用意してくれ。
それさえあれば作ってみせる」
ルキウスはそう言うと、自分の胸を叩いた。
その数日後――
現場には、ルキウスが二上山からかき集めてきた土、
紀玄人がここの浜から持ち込んだ砂と、
伊勢から大量に運ばれて来た貝殻が積まれていた。
そこには、ルナの姿もあった。
「石を作る神の仕業と聞いて……」
だが、ルキウスは貝殻の山を眺めて唸った。
「……使えない貝がある。仕訳が必要だな……」
「――では、私が!」
そう名乗り出たルナだったが……。
「あら〜、きれいな貝……これは避けておきましょう」
「まあ……なんて美しい……」
「……砕いてしまうのは勿体ないですわ……」
こんな調子だった。
ルキウスは叫んだ。
「早く仕分けてくれッ! 火が消えないうちに!」
その日は結局、ゆるい泥しか出来ず、掖邪狗は黙したままルキウスを睨み据えた。
当のルキウスは、がっくりと肩を落としていた。
◇◇◇
「ああ……あの時は、もうローマに帰ろうかと思ったよ……」
ルキウスは目を閉じたまま呟いた。
そのまま会話は途切れた。
紀玄人は黙したまま、眉を下げて笑んだ。
(……『なぜ帰らないのですか?』って訊くのは失礼だよな……。
『帰れるのですか?』……これもアレだな……。
『いやいや、帰らないでください』……そんなことを言う筋合いじゃないよな……)
※
その時――
台与たちは、男たちが上がるのを待っていた。
小屋の中、衝立の影で輪になって、白湯をすする。
台与とアヤメは、リュシアの話に耳を傾けていた。
「伯父は異端裁判に掛けられ、ローマを追放になったのです……だから、アンティオキアより西には入れないの……」
「まあ……そんなことが……」アヤメが小さく呟く。
「異端って……何をなさったのですか?」台与が尋ねると、
「いいえ。何も……」リュシアは小さく首を振った。
台与が黙って見つめていると、リュシアは少し口角を上げ、言葉を継いだ。
「でも伯父は、ローマを憎んではいません。
ただ、ちょっと、他の人とは考えることが違うだけなのです……」
アヤメは大きな腹を抱えながら、目を細めた。
「そんな伯父様を、お助けになっていらっしゃるのですね……」
「いいえ、助けるなんて……あ、私ね、知らない土地を旅するのが好きなんです」
そう言うとリュシアは、いたずらっぽく笑った。
アヤメは一瞬、驚いてみせてから、すぐに口元を押さえて笑んだ。
その中でスミレは、アヤメが作ってきた食べ物を黙々と口に運ぶ。
台与の顔も、自然とほころんだ。
と、その時――
紀玄人とルキウスがようやく戻ってきた。
「お待たせしました。少し減ったので湯を足しましたが、もし熱かったら……」
そう言った紀玄人を、アヤメは眼光を鋭くして睨んだ。
「おい……」
「はい……」
「……覗くなよ?」
「心得ております……」
紀玄人は深々と頭を下げた後、ルキウスに愛想笑いを向けながら、すごすごと小屋を後にした。
それを皆で見届ける。
すると、リュシアは水衣の肩を抜いた。
「ようーし、入りますかっ」
「ええっ?! リュシアさん、脱いで入るの?」
台与が慌てて尋ねると、リュシアは目を丸くした。
「ええっ?! これ着たまま入るの?!」
台与は真顔で頷いてみせた。
やがて、小屋中に女たちの笑い声が響いた。
※
美しかった木の国での数日間は終わった――
大和に戻ったルキウスは今朝も、自宅の前の川で水を汲む。
川面に顔を寄せた時、目の前に大きな鹿が現れた。
鹿は首を下げると、川の水を飲み始めた。
ルキウスは笑みを浮かべた。
そして、その鹿を以前に名付けた名で呼んだ。
「ブルータス、おはよう」
しばらくの間、鹿の様子を眺めた。
やがて、鹿はルキウスに尻を向けて――
――ポロッ……ポロポロ……ポロロロ……
「――おおおおおッ! ブルータス、お前もかっ?!」
ルキウスは、顔を真っ青にして叫んだ。
後日の話になるが――
伊勢の大巫女らと共に越の国から大和に戻ると、
伊声耆は辺りを見回しながら叫んだ。
「あの者はどこだ?!」
掖邪狗も、その日は朝から走り回っていた。
そして台与の脇を走り過ぎる――
と思いきや、急に足を止め、食いつくように尋ねた。
「姫尊! あの……羅馬からの渡来人を見かけませなんだか?!」
台与は苦笑いをして、首を傾げた。
「……高湯を探す旅に出たそうです……。リュシアさんも一緒に……」
「高湯……どこの?」
「さ、さあ……?」
掖邪狗は、ひん剥かんばかりに大きく目を丸め、
「はあぁぁぁぁぁぁぁ〜……」
深く、長い溜め息を吐いた。
お読みくださりありがとうございました。
今回の話ですが、作者の私が「調子に乗って書いた」と思われますか?
逆なんですよね……。かなり心血を注ぎました。
台与様ほどではありませんが、本当にハゲるかと思いました。
調子に乗っていたのは、事実です。
一度は130話まで書き進めたのですが、この話が抜けていたがために破綻しました……。
やはりこの時期にしか差し込むタイミングが無い、ということに気づきまして
100話に戻って再構築(まだ途中)です。
本作にとっては、重要エピソードなのです。
みなまでは申しませんが、のちに訪れるピンチにもある程度ご納得いただくための、重要な伏線です。
これが無いと、『たこが入っていないたこ焼き』とか、『クリーム抜きのシュークリーム』みたいになってしまいます。
決して、ふざけて書いた話ではないことだけは、申し上げておきたいと思います。
次回「第118話 呉軍襲来〜その前に」
お待たせしました! 呉が倭国に送った使者の顛末。
来ぬ国へと乗り込んできた呉の使者・諸葛径と衛涼の目的は――?!
(月曜20時ごろ更新予定です)




