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第108話 伊都の虚実

塞曹掾史・張政は、密命を帯び、倭国へと渡る。

そこで伊都国王・ナギサヒコの会談が始まった。

張政が見た倭国の現実とは――?


正始五年三月――


魏軍七万――号して十万の軍勢が、長安《ちょうあん》を後にした。


散騎常侍(さんきじょうじ)・司馬昭《しばしょう》は、馬上から呟いた。


「絵図上で長安と漢中を結んだ直線が、そのまま行軍路とは……」


その隣を進む、この部隊の主将・夏侯玄(かこうげん)の視線がこちらを向く。

司馬昭は口を固く結び、目を伏せた。

だが、夏侯玄は低く告げた。


「……いつ何時でも、思う所あらば進言せよ……」

「はっ!」


司馬昭が短く応えると、

夏侯玄は黙して頷いた後、口角だけを上げた。


「……頼りにしておるぞ、子上(しじょう)……」


    ※


そんな頃、同じく魏国・帯方郡でも――


塞曹掾史(さいそうえいし)・張政(ちょうせい)は、出航を前にして、太守の間を訪れていた。

太守・弓遵(きゅうじゅん)の訓示は、今回も長かった。

そして、重要な司令は必ず最後に言う。

なるほど、一言一句聞き逃させない、巧みな話法であった。


「……新羅(しら)が横流しした禁輸物資は、どうやら倭国に渡っておる。

 可能であれば、その証拠を掴んできてもらいたい……」

「はっ!」


そう言うと、背を反らせ、にやりと笑った。


「……倭国の者には、よくよく伝えよ。

 我が魏国は、間もなく蜀を平らげ、いずれ天下を統一する。

 『魏国に従っておれば、間違いはない』……とな」


「ははーっ!」


張政が深々と平伏すると、

続いて、太守の隣に控えていた裴世春が、苦笑いを浮かべながら言った。


「張政殿、先年の報告書の確認の方も……」


その話は、張政も前もって聞いていた。



   ◇◇◇


本年の正会礼でのこと――


裴世春の背後から、肩を叩く老人がいた。


「……これ。そなたが裴世春(はいせいしゅん)であるか?」


裴世春が振り返ると、その老人はにっこりと笑った。


「こ……これは、夏侯様……」


そして拱手し、深々と頭を下げた。

宮廷に、その名を知らぬ者はいない。

すると、夏侯氏は「パシッ」ともう一つ、強く肩を叩いた。


「そなたの倭国での報告書、つぶさに目を通しておる」

「ははっ! ありがたき幸せっ。恐縮至極にござりまするっ!」


そう言うと、老人は眉を下げた。


「じゃがのう……意味が分からないのだよ……」


そう言って背を向けると、顔だけ振り返り、またにっこりと笑んだ。


「明日、わしの屋敷に参れ。説明を聞きたい……」

「はっ……ははーっ!」


裴世春は深く、深く頭を下げた。


   ◇◇◇



「くれぐれも、よろしくお願いいたす……」

「……はっ」


張政は低く、唸るように返した。


    ※


数日後――


張政は、伊都国に至った。

手にした木簡に朱を入れる。


「ここまでの道程も報告書通り……っと」


今回の旅では、こういった独り言が多い。

通訳の男は、気働きはするが、ひどく無口であった。

倭国に常駐させるために連れてきた役人が、五人ほどいる。

だが、彼らは部署違いだ。共通の会話がなかった。

気軽に話せる相手といえば、公用船を運航する船乗りくらいだ。


と、そこに――


遠くから倭人が二人、歩み寄ってきた。

背後を振り向き、控えている通訳の男に声を掛けた。


「……来たぞ。伊都国の副官は、泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)の二名……あの二人がそれやも知れぬ。間違えるなよ?」

「はっ」


張政は立ち止まり、胸の前に腕を組んで、二人を待った。

徐々に顔もはっきりとしてきた。一人は壮年の男、もう一人は若者だ。

その二人が、数歩手前で足を止めると、張政は拱手した。


「魏国・帯方郡の塞曹掾史・張政にござりまする。

 昨年の朝貢の際の、返礼の品々を持参いたしました」


そう言ったあと、軽く頭を下げる。

すると、相手も拱手礼を取った。

張政は目を見張った。


(ほう……倭人にも心得ある者があるか……)


その男は、すぐに顔を上げた。


「我は、伊都国王・ナギサヒコにござりまする。

 これなるは副官の夏羽(なつは)と申しまする。以後お見知りおきを……」


張政が連れてきた通訳は、長い名前を聞き取れなかった。


「(ナ……ナギ……大率・爾支(にき)殿のことか?)

 これは……王自らのお出迎えとは、この張政、恐縮の極みにござる……」


後者は聞き取れた。


(ナツハ……報告書には無かったぞ……誰じゃ?)


この際なので、尋ねた。


「貴国には副官として、泄謨觚殿と柄渠觚殿、お二方がいると伺っておりましたが……」


すると、ナギサヒコと夏羽は顔を見合わせた。


「せもこ?……せもこ……あいつのことか?」

「へくこ……は、我のことでしょうか?」

「うん?……ああ、そういうことか……」


やがて、ナギサヒコが、こちらに顔を向けた。


「これなる夏羽は、我が養子です。倭では、子のことを『へこ』と申しますゆえ……」

「ほうほう……(忘れないうちに朱を入れておこう)……」


張政は木簡を取り出した。


(……どうやら現地の実情よりも、中央への体裁を取り繕ったな。この報告書は……)


そう思いながら、顔を上げる。

すると、ナギサヒコらは射抜くように眼光鋭く、こちらを見据えていた。

張政は、眉を下げた。


「ああ、失礼いたしました。

 太守・弓遵より、報告書の正誤を確かめるよう仰せつかっておりまして……」


すると、ナギサヒコは目を細めた。


「左様でございましたか。それでは、我が大殿にご案内いたしまする。

 長旅のお疲れもございましょう。まずは、ごゆるりとなさってくだされ」


そして、くるりと向きを変え、歩み出した。

夏羽は深々と頭を下げ、その方向に片手を差した。


(……先ほどの鋭い眼光は、なんだ?)


張政はそう思いながら、その後に続いた。


    ※


伊都国の大殿が近づいてくると――


張政は気づいた。

その裏手にも、真新しい、大きな建物が立っているのが見える。

大殿とも遜色ない造りであった。

そこは、環濠と木柵で囲まれ、槍を手にした大勢の兵士が取り囲んでいる。

中の様子は見えない。

柵の中では、絶えることなく、誰かしらが行き来していた。

だが、不思議なことに、女しかいない。


張政は、通訳の男を介して、夏羽に尋ねた。


「あれは、いかなる施設でしょうか?」


すると、ナギサヒコがこちらを振り返って答えた。


「あれなるは、倭国女王・卑弥呼の宮殿にござる」


張政は一瞬、戸惑った。


「女王陛下の御座所は、確か邪馬台国だったはず……今は、伊都国に御座いますのか?」

「はははは……」


ナギサヒコは、笑いながらかざした手を下ろすと、眼光鋭くこちらを見据えた。


「女王陛下のおわす所を邪馬台国と申すのならば、今はこの伊都洲が邪馬台国ということになりますな……」


(……通訳の問題か?いや……何を言っているのだ、この男は……?

 とはいえ、女王の居館とあれば、礼を欠くことはできまい)


張政は、宮殿に向かって拱手し、頭を下げた。


「では、後ほど……参上、仕りまする……」


そう言うと、ナギサヒコは咎めるように鋭く声を張った。


「――いや。それは出来ませぬ」


張政は、ナギサヒコをまっすぐに見てから、尋ねた。


「それは何ゆえ……? 私は、詔を奉じて参っておりまする。女王陛下にお目にかからぬというわけには……」

「いやあ……その儀は平にご容赦のほどを……」


ナギサヒコは低く唸った。

だが、その顔には、薄い笑みがあった。


「……我の国のしきたりでは、女王様に直接お目にかかれるのは、実弟である我と、取次役の従者二名……他は、お身回りのお世話をする巫女のみにござる」


張政は耳を疑った。


「……なんと? 以前、我が国から伺った、梯儁(ていしゅん)と裴世春(はいせいしゅん)の両名は、女王様にお目に掛かったと申しておりましたが……?」


「んんん……何かの間違いでは……?」


ナギサヒコの眼光が、鋭さを増す。

その視線をちらりと逸らすと、傍らの夏羽もまた、眼光鋭くこちらを見据えていた。


    ※


やがて、伊都国・大殿に至った。

張政は通訳と二人、広間に通された。

上座にゆっくりと腰を下ろすと、ナギサヒコは手を差し出した。


「お持ちいただいた返礼の品々は、全て確認いたしました。

 念のため、詔書も拝見させていただけますかな?」


その言葉に、張政は首を傾げた。


「目録は、先にお渡しいたしましたよな?」

「はい、目録はいただきました」


「……ならば、詔書は人目に触れさせぬもの。

 女王陛下のお近くにて読み上げた後、お引渡しいたします」


すると、ナギサヒコは眉を下げた。


「それは承知しておりますが……困りましたな。

 女王様より仰せつかっておるのです。

 今後は、海外からの人員物品の出入りを、我が伊都洲で管理するように、と……」


「ほう……この間に、倭国の法制が変わったのですかな?」

「……はい……詔書の内容と齟齬があっては、我らが罰せられまする」


ナギサヒコが低く唸りながら、こちらを見据える。

張政は眉をひそめた。


「詔勅の内容と、目録とに齟齬がないことは、我らの方で出立前に確認しておりまする」


ナギサヒコは、にこやかに笑んだ。


「ですが、念には念ということもございますれば……」

「お断り申し上げる」


張政がそう言うと、ナギサヒコは眼光鋭くこちらを見据えた。

その傍らからも、夏羽の眼光が鋭く飛んできた。


張政は、違和感を覚えた。

その言葉にも、先ほどからの、この二人の視線にも。


(何事だ?……こんなこと、前回の報告書には書いてなかったぞ?

 報告書に誤りはあるものだが、これほどの齟齬は……)


その時、当時の通訳官の顔が思い浮かんだ。


(……そうか、金玄基(キム・ヒョンギ)……あいつだったな……)


張政は、頭を垂れる他なかった。


    ※


張政は顔を上げると薄く笑い、ナギサヒコを見据えた。


「我が国は、貴国を大切な友好国と考えておりまする……ですが、存じ上げぬことが多いようでござる」

「……そのようですな」


二人は互いに不敵な笑みを交わした。

張政は続けた。


「そこで……こちらに、帯方郡の役人を常駐させていただきたく存ずる……」


そう尋ねると、ナギサヒコと夏羽は顔を見合わせた。

やがて、二人は頷き合った。

ナギサヒコは満面の笑みを張政に向けた。


「それは、こちらとしても願ってもないお申し出……詰め所を一棟、ご用意いたしまする」


張政は深々と平伏した。


「ありがたきご返答、感謝申し上げる。

 任に当たる者は、五名ほど……表に待たせておる者の中にござる」


そう言うと、ナギサヒコの口元に白い歯がこぼれた。

張政も、にやりと笑った。

笑い合う二人の声が、伊都国の大殿に高く響き渡った。


    ※


その晩。伊都国の宿舎にて――


張政は、通訳の男に静かに尋ねた。


「おい、伊都国王の話……本当だと思うか?」


それは、ナギサヒコとの会談のあとに出た、倭国の現状についてであった。

だが、通訳は黙したまま答えない。

張政は振り返り、通訳の顔をまじまじと見つめた。


(……そうだった……。

 間違いをしない代わりに、定かでないことは、一切口にしない奴だったな……)



   ◇◇◇


それは、張政にとっては衝撃であった――


「――なんと?! 邪馬台国は今、狗奴国の占領下にあるのですか?!」


驚き、そう尋ねると、ナギサヒコは薄く笑った。


「……いや。占領されてはおりませぬ。ですが……」

「……ですが?」

「その地を治める者たちが、狗奴国の思想に毒され、我らの申すことに従いませぬ」


「……では、女王陛下の宗女・台与殿のお身柄は……」

「台与……に至っては、若輩ゆえにすっかりたぶらかされ、今では先頭に立って、彼奴らを煽っておる始末……」

「……なんと……」


ナギサヒコは、苦虫を噛み潰したような顔をして唸った。

張政は固唾を呑んだ。


(あの台与殿が……あの頃はまだ童じゃったが……時が経てば変わるものよ……)


だが、ナギサヒコは静かに続けた。


「いよいよ聞かぬようなら、力ずくで屈服させる所存にござる。

 今はその用意をしており、この伊都より東に兵を出しておりまするが、そのような状況ですので……」


「……邪馬台国へ行くのは危険だと……戦になるのですかな?」

「ははは……ご安心くだされ、我らの敵ではございませぬゆえ……」


「……それで……女王様はこちらに……」


そう呟き、頷いていると、

ナギサヒコも、黙したまま頷いていた。


だが、報告書の確認も、わずかしか済んでいない。

先ほどのナギサヒコの話では心配なさそうだが、抜け荷の証拠もまだ掴んでいなかった。

もう少し、倭国の奥深くへ入りたい。

そこで、もう少し食い下がろうと尋ねた。


「……では、途中の『投馬国』へは……?」

「――投馬国!」


ナギサヒコは、やや芝居がかった大声を上げた。


「……伊勢のことですよな?……そこは今や、賊の本山にござる。迂闊に行けば命は……」

「いや、しかし……(ゆるい)大巫女様がいらっしゃると……」

「……ううん?……あの大蛇のことですかな?」

「おろち……?」

「反逆者のことを、倭国ではそう呼んでおりまする……」


張政には、唖然とする言葉ばかりが並ぶ。

ゆえに、小さく尋ねた。


「……そのような大変な状況を……なぜ帯方にご報告なさらなんだ……」


すると、ナギサヒコは両手を床につけて言った。


「申し訳ございませぬ!……わざわざ、お耳汚しに遠方より参るのもどうかと思い……。

 ですが、これよりは伊都にも常駐していただけるとのこと。

 些細なことも、つぶさに、ご報告させていただきまするっ!」


   ◇◇◇



思い浮かぶのは、在りし日の金玄基の顔であった。

張政は、倭国に上がる月に向かって呟いた。


「……仕事は間違えてばかりだったが……あいつなら何と答えたであろう?」


お読みくださりありがとうございました。

本作も108話を迎え、ようやく「魏志倭人伝の世界に帰って」参りました。感無量です。


もし、魏志倭人伝の視点が途中からブレていたら……?

「魏から見た」倭国のことを書いてあるのでしょうけれども、それは

「魏とつながりのある倭人の誰か」の視点であり、

魏とつながる人物が変われば(そういうことは、多分によくあることです)

対象が同じでも書かれ方が変わってくる……。

ましてや、途中から魏側の外交政策が変わったのだとしたら、その結果も変わるでしょう。


だからといって、ヤマト王権を狗奴国にしてしまうのは、乱暴すぎるか……?

どうする?台与様!



次回「第109話 旋回する運命」

倭国全体が旋回し始める。運命の舵は、一体どこへ向かうのか――?

激しさを増す怒号の裏側で、静かに、しかし確実に減り続ける「何か」とは――。

(木曜20時ごろ更新予定です)


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