第116話 渟名川崩れ
伊勢の大巫女らと北の港への視察へ向かおうとした矢先、台与のもとへと届いた凶報。
渦中の人・渡来人・ルキウスから始まった意地のぶつかり合いは、前代未聞の大乱闘へ。
それは、やがて大和の長老たちをも巻き込む政治問題へと発展し――。
掖邪狗は、柄杓の水を一気にあおった。
そして、空になった柄杓を従者に差し出しながら、大きく息を吐いた。
「はあ〜生き返った……では姫尊、参りましょう……」
台与は、その様子を馬上からじっと見つめていた。
掖邪狗が渡し口に向かって歩き出すと、同じ速さで馬を進めた。
「……で、ルキウスが何を?」
「ことの発端は……」
再度尋ねると、掖邪狗は歩きながら話し始めた。
◇◇◇
その日の朝――
ルキウスは、自宅のすぐ前を流れる川の縁まで来ると、手に下げた桶を水で満たした。
そして、いつものように、しばらく黙したまま川面を眺める。
傍らに桶を置くと、その場に膝を突いた。
その水を両手ですくい上げ、ピシャリと顔に当てる。
「……この倭国の水は、実に素晴らしい。至高の潤いだ……」
そう呟いてから、もう一度、両の手を川面に差し込んだ。
そして顔を寄せ、すくい上げた水をピシャリ……ここまでは、いつも通りだった。
だが、その日は――
――プカ、プカ〜
上流から流れてきていたのだろうか。
水面を漂うものがあった。
それは、やがて――
――ピトッ……
ルキウスの左の頬に、何か柔らかい物が当たった。
ルキウスは体を起こし、それを水ごとすくい上げた。
その茶色く、柔らかい塊は、鼻を突く独特の臭いを放っている。
ルキウスは顔をひきつらせ――
「――神々よ《ユーピテル》! なんということだっ!!」
大声を張り上げた。
◇◇◇
台与は、たまらず声を上げた。
「ちょ……ちょっと待ってください……」
胸に手を当てて、大きく息を吸う。
気を取り直し、続きを促した。
「……それで?」
「それからは……」
◇◇◇
喧嘩が始まった――
ルキウスは、兵士の襟首を掴むと、拳を引いた。
「上水に、不浄のものを流すなど――万死に値するッ!」
――バキッ!
その拳は、兵士の頬を撃ち抜く。
その兵士は、両手を広げて叫んだ。
「俺じゃねぇよ! もっと川上の……」
「黙れ! この無恥なる未開人がッ!」
ルキウスの両の拳が、その兵を締め上げた時、
兵舎からワラワラと工兵たちが集まってきた。
「なんだなんだ……?」
「喧嘩だ!」
「やめさせろっ!」
――パチーンッ!
誰かの拳がルキウスの頬を打つ。
「おい! 手を放せ、毛唐人!」
すると、その兵の背後からも――
――ゴツッ!
誰かの拳が飛んだ。
「こら、汝! 姫尊のお言葉を聞いておらなんだか?!」
「毛唐人って言うな!」
「――そうだ! 毛唐人の気持ちになったことがあるのかッ?!」
兵の一人が敢然と走り来り、足を向けて宙を舞った。
大乱闘は、そこから始まった。
◇◇◇
台与は掖邪狗を横目で、じとーっと睨んだ。
掖邪狗は、前を見据えたまま言った。
「そこに、我と長老たちが駆けつけまして、その場はなんとか収めましたが……」
「そんなの……(掖邪狗の方でなんとかしてよ……)」
だが、途中まで言いかけて、口をつぐんだ。
すると、掖邪狗はこちらに目を向けた。
「――いえ、本題はここからなのです」
台与は黙したまま、続きを待った。
◇◇◇
「――いや、一理ある!」
拳を振り上げながら声を張ったのは、タケノオだった。
「ルキウスの申す通り、上水と下水は分けたほうが良い!」
「……どうするのじゃ?」
掖邪狗が尋ねると、タケノオは少し声を落とした。
「汚水用の溜め池を作るのです。
汚物は沈殿して、きれいな水が上澄みに残る。それを流すようにします。
そういう溜池をいくつも重ねて、最後は湖に流します……」
「筑紫ではそうしておるのか?」
その問いに、タケノオは黙したまま大きく頷いた。
掖邪狗は横を向くと、両の拳を握りながら肩を怒らせた。
「……溜め池、溜め池……また、溜め池……」
次の瞬間、タケノオに顔を向け――
「――溜め池バカ一代!」
大声を張り上げた。
「ぬぬっ……なにをぉぉぉ?」
そこからは、タケノオと掖邪狗の取っ組み合いとなった。
「なら、どげんするち言うとか?! ◯ソの混ざった水ば飲んだら病になるくさ!」
「溜め池しか能がないのかっ?! 要らぬものばかり作りおって!」
「要るものたいっ!」
「また工期が伸びようがっ!」
◇◇◇
「……それで、長老たちが『姫尊も交えて善後策を話し合おう』と申しておるのです」
掖邪狗は淡々と話を締めくくった。
台与は青ざめ、苦く笑んだ。
「それは……(掖邪狗のせいなんじゃ……?)」
そうこうする間に、淡海の渡し口に着いた。
一人の船頭が船の上に立ったまま、こちらを見つめている。
掖邪狗は、その船の前で歩を止めると、こちらに正対して言った。
「我は船で戻ります。姫尊は……馬で行かれますか?」
「ええ」
「では、お気をつけて。皆、渟名川の城に直接お越しください」
「分かりました」
それからは、掖邪狗とは別れて進んだ。
掖邪狗の乗る船ははじめはゆっくりで、台与もその速さに馬の歩を合わせた。
だが、船は瀬田の渡しを過ぎると急に速さを増し、あっという間に見えなくなった。
(……どういうことよ、もうっ!)
台与はやりきれない思いを胸に抱きながら、馬を駆った。
※
大和・渟名川――
『城』と呼ぶ邑は、そこにあった。
堀が巡らせてある。かつては屯所だったようだ。
ここに暮らす戸口も、まだ僅かにある。
その中心に建つ、主のいなくなった大殿が、今は大和国主の仮の館であった。
門をくぐり、馬を降りると、近くを流れる小さな川が目に止まった。
台与は、以前に聞いた昔話を思い出した。
◇◇◇
その時――
いつも強張っている長老の顔は、どこか柔らかみを帯びていた。
「あれは、阿蘇の大巫女がまだお若かった頃のことです……。
『この川に名を付けようと』……それで『渟名川』と……」
台与が黙って聞いていた。
唐古の長老は静かに笑った。
「この辺りは大雨が降ると、川の流れが変わるのです。
ですから、名を付けましても、実はあまり甲斐がないのです……」
◇◇◇
(……でも、まだある……)
台与は嬉しくなった。
阿蘇の大巫女を身近に感じられるような気がした。
大殿に近づくと、中から大きな声が響いた。
「この度の、我が義兄の不始末――申し訳ございませんでした!」
入る前に中を覗く。
そこでは、紀玄人が深々と平伏していた。
(……紀玄人が知ってる……そうか、カゲマルか……)
台与は心の中で呟きながら、なおも大殿の外から見守った。
すると、中から静かな声がした。
「おおっ、姫尊がお越しになられた」
(バレてた……)
台与は苦笑いを浮かべながら、足を踏み入れた。
そして、長老の一人が進めた上座へと向かう。
「お待たせしました……(う〜ん……渟名の城に入りし姫尊……)」
上座に腰を下ろすと、その場にはぎこちない沈黙が広がった。
台与は背を正し、左右を見回してから、ゆっくりと告げた。
「この度は、我らの技師たちが騒動を起こし、ご迷惑をおかけいたしましたこと、
誠に申し訳ございませんでした……」
「んんっ……おっほん!」
纏向の長老が大きな咳払いをした。
「以後、お気をお配りくだされ……滅多に大和においでにならない大和の姫尊……」
「……ぐっ!」
その言葉は、台与の胸に突き刺さった。
柳本の長老と蘇我の長老は低く唸った。
「普段から、兵らを諭しておられるのは結構なのですが……」
「……それが、いさかいの原因になるようでは……」
橿原の長老も鼻で笑った。
「左様。此度のこと、我が社の神々も『全くもって笑止』との仰せであった……」
(……そうかも……)
唐古の長老も、珍しくこちらを睨み据えた。
「……喧嘩なら、唐古の者にはいささか心得がございまするぞ……?」
「はい……肝に銘じます……」
葛城の長老は歪んだ顔を伏せたまま呟いた。
「……所詮、姫子じゃのう……」
佐紀の長老はボソリと言った。
「あ奴ら、怪我して国元に帰りたかったのと違うか……?」
和爾の長老が苦みばしった顔で、
「渡来人だか、技師だか知らぬが、あまり鼻高々と振る舞われてものう……」
と言うと、布留の長老は笑みを浮かべて声を張った。
「あの者、実際、鼻が高いがのぅ!」
――ハッハッハッハッハ!
台与の額には、脂汗が滲んだ。
一周巡ると、纏向の長老が口を開いた。
「……とはいえ、あの渡来人の申すことも、タケノオ殿が申すことも一理あると思う。
これから土工も増やすそうじゃし、ならば、我らの川が今より汚れるということ……。
それは困る。なんとかしていただかねばなりませぬ……」
その小言は、かなり長い時間、続いた。
さらに、同じくらいの長さで、長老の間を一周した。
その最後には掖邪狗も、台与と同じく頭を垂れた。
※
「……では、我らはこれで……」
そう言って纏向の長老が立ち上がると、長老たちは皆揃って去っていった。
紀玄人は、ようやく胸を撫で下ろした。
(……良かった……義兄さんにお咎めもなく、ルキウス殿も無事釈放……)
だが、その場にはなお、重い空気が淀んでいた。
台与は、両の手で頭を抱えている。
「うう……ハゲそう……」
そう呻きながら、髪の間を指で探り、
「……ない……。良かった……」
と呟いた。
掖邪狗も背を丸め、片手でみぞおちの辺りを抑えている。
「うう、また工期が……」
紀玄人は黙したまま、ただただ苦く笑んだ。
掖邪狗が現場に戻っていった後――
台与と二人、大殿の縁に並び腰を下ろした。
台与はしばらく、黙したままうつむいていたが、やがて小さく呟いた。
「……大巫女様は、もう越に着いたかしら?」
紀玄人は笑みを浮かべるのを止め、顔を締まらせた。
「そう言えば、北の港を視察しに行かれるのでしたね……大事なお仕事でしたのに……」
義兄のために申し訳ない――
そう続けようとすると、台与は首を振り、鋭く言った。
「いいえ」
だが、両の手は腹を抑えたままで、小さく、唸るように呟いた。
「これも、大事なお仕事です……同じくらい、大事な……」
(台与様は、自分自身に言い聞かせてらっしゃる……)
紀玄人はそう思い、黙ったまま頷いた。
これでも一女の親である。
スミレは、このような立場にはならないだろう。
だが、台与のその健気な姿には、身を切られるような思いがした。
紀玄人は、やや高く、なるべく明るく声を張った。
「木の国の、我が館の近くに『良きもの』がございまして!」
そう言うと、台与は顔をこちらに向けた。
だから、精一杯の笑みを作って見せた。
「台与様も一度お越しくだされ。気が晴れるやも知れませぬ。
ルキウス殿とリュシア殿も誘ってご一緒に……いかがですか?」
その時、まだ涙で潤んでいた台与の目が、わずかに輝きを取り戻したように見えた。
お読みくださりありがとうございました。
まず、『大和・渟名川』について、ご説明申し上げます。
かつて大和国(たぶん三輪山付近)にあった……本作独自!の『架空の』地名です。
『ぬながわ』と読む地名には、ヒスイの産地『奴奈川』(現在の新潟県糸魚川市・姫川に比定される)があります。
ただ、本作では『渟名川』と『奴奈川』は別の場所です。
崇神天皇の皇女・渟名城入姫命が、磯城瑞籬宮を離れ、倭大国魂神を祀ったという有名な逸話があります。
ですが、
(1)大和の国神様を、いきなり糸魚川に飛ばす筈がありません。
また、
(2)渟名城入姫命は、後に『能登国』に派遣されますが、糸魚川付近は能登国ではありません。
◯武渟川別/建沼河別
という皇族の方もいらっしゃいますし、『奴奈川』とは別に
『渟名川(河)』という地名が、大和の何処かにあったのではないか?
とは、本気で思っております。
それにしましても。
今回は、古事記の記述にも沿って(ない?)きれいに決まりました。
話の内容は非常に汚いですが……。
本当のところ、初期ヤマト王権では、下水処理をどうしてたのでしょう?
やっぱり自然浄化でしょうか? ということは、この話もまんざら嘘でもない……?
次回「第117話 ローマ人の休日」
長老たちの小言に髪が抜け落ちるほど消耗した台与のため、紀玄人が用意した極上の接待。それは――?!
しかし、旅の終わりには、あの「名台詞」とともに大和を揺るがす(?)大事件が待ち受けていた――
(木曜20時ごろ更新予定です)




