第103話 老いる者、若き者
魏国に征西軍が興る――その時、一人の男が司馬懿の元を訪れた。
一方の呉では、来ぬ国を目指す船が出向する。
倭国では、ますます伊勢と伊都の対立が加速していく――。
正始五年二月――
魏国・洛陽の司馬懿邸には、息子の中護軍・司馬師が訪れていた。
「父上、詔が下りました。いよいよ曹爽が蜀に進軍するそうです……」
「うむ……」
司馬懿は寝台の囲子に背をもたれると、重く、深い溜息をついた。
「師らに出してもらった上奏の甲斐もなかったか……」
「だから、申し上げたではございませぬか。『どうせ曹爽一派に握りつぶされます』と」
「……我らは、やれるだけのことはやった。首尾よく運べば良いが……」
その時――
親子の前に、下僕が一人現れた。
「旦那様、淮水の鄧艾殿が、任地に戻る前のご挨拶……とお見えになっておりまする。いかが致しましょうか?」
親子は顔を見合わせると、黙したまま頷き合った。
司馬懿は布団に潜り込んだ。
司馬師は下僕を振り返った。
「通せ」
「はっ」
やがて、尚書郎・鄧艾が寝台に姿を現した。
「し、し、し、し、し、し、し、し、し、し、し、し、司馬太尉!」
鄧艾は寝台の入口で拱手するなり両手を広げた。
そのまま、こちらへ向かってくる。
司馬師は正対し、拱手した。
「鄧艾殿、ようこそお越し下さいました。父は太尉を辞任し、今は……」
「おお、し、し、し、し、し、司馬師将軍。貴殿もお見えでしたか……」
鄧艾は、こちらにも拱手して、
「……では、私はこれにて失礼いたしまする」
と、辞去を申し出た。
唐突なことに、司馬師は驚いた。
「――なんと?!」
「折角の親子のご対面の場、某ごときがお邪魔をするわけには……」
深々と頭を下げる鄧艾に、司馬師は言った。
「いやいや……折角ですので、会っていって下され……」
「左様でございますか。では、失礼いたしまする……」
そう言うと、鄧艾は寝台の傍らに歩を進めた。
司馬懿は、体を起こそうと肘を立てる。
司馬師は素早く回り込み、その背にそっと手を添えた。
「父上、淮水の鄧艾殿がお見えです」
「あ? と……とう?」
「と・う・が・い・殿です!」
「あ、ああ……鄧艾殿か。よう参られた」
鄧艾は司馬懿に正対して拱手した。
司馬師は改めて、鄧艾の用件を告げた。
「任地の淮水にお戻りになられます!そのご挨拶、とのことでございまする!」
「あ、ああ……渭水に行かれるのか?」
司馬懿が鄧艾に顔を向けると、鄧艾は笑みを浮かべた。
「はい〜」
「……そ、そうか。渭水は都にも近く、重要な地ゆえ、心して任に当たられよ」
「はは〜……」
そう言い、深々と頭を下げると、鄧艾は置いてあった椅子に腰を下ろした。
「太尉、お聞きくだされ……。太尉にお引き立ていただきましたこの鄧艾、粉骨砕身、魏国のために働いてまいりました。淮水の水路は完成させ、先日からは軍の運用訓練も開始いたしましてござりまする。ですが、新田からの収穫が上がるのはこれから……それなのに蔵に米も蓄えぬうちに、此度の蜀遠征です……魏の臣として、これほど嘆かわしいことはございませぬ。あるだけの財を使い、将来上がる財も即座に使ってしまう……まったく、今の朝廷は臣民を何と心得ておるのでございましょう……。太尉におかれましては、一刻も早くご回復いただき、今一度、我らをお導きいただかねば……。そこで此の度、温州みかんを取り寄せ、持参いたしました。先程の者に手渡しましたので、どうぞご賞味のほどを……いえ、太祖武帝の時代には呉の献上品だったそうですが、先日、任地の対岸に住む良き農家と知り合いましてな……」
司馬懿は黙したまま、にこやかな表情で頷いていた。
だが、時折こちらをちらりと見やる。
司馬師は、その都度、頷き返した。
(……この芝居……相手を選ぶようじゃな……)
※
同じ頃、呉国・建業の楼閣には――
一組の親子が佇んでいた。皇帝・孫権と、太子・孫和である。
二人は遠く港から海に出てゆく楼船を見送っていた。
だが、孫権は射抜くような鋭い視線を向けたまま、一言も口にしない。
船が小さくなった頃、孫和は恭しく拱手して告げた。
「丞相が荊州に戻る前に、全てを決済してくれました。これで陛下の悲願でございました倭の大王国との同盟も……」
「和よ……」
孫権は、孫和の言葉を低く遮ると、その体躯をゆっくりと向けた。
「そなたら兄弟が仲良くしておれば、もっと早くに船を出せたのだ……」
孫和の額から汗が滴り落ちる。
孫権は言葉を継ぐも、語気は徐々に荒くなっていった。
「魏では蜀への遠征軍が都を出たという……この機に合肥を突けぬのが無念でならぬ……それというのも……」
孫和は拱手する腕の間に、顔を埋めた。
「……申し訳ございませぬ。今後、覇にはよく言い聞かせ……」
すると、孫権はついに怒声を発した。
「――そなたがしっかりしておれば、こんなことにはならなかったのだ!」
「……はっ……ははっ……」
「まったく……今後はせめて、親の邪魔だけはいたすな」
低くそう呟くと、孫権は楼閣の降り口へと歩いていった。
※
その頃、大和の国では――
ナギサヒコは一人、船を出し、大和の湖に浮かんでいた。
船頭は船竿を手に、立ったまま、こちらを見下ろした。
「旦那はん、どちらまで行かはりますの?」
「……うーむ……この辺りをぐるっと周ってくれ……」
船底に寝そべったまま答えると、船はまた、ゆっくりと動き始めた。
何か後戻りをする方法はないか……ナギサヒコは、そればかりを考えていた。
両の手を組んで枕にし、上空を見上げながら、呟いた。
「……信じられぬ……。あのような途方もない都建設計画が、ヤマトでは圧倒的多数で承認されたとは……」
◇◇◇
先日は――
「――なんだと!?」
ナギサヒコは思わず立ち上がり、叫んだ。
そして、小さく唸った。
「この上、兵まで出せ……と?」
伊勢の大巫女は座ったまま、こちらを見つめながら返した。
「大八州の国々から派遣している兵だけでいいのです」
「伊都の兵が半分になってしまう……筑紫洲の守りは如何にする?」
聞き返すと、伊声耆と掖邪狗が畳み掛けた。
「ですが、今以上に『民を出せ』と申せば、大八洲中の田畑が枯れてしまいまする」
「せめて半分! 戻していただければ良いのです!」
ナギサヒコは、頭に血が上っていくのをはっきりと感じた。
「――掖邪狗!」
「ははっ!」
深々と平伏する掖邪狗に畳み掛ける。
「汝は、そのつもりで、我に『ヤマトに参らず、伊都に残れ』と申したのか?!」
「……滅相もございませぬ。あれは、来ぬ国の動きが掴めませんでしたゆえ……」
「その結果が、これか?!」
ナギサヒコは、体中の血が濁り、淀んでゆくのを感じた。
この際それら全てを吐き出したくなり、大声を張る。
「――謀られたぁぁぁぁ!」
館の柱や壁がビリビリと震えた。
だが、叫べば叫ぶほど、怒れば怒るほど、悪い気は溜まる一方だった。
◇◇◇
(そうか……費用も人手も、ヤマト連合が持つと思うておるから、いい加減なのだ……)
ナギサヒコの脳裏に、一つの考えが浮かんだ。
雲がゆっくりと流れていた。
だが、それ以外のものを見たくなり、ゆっくりと起き上がった。
遠く、纏向の邑が見えた。
(……纏向……大和の都か……)
◇◇◇
また別の日には――
ナギサヒコは、纏向の長老の館に掲げてあった布の幕を眺めていた。
丁度そこに、通りかかった長老を呼び止めると、尋ねた。
「あれは何じゃ? ……大……和?」
「ははは、ナギサヒコ王。あれは『やまと』と読むのです。この国の名です」
「……やまと? 漢字で読めば、『だいわ』であろう?」
すると、長老は薄く笑った。
「いえいえ……先のヤマトにて、来ぬ国の彦尊が演壇に立たれましてな。……まこと素晴らしい、お話でございました……」
「ほう……」
「その時に、仰ったお言葉なのです。『大いなる和』……それは元もと、我らの理想であった……と」
「元々の……我らの……?」
ナギサヒコには初耳であった。
来ぬ国の王・クニトラが演壇に立ったことが、ではない。
そのような理想を表す言葉があり、それが自分たちのものだったという事実を。
だが、黙したまま、続きを待った。
長老はその幕を、遠い目で眺めながら続けた。
「我らの理想をもう一度、このヤマトの地で実現する……そう仰って、台与様が命名された国名でして……」
長老は、そこで言い淀むと、こちらを見やった。
その目は、まるで『ご存知ですよな?』と言わんばかりだった。
◇◇◇
(ヤマト連合は……我と、大巫女様で大八州中に拡げたヤマト連合は……もはや、意味を失ったのだろうか?……敵の言葉に踊らされて作る都・大和……)
そして、誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「……止めねばならぬ……やめさせねばならぬ……」
※
纏向の邑に佇み――
台与は、その船を遠くから眺めていた。
傍らには、紀玄人が同じように佇んでいる。
台与は、胸の内にある思いを口にした。
「……本当は、どうすれば良かったのでしょう?」
「うーん……」
紀玄人は長く、小さく唸った。
台与は待ち続けてたが、いつまで経っても、唸り声しか聞こえない。
だから、重ねて尋ねた。
「……立場の違いなのでしょうか?」
「ううーん……」
紀玄人は、変わらず唸るばかりだった。
だが、今度は呟くように言った。
「そうなのでしょうが、元々、阿蘇の大巫女様が仰られたことですから……」
台与は、その横顔に尋ねた。
「本当に、神のお告げなのでしょうか? それとも、大巫女様の……」
「一つ言えることは……」
紀玄人は遮るように、だが、湖に目を向けたまま言った。
「我らが、何を信じ、何を為すかです」
台与は、そう言った瞳を見つめながら、言葉の意味を噛み締めた。
そして、足元に目を向けた。
「そうですね……私は、過去に囚われていました……」
すると、紀玄人が大きく息を弾ませた。
台与は顔を上げ、こちらを見つめる紀玄人を見つめ返した。
「誰が言ったことか……そんなことは、今やどうでもよいこと……」
「はい……」
紀玄人はにっこりと笑い、強く頷いた。
湖に跳ね返った夕日が、その顔を横から照らす。
台与もまた、にっこりと笑みを返した。
だが、すぐに体ごと、湖に視線を戻す。
そこは黄金色に輝いていた。
「今は沼地が広がるこの大地を、いずれ、実る稲穂で満たしましょう……」
台与はそう呟くと、大きく胸を張った。
お読みくださりありがとうございました。
正史三国志には、司馬懿が曹爽一派を欺くエピソードがありますが
演技というのはなかなか難しいもの……その裏には(きっと)失敗もあったはずです。
もう死語かも知れませんが、「最近の若者は……」とか「老害」という言葉がありました。
ですが、こうして栄える国と滅ぶ国を並べてみますと、
どちらがどう『ではない』ような気がしてまいります。
一番良い形って、何なのでしょうね?
ちなみに本作は、主人公サイドであっても、
平気で間違ったことをしますので、悪しからずご了承下さい。
次回「第104話 届かぬ真意」
都建設の意図を語ることなく「魂を抜かれてしまった」阿蘇の大巫女。
その解釈を巡り、伊勢の大巫女とナギサヒコは月光の下に語り合う。
その時、台与は――。そして、最後には――。
(月曜20時ごろ更新予定です)




