第111話 迷走の代償
興勢山で足止めを食らう魏軍。そこに颯爽と現れたのは、あのナカツヒコだった。
一方、張政が邪馬台国で見たものは「呉の旗」――何故だ?!
それぞれの思惑が交錯する中、張政が出会った「奇妙な相棒」とは――?
正始五年四月・駱谷――
両脇から山が迫る細く長い谷間、そのわずかに開けた一角に、魏軍の幕舎はあった。
そこでは、大将軍・曹爽の号声が轟いていた。
「まだ、興勢山を突破できぬのかッ! 先陣は何をしておる?!」
戦況を伝えに来た伝令は、その前に膝を折ったまま、声も出せず、顔も上げられずにいる。
司馬昭は、その様子を横目に見ながら、小さく呻いた。
「……道が狭いのだ……」
この地に陣を張って、もう半月ほど経つ。
だが、近隣に人里の一つもないこの地が、戦略的要地だからではない。
前が詰まって動けなくなっただけなのだ。
本来であれば、陣を張る予定すらなかった。
(……補給線を攻撃される前に、撤退を進言すべきだ……)
司馬昭はそう思い、すぐ隣に立つ夏侯玄をちらりと見やった。
夏侯玄は既に、こちらに横目を向けていた。
目が合うと、夏侯玄はにやりと笑い、耳元に顔を寄せた。
「……何を申したいかは分かった。じゃがの、他の誰かが言い出すまで待とう……」
釈然としない答えだった。
だが司馬昭は、黙したまま頷いた。
※
その補給線には――
一人の男が居た。
伏せて足元を覗き込むと、垂直にそそり立つ崖。
そこに、わずかな幅の道がある。
だが、その向こうは切り立った断崖絶壁であった。
その隘路に、羌族の酋長が率いる荷駄隊が近づいてきていた。
「ヒ……ヒヒーン!」
荷駄を引く馬が不意に立ち上がり、高くいななく。
すると、大きな音が数度――
――ガラガラ……ガッシャン!……ガシャン……
その後は、音も無かった。
俵を乗せた荷車が、牽引していた馬と共に、谷底へと消えていった。
「……またか……」
酋長は低く唸ると、振り返り、叫んだ。
「――止まれぇぇえ!」
部隊が、一斉に足を止めた。
馬は「ブルル……ッ」と鼻を鳴らしながら、首を激しく振る。
その時、汗が水しぶきとなって辺りに散った。
「兄者、どうする?」
「こちらも、もう限界じゃ……」
そう言いながら酋長のもとに駆け寄ってゆくのは、その弟たちだ。
「……少し休もう……」
酋長はそう言うと、崖にもたれ掛かり、ゆっくりと腰を下ろした。
男は、その様子を眺めていた。
(ふふふ……好機到来――)
満を持して立ち上がる。
そして、酋長らに向けて叫んだ――
「――逆賊・魏に与する者共よ、そこまでだ!」
剣を高く掲げる。
背後に伏せていた兵士たちも一斉に立ち上がった。
酋長とその弟たちは、素早く剣を抜きながら立ち上がり、こちらを見上げた。
次の瞬間、あんぐりと口を開けたまま、丸くした目をパチクリさせた。
「……なんだ、脅かすなよ……那可登古親分じゃないか……」
酋長は、腰に差したままの鞘に剣を収めると、吐き捨てるように言った。
那可登古ことナカツヒコは高く笑うと、酋長のもとへと駆け下りた。
「なんだじゃねぇんだよ。その荷は寄越せ……」
「はっはっは……親分が買い取ってくれるのかい?」
酋長が低く笑うと、ナカツヒコは声を潜めて言った。
「ああ……蜀の姜維将軍が、『米一俵に銀一両出す』と仰ってる……」
「――銀一両?!」
「……馬も『普段の値の倍で買い取る』ってよ……」
「――倍?!」
弟たちまでもが目を丸くし、声を揃えた。
ナカツヒコは続けた。
「……向こうに脇道がある。そこを行くと盆地があって、蜀軍がいる。
そこで引き取ってもらえる……あとは魏の本陣に、被害を訴えに行くだけだ。
……姜維将軍とも付き合いがあるんだろ? いい話だと思うんだがね」
そう言うと、酋長は眉を下げた。
「……相変わらず悪どいな、親分……ちょっとは真面目な仕事もしろよ……」
「バカ言うな。これから魏では、米も馬も値が跳ね上がる。
それになあ、こんな杜撰な作戦……商売のタネにしかならんよ」
「だが、もう馬が仔を産む時期を過ぎてしまった。今、手放すわけにはいかないな……」
「馬なら今の値で、いくらでも譲ってやれる」
「……なんで、そんな事ができるんだ?」
「牧場を営んでる知り合いがいるんだ。
耽羅産だが……元を辿れば、羌の馬と変わらない」
「……その仲介もしてるってわけか……」
そう言うと、酋長は口角を上げた。
「面白い。一枚噛ませろよ……」
ナカツヒコもニヤリと笑い、大きく頷いた。
だが、心の中では、こう呟いた。
(なにしろ、戦が続いてくれないと儲からないからさ……)
※
同じ頃――
「……投馬国は、どこなのか分からなかったが……」
魏の塞曹掾史・張政は前方を指差しながら唸った。
「今日でちょうど三十日……邪馬台国は、おそらくあれじゃろう」
遠く眼前には、ひときわ大きな島が浮かぶ。
懐から木簡を取り出し、それに目を通した。
「……七万余戸……それほどの国なら、あれくらいの島でなければなるまい……」
ただ、気になることもある。
立てた指をそのまま、横に滑らせた。
「船長……あれに見える地は……呉よな?」
「おそらく……ここからは見えませんが、あの辺りが章安かと……」
船長はさらに北の方を指差しながら、小さく言った。
張政は腕組みをして、唸った。
「倭国は、こんなにも呉の近くにあったのか……」
そして、船長に顔を向けて告げた。
「このまま進み、上陸できる浜か港を探そう」
張政を乗せた公用船は、しばらく前に進んだ。
すると、島の北岸に、何かが見えてきた。
城ほどではない。砦のような、狼煙台のような……石造りの壁である。
その上に、いくつかの人影もあり、さらに旗も数本、たなびいていた。
帆柱に登っている物見が声を張った。
「張政様! あれは、呉の旗です!」
張政は一瞬で青ざめた。
「……邪馬台国に呉の旗?……伊都国の王が申したのは、このことだったか……」
さらに、彼は船の進路を指差した。
「小船が三……四隻! こちらに向かってきます!」
張政の乗る船は、元々は輸送船であった。
文官の移動用であり、戦闘のための装備はない。
護衛は、漕ぎ手の水夫が兼ねている。
張政は振り返り、叫んだ。
「まずいぞ、逃げろ! 回避だっ、回避ぃぃ!」
そして駆け出す。
水夫たちが慌てて帆を畳み始める。
片側の漕ぎ手が手を止めた一方、もう片側の漕ぎ手は全力で腕を振るう。
張政自身も船底につき、櫓を漕いだ。
公用船は、その船体を大きく揺らしながらなんとか急旋回すると、
黒い雲が立ち込める海へと向かった。
もやが、自分たちの姿を隠してくれると信じて……。
その時、背中から風が強く吹き抜けた。
水夫たちがふたたび帆を張ると、船はまたたく間に速度を上げた。
(これで逃げ切れるか……?)
張政は後ろが気になったが、必死に漕ぎ続けた。
海は、あっという間に暗くなり、雨も強く降り始めた。
波が高くなり、櫓を持つ手が痺れた。
その時――
「――横波だ! 高いぞぉぉぉ!」
頭の上から轟くその声に、張政は思わず顔を上げた。
その目には、船縁を越えてくる高波が映った。
※
あれから、どのくらい時間が経っただろうか――
張政は木陰に腰を下ろすと、膝を抱えた。
「……ここは、どこなんじゃ……」
その問いに答えるかのように――
――ボトッ
木は頭上からすぐ近くに、大きな実を落とした。
常夏である。
太陽が燦々と照らしている。
日陰に居なければ、陽光に焼かれてしまうように思えた。
眼前には、焚き火の跡。
さらにその向こうに、やや傾いた公用船が鎮座している。
どうやら、ここは無人島のようだ。
少なくとも、近くに人影はなく、生活の匂いもしない。
その点は良かったが、食料が無い。
通訳の男や、水夫たちが探しに出かけていた。
張政は、まっ白な砂浜に打ち寄せる穏やかな波を見つめて呟いた。
「邪馬台国が呉の手に落ちたことを、いち早く本国に知らせなければ……」
だが、次の瞬間、顔をしかめた。
(……ここから、どうやって帰る?)
その時――
遠くの方から声がした。
「――張政様! 海亀を捕まえましたぁ!」
振り向くと、食料を探しに行った同伴者たちが駆けてくる。
「――今行く!」
張政は叫びながら立ち上がると、すぐに駆け出した。
だが、内心ではこう思った。
(……亀肉かあ……)
やがて、船乗りたちの輪が見えた。
彼らは手にした木切れを振り回し――
――ポコッ!
――ペシッ!ペシッ!
音を立てて、甲羅を叩いていた。
張政は、走りながら思った。
(……待てよ……亀とて海の中で寝起きするわけではあるまい……)
そして大声で叫んだ。
「――やめよ! その亀、殺すな!」
亀を取り囲んでいた者たちが、手を止めた。
張政が息を切らせながら、亀を覗き込む。
すると甲羅から、ゆっくりと手足が生えてきた。
最後に、頭が伸びてきた。
亀は、涙を流しながら、張政をじっと見つめていた。
後年の話となるが――
この時の出会いを、張政は事あるごとに「運命だった」と振り返った。
生涯に渡る、友情の始まりであった……と。
※
だが、その時は――
「……本当は、食べるつもりだったのにっ」
張政は、鼻歌を口ずさんだ。
そして亀を腹ばいにすると、その甲羅に、船から持ってこさせた縄を渡した。
「その亀を助けてやった、俺……」
その調べは、誰の耳にも珍妙であった。
「おれ〜〜〜ぇぇぇえ〜」
やがて、十字に縛られた亀が出来上がった。
亀は盛んに、前後のヒレをバタつかせている。
張政は、傍らに立つ通訳の男に尋ねた。
「おい、この縄の長さは?」
「およそ、三十丈ほどかと……」
「……だいぶあるな。よし、縄の反対側を帆柱にくくりつけろ。それが済んだら、この亀を海に放つのだ」
その場の誰もが、保存食として活かして連れてゆくものと思った。
だが、張政は突飛なことを尋ねた。
「船長……こいつが進む先に、船を進めることは出来るか?」
船長は目を丸めた。
「亀に……船を引かせるのですか?」
「いや、そうではない。亀は仲間とともに卵を生むため、大きな浜に集まるという……その地まで、こやつに案内させようというのじゃ」
「……初耳です」
船長が言葉を返すと、張政はボソリと呟いた。
「……以前見た『禽獣遊戯四十八図』という書にそうあったのじゃ……」
だが、その目に笑みは無かった。
「いち早く、ここから脱出せねばならぬ。だが、我らはこの海の勝手を知らぬ……。
こやつならば、よく存じておろう……」
張政は低くそう唸ると、眼光鋭く沖合を見据えた。
浜辺には、穏やかな波が寄せる。
だが、この海も、いつ牙を向くとも知れない。
その場にいる者全てが、そのことを身をもって知ったばかりだ。
「やってみます!」
船長は、強く頷いた。
お読みくださりありがとうございました。
そこは台湾でしょ……というお話でした。
中国の古地図に、現在で言うところの海南島の東、台湾のちょっと南くらいの位置に『倭国』が描かれているものがあります。
※その代わり、台湾がなかったか、あってもすごく小さかったか……概念的な地図だと言われています。
どうしてそうなったのか?これも古代史の謎のひとつなのですが、本作では、
◯張政が悪い
という説を採用(捏造)しました。
呉で言うところの『夷州』なのですが、
何故かそこを「邪馬台国だ」と思った人が(どこかに)いた
であろうことは、想像に難くないでしょう。
敢えて詳しく書かず、ヒントを薄くしている部分もあります。
ただ、この頃の台湾は、ポリネシア系の海洋民族が暮らす地域だったという説もあり、詳しいことがよく分かりません。
そこで、辛うじて『呉の狼煙台』だけが立っていた、という設定にしました。
本当は『セブ島』くらいにしたかったのですが、
帯方郡の公用船(手漕ぎの中型帆船)が、松浦から30日で到達できる距離ではなく……。
以上が台湾にした理由です。他意はありません。
現代は、本当に、正確な知識に溢れた良い時代ですね。
「真実に出会える」……これは普通のことのようで、とても幸せなことなのかも知れません。
次回「第112話 助けた亀に連れられて」
昔〜むかし……張政は、どこに行くのか――?!
海の底には龍宮城があって……とかいうファンタジーはやりません!
(月曜20時ごろ更新予定です)




