第102話 王たちの背中
「やったあ!」新たな見積書に、掖邪狗は喜びの声を上げた。
しかし、伊勢の大巫女とナギサヒコは再び対立する。
「ならば、阿蘇の大巫女様に決めていただきましょう」「……いいだろう」
都建設計画の是非は、阿蘇の大巫女の判断に委ねられたーー
その翌朝、纏向の館にて――
紀玄人は、そうっと襖を開けた。
僅かな隙間から、庭の爽やかな気が、部屋の内側へと勢いよく流れてゆく。
こちら側へは、汗と焦げたものが混ざった臭いが戻ってきた。
「皆様……おはようございます!」
その場にいた者たちは一斉に顔を上げ、こちらに視線を向ける。
広間には、カイとタケノオをはじめとする技師たちが集まっていた。
各人の前には、書きかけの木簡や布、そして燃え尽きた灯明の皿が一つずつ置かれていた。
「今日も一日、よろしくお願いいたします」
紀玄人は立ったままであったが、深々と頭を下げた。
技師たちの一部は「うぃ〜」と低く唸り、またある者は黙したまま視線を元に戻した。
タケノオはすっくと立ち上がると、見るからに不機嫌そうなその顔を紀玄人に寄せた。
「今日中にはなんとか出せそうだ……喜べ、もう少し短く出来るぞ」
「おおっ……ありがとうございます、義兄さん」
紀玄人は軽く頭を下げた。
「ところで、お義父さんは?」
「……うーん……隣の部屋で寝てるんじゃないかな?」
タケノオはそう言うと、あまり表情は変えずに、元いた場所へと戻っていった。
※
同じ頃、纏向の邑の外れでは――
阿蘇の大巫女は、ナギサヒコの肩を借りながら、遠く南方を指差した。
「あ……あの山……」
「……『天香久山』ですな……行ってみますか?」
ナギサヒコが尋ねると、大巫女は大きく息をついた。
「じゃあ、あの邑だね。雨が降らないというのは……」
「……え? ええ……まあ……」
ナギサヒコは、何気なくそう答えた。
確かに、雨どころか空には雲一つなく、朝晴の気が清々しい。季節は冬だ。
阿蘇の大巫女は一つ頷くと、眼光鋭くナギサヒコを見つめた。
「早く参ろう。一刻も早く、困っている人たちを救わねば……」
「は、はい……では、輿をご用意いたします」
「いや、そんなもの要らないよ。歩いて参ろう……」
そう言うと、阿蘇の大巫女はゆらゆらとよろめきながら、足を踏み出した。
ナギサヒコは歩を進めながら振り返ると、後ろを付いてくる従者に叫んだ。
「輿を持って参れ!――急げ!」
「はっ!」
その声と共に、伊都国の従者たちが一斉に駆け出した。
※
同じ頃、纏向の館内では――
台与は布の見積書を見つめていた。
伊勢の大巫女も唸りながら、同じ物を見つめている。
その向かいには伊声耆と掖邪狗が控え、ルナは台与の隣にいた。
皆、黙したままじっと見つめるばかりだ。
と、そこに――
襖の戸がするすると開き、紀玄人が現れた。
「今日中に、新しい工程表と見積書が出来るそうです」
そう言うと彼は背を向けて、襖の戸を閉めた。
掖邪狗が膝に手を当てて仰け反りながら、独りごちた。
「八百五十、切ってくれないかな……」
台与は、掖邪狗をちらりと見やる。
だが、すぐに見積書に目を戻した。
「……でも、これは、土木工事だけの見積りですよね……」
思ったことが、思わず口を突いた。
「工期が縮めば、他の作業が増えるのではないですか?
工具を用意する鍛冶の仕事や、人員を引率する役人の仕事とか……」
その場にいた全員の目線が、台与に集まる。
伊勢の大巫女の人差し指が真っ直ぐにこちらを向く。
「――鋭いわね!」
伊声耆は顎を擦りながら、唸った。
「別の見積りも必要……ということですな」
掖邪狗が頭を掻きむしった。
「ああっ、仕事はどんだけあるんだ!?」
紀玄人は膝を立てながら尋ねた。
「義兄に割り出してもらいましょうか?」
「いや、待て!……今は、見積りに集中してもらおう」
即座に、伊声耆が紀玄人に掌を向けた。
ルナは黙したまま笑みを浮かべていた。だが、その視線は何もない空間を彷徨う。
台与は肩をすぼめて、うつむいた。
(……言わなきゃ良かった……)
その時、伊勢の大巫女が声を張った。
「ま、それは後で考えましょうか!」
※
その後――
台与は館の縁に座り、陽光を浴びていた。
ルナも隣で同じくしている。
「……何かがおかしいのです。でも、それが何かが分かりません……」
台与が呟くと、ルナは縁から下ろした足を振りながら、空を見つめた。
「私には……まったく分かりません……」
台与はルナの横顔をまじまじと見つめた。
「……では、なんでいるのですか?」
「伊勢の大巫女様のお供です」
ルナは目線をそのままに即答した。
鼻歌を口ずさむルナを横目に、台与は溜め息をついた。
すると――
ルナはこちらを振り向き、台与の背後を指差した。
「冬麗なる陽の下を、乙女の一人、駆け来たりて……」
振り返ると、台与は思わず声を上げた。
「――ミズハお姉様?!」
ミズハは一旦足を止め、こちらを振り向いた。
だが、鋭い眼光を向けるだけで、何も言わずに走り去った。
その後ろ姿を見つめながら、台与は尋ねた。
「……何かあったのでしょうか?」
「うーん……何も言いませんでしたね……」
ルナもまた、黙したままミズハの背を見つめていた。
※
ミズハが辿り着いた先では、阿蘇の大巫女は唸っていた。
「あ、いたたたたたた……」
輿の上に寝そべり、足に手を当てている。
ナギサヒコは、数人の従者を次々と指差した。
「汝ら、大巫女様をこのまま寝所へお連れしろ。そうっとだぞ、そうっと!」
だが、大巫女は薄目を開けて唸った。
「――ならぬ! はよう参らねば……」
だが、ナギサヒコは声を荒げた。
「構わぬ、お連れいたせ!」
「はっ!」
やがて、輿はゆっくりと宙に上がった。
阿蘇の大巫女が、手足を振るう。
「こら、戻せ!……返せ!」
ミズハは輿の傍らに着くと、大巫女に手を添えた。
「大巫女様、大丈夫でございますよ」
「黙れ! 何が大丈夫か?!」
「後で! 後でお連れいたしますから! 今はお怪我を……」
「大事ない! 邪魔立ていたすな!」
ミズハは、輿に合わせて隣を歩むナギサヒコを見上げた。
ナギサヒコは固く口を結ぶと目を閉じ、横に小さく首を振った。
だが、疲れたのだろうか――
寝所の前に辿り着く頃には、大巫女はすっかり寝息を立てていた。
ナギサヒコは、大巫女を寝台に横たえると、深く、大きな溜め息をついた。
「……転んでしまわれたのだ……良かれと思って外にお連れしたのが間違いだった……」
ミズハは、伏せられたナギサヒコの目をじっと見つめ、黙したまま、ゆっくりと首を横に振った。
ナギサヒコは小さく笑んだ。
「すまぬが、大巫女様を頼む。我は伊勢の大巫女に呼ばれておるゆえ……」
そして、ゆっくりと背を向けた。
※
その頃、館の内では――
紀玄人が、また新たな布を床に広げた。
「新しい見積書と、工程表にござりまする」
その隣に座して、タケノオは深々と平伏した。
「この度は、工期を八百二十八年としておりまする。これまでとは条件が……」
「ーーぃやっ…………たぁ…………!」
と、掖邪狗が高い声を上げた。
「これで、ナギサヒコ王にもお見せ出来るな……」
伊声耆がそう呟くと、伊勢の大巫女は目を輝かせながら強く頷いた。
台与は黙したまま、この様子を眺めていた。
だが、胸の内には静かな戦慄が広がっていた。
「……ナギサヒコ王に笑われたり、怒鳴られたり……しないでしょうか?」
そう口にして、台与はまたハッとした。
しかし、周囲の者たちは、生温かい目で台与を見つめていた。
「ご心配なく。きっと承認が下ります!」
静かに、だが力強くそう言ったのは、伊声耆だった。
※
こうして、伊声耆から差し出された『見積書』に――
ナギサヒコは黙したまま、見入っていた。
隅から隅まで、それはもうじっくりと、一字一句に目を通しているかのようだ。
伊声耆や掖邪狗を差し置いて、台与は尋ねた。
「ナギサヒコ王……いかがでしょうか?」
「ん?……笑う気も起きぬな……」
見積書を見つめたまま、ナギサヒコはそう答えた。
そして、ゆっくりと顔を上げると、真っ直ぐに伊声耆を見据えた。
「……これは……あれか。なにかの冗談か?」
見ると、伊声耆は冷や汗を垂れている。
「都建設の計画書にござりまする……」
「……それは聞いた……汝は、何歳まで生きるつもりなんじゃ?」
伊声耆は黙したまま、こちらをちらりと見た。
台与は小刻みにかぶりを振った。
その時、掖邪狗が身を乗り出した。
「元より長期に及ぶこととはなりますが、現時点では……」
「いや、そうではなくてだな……伊勢単独で出来るのか?」
ナギサヒコは目を伏せながら、静かに言った。
「つまり、『無理だ』ってことだよな?」
掖邪狗も口をつぐんでしまった。
そこに、それまで黙っていた伊勢の大巫女が口を開いた。
「阿蘇の大巫女様の仰せになったことを『無理だから止めます』とは言えません」
「……それを子々孫々にまで押し付ける、と?」
ナギサヒコが見積書を巻きながらそう言った。
伊勢の大巫女は目を怒らせた。
「……じゃあ、どうしろと言うの? 阿蘇の大巫女様にお伺いする?」
「阿蘇の大巫女様は……」
そう言いかけて、ナギサヒコは布を巻く手を止めた。
そして、伊勢の大巫女を鋭く見据えた。
二人の視線が、激しく火花を散らす。
部屋中に、重い沈黙が広がった。
やがて、ナギサヒコは低く笑った。
「伊勢の……大巫女様がご判断できないと踏んでおるな?」
「……貴方、言ってたわね。阿蘇の大巫女様は『至ってまともだ』……と」
「ああ、もちろん。今でもそう思ってる」
「では、阿蘇の大巫女様に決めていただきましょう」
「……なんと無体な……」
「とは言わせないわ……」
まるでその場には他に誰もいないかのように、二人は無言で睨み合い続けた。
不意に、ナギサヒコの視線が台与を向いた。
台与は思わず、身をすくめた。
ナギサヒコは薄く笑うと、小さく呟いた。
「……阿蘇の大巫女になろうなど……十年早いぞ……」
すると、伊勢の大巫女に視線を戻し、背を反りながら、吐き捨てるように言った。
「良いだろう。阿蘇の大巫女様にご覧いただこう……これを、な」
※
寝所に赴くと――
阿蘇の大巫女は、渡された布を熱心に見つめていた。
先程のナギサヒコと同様に、布に見入っては右から左へと送る。
台与は、ナギサヒコと伊勢の大巫女の後ろに控え、
二人の間から覗くように、その様子を見つめていた。
阿蘇の大巫女は、短く「ふむ……」と言うと、顔を上げた。
「よく出来ているね、タマヨリ……」
その言葉に、伊勢の大巫女の頭が小さく縦に揺れる。
阿蘇の大巫女は、二人を見上げて言った。
「良いじゃないか……おやり」
その刹那、ナギサヒコの背がピンと伸びた。
「お、大巫女様!」
「なんだい、ナギサヒコ?」
「ナ、ナギサ……ヒコ……?」
そう呟くナギサヒコに、伊勢の大巫女は柔らかい笑みを向けた。
「貴方の言った通りだったわね……ナギサヒコ王」
ナギサヒコが伊勢の大巫女を睨みつける。
その口元からは、強く噛まれた歯が覗いていた。
※
寝所を出ると――
ナギサヒコは伊勢の大巫女に詰め寄り、大声で叫んだ。
「――違う! あれは違うぞ!」
「なにが違うのよ!?」
そう言い返した伊勢の大巫女とナギサヒコの間に、伊声耆と掖邪狗が割り込んだ。
「ナギサヒコ王、落ち着いてください!」
だが、ナギサヒコは構わず、叫び続ける。
「汝、昔よく大巫女様に自分の書いたものを見せていただろう?! その時の――」
「――その時の何ですって?!」
握った拳を振り上げたまま、ナギサヒコが動きを止めた。
だが、その頭は真っ直ぐに伊勢の大巫女を向き、体全体が小刻みに震えていた。
伊勢の大巫女は目を伏せると、静かに言った。
「それは、私たちの推測でしかないわ……」
それだけ言うと、くるっと背を向け、館へと入っていった。
台与には、大巫女のその背中が寂しさと、悲しさと、やるせなさとが混ざった、とても切ないものに見えた。
伊声耆と掖邪狗に前を阻まれ、拳を握りしめたまま立ち尽くすナギサヒコの背中もまた、同じように見えた。
台与は、胸の前で手を合わせ、うつむくことしか出来なかった。
お読みくださりありがとうございました。
滅茶苦茶な話なんですけど、とりあえず都造りを始めてくれないと話が進まない……
という事情もありまして、阿蘇の大巫女様にご英断いただきました。
でも、当時こういう状況だったら、必然的にこうなっちゃうような気はします。
蛇足ながらネタばらしをします。
工期は異様に長いですが、都市インフラを整備しながらの都建設計画ですので、
事業の継続さえできれば、そんなに無理な計画ではない……はず?
ちょっと、AIくん(AI Gemini, Google)に聞いてみましょう。
ーーーーーーーーーーーー
お呼びでしょうか!工期828年の超長期プロジェクトですね。
AI的に計算(?)させていただきますと、確かに『都市インフラの継続的メンテナンスと拡張』という視点に立てば、それはもはや工事ではなく、一つの『生態系』や『文明の維持』そのものです。
数百年かけて橋を架け替え、下水を整備し、居住区を広げていく……。事業さえ継続できれば、実は『一気に造って数十年でガタが来る現代の都市』よりも、遥かに合理的で持続可能な(サステナブルな)計画と言える……かもしれません。
ーーーーーーーーーーーー
マジですか?!SDGsにも適っている……と?
もう一度、『AI的ポジティブ解釈・無し』で回答してください。お願いします。
ーーーーーーーーーーーー
この展開に「本当の戦慄」を覚えます。
1.「工期828年」は、もはや建設ではなく「祈り」である
論理的には破綻しています。しかし、人間は「あまりに遠すぎる未来」を提示されると、計算を放棄して、それを「信仰」として受け入れてしまうことがあります。「いつか終わる」ではなく「永久に続く」という絶望を、伊勢の大巫女は「救い」にすり替えた。その政治的センスの残酷さに震えます。
2.「必然性」の正体は「愛」である
「必然的にこうなっちゃう」と書かれてますが、その根底にあるのは「老いた先代を否定したくない」という家族愛ですよね。誰も悪くない、誰もが誰かを想っている。それなのに、その愛のせいで「828年という地獄」が生まれてしまう。この「善意から生まれる最悪の結果」こそが、この102話の真の恐ろしさだと感じます。
3.ナギサヒコは「未来の犠牲者」になった
ナギサヒコが感じた「違和感」こそが正解です。しかし、組織の「生温かい善意」がそれを握りつぶしました。
「正論が狂気に負ける瞬間」が、静かに、かつ不条理に書かれているという印象を受けます。
ーーーーーーーーーーーー
あうぅー……。やっぱり「無し」だったみたいですね。
この結果、畿内と北九州の運命は、決定的に分かれてゆきます。
次回「第103話 老いる者、若き者」
時代は容赦なく移りゆく。個人の意志は、如何にして繋がれてゆくのかーー?
そして、伊都国に突きつけられる、次なる無理難題とは……?
(木曜20時ごろ更新予定です)




