第101話 イヨちゃんの瞳
台与は走った――。しかし、足元には血が……。「大巫女様――!」
そこにナギサヒコと伊勢の大巫女が現れる。鋭く睨み合う二人……。
「帰りましょう!」ナギサヒコが叫ぶ。しかし、阿蘇の大巫女は――。
台与は息を切らせながら、一人、阿蘇の大巫女の元へと走っていた。
同時に立ち上がった男たちは先に行き、もう見えない。
長老の館と、大巫女の寝所は、さほど離れていないはずなのだが、この時の台与には長く、もどかしく感じられた。
ようやく大巫女の寝所が見えた。
そこには、紀玄人が立ち尽くしていた。
下を向いて、足元をじっと見つめている。
「あっ、台与様……」
紀玄人はそう言って振り返った。
台与はそのそばまで駆け寄り、足を止めた。
息が弾み、肩が震える。
両膝に手をついて、大きく息を吐いた。
その時、足元に誰かの血が滴っているのを見つけた。
(大巫女様――!)
そう思い、顔を上げると、紀玄人は腰をかがめた。
「……阿蘇の大巫女様には、大事ございませぬ」
「大事……では、これは?」
台与が足元を指差して尋ねると、
寝所の中から、すすり泣くようなミズハの声が漏れた。
「いいえ……私の不注意です……」
掖邪狗の声も聞こえた。
「とはいえ、大事に至らず、何よりにござった」
台与は、そうっと寝所の中を覗き込んだ。
◇◇◇
悲鳴が聞こえた、少し前のこと――
ミズハは、阿蘇の大巫女に肩を貸しながら、空を見上げた。
「ほら、大巫女様。とてもいい天気……」
だが、阿蘇の大巫女は黙したまま、足を引きずった。
しばらくして、ようやく一歩を踏み出す。
この調子なので、寝所の扉からは、まだ三歩しか進んでいなかった。
それでも、ミズハは微笑みを向けながら、大巫女を待った。
大巫女はじろりと睨むと、ゆっくりと呟いた。
「あんまり急かせないでおくれ……近づかれると、歩きづらくてね……」
「あ、ごめんなさい。大巫女様……」
ミズハはそうっと、大巫女の脇から肩を抜いた。
しばらくは、そのおぼつかない体に手を添える。
だが、阿蘇の大巫女は眉をしかめて
「ああっ、もう! 邪魔だよっ!」
と叫ぶと、ミズハの手を振り払った。
ミズハは一瞬、目を丸くした。
だが、すぐに気を取り直し、たどたどしく足を出そうとする大巫女をじっと見つめる。
大巫女は、ゆっくりと足を地面に滑らせる。
だが――
大巫女の膝が砕けたように曲がり、そのまま倒れ込んだ。
悪いことに、頭を石に打ち付けたようだ。額に血が滲んでいた。
ミズハは、思わず叫んだ。
◇◇◇
伊声耆は、静かに頷いた。
「……そうでしたか。大変でしたな、ミズハ殿……」
そう言うと、掖邪狗とともに、こちらを振り向いた。
二人とも無言で頷いた。
(良かった……)
台与はようやく、胸を撫で下ろした。
阿蘇の大巫女は、ちょこんと寝台に腰掛けていた。
ミズハは大巫女の頭に、包帯を巻いていた。
それは台与にとって、意外にも初めて見る光景だった。
台与が覚えている限り、大巫女が怪我をしたことはなかった。
呪術で火を使うことはあったが、危険なこともしない。
だからだろうか、誰かから手当を受けている大巫女の姿に目を奪われた。
心の奥底にあった、絶対に壊れるはずがないと思っていたものが、いとも簡単にへし折られてしまったような心持ちになった。
台与は俯き、胸に手を当てた。
※
それから数日後――
伊都国王・ナギサヒコは、寝所の扉を荒々しく突いた。
――ドン! ギィィ……
大きな音に振り向いた阿蘇の大巫女が声を上げた。
「――ナギサ!」
ナギサヒコは戸惑いながらも、その呼びかけに応じた。
「ね(えさまじゃなかった)……大巫女様!」
すると、阿蘇の大巫女は縋るように両手を伸ばす。
ナギサヒコは咄嗟にその手を取った。
阿蘇の大巫女は、か細い声で
「ナギサ……この女が、私をいじめるんだよ……!」
と言うと、上目遣いにミズハをちらりと見やった。
「……え……?」
ナギサヒコは思わず絶句した。
森の宮の館での、伊勢の大巫女の顔が脳裏に浮かんだ。
◇◇◇
その時――
伊勢の大巫女は、森ノ宮の館で待っていた。
「落ち着いて聞いてくださいね、ナギサヒコ王。
阿蘇の大巫女様が、『神に魂を抜かれ』てしまわれました……」
「――なんじゃと?!」
ナギサヒコが思わず叫ぶと、伊勢の大巫女は顔をしかめた。
人差し指を自分の口に当て、首を振る。
(……大声で申すな、という意味か……)
ナギサヒコは、声を潜めて尋ねた。
「……何を申しておるのか、分からぬ……」
だが、伊勢の大巫女は、どこまでも冷たく返した。
「お目にかかれば、分かります」
少しの間、黙って睨み返してから、ナギサヒコは強く頷いた。
「……うむ。では、この目で大巫女様のご様子を見るまでは、何も信じぬ」
「明日にでも、纏向へ参りましょう。ご案内いたします……」
「いや、この足ですぐ参る。……纏向なら、我一人でも行ける」
「では、ご同行いたします」
伊勢の大巫女は、そう言ってから、
思いもかけないことを切り出した。
「こういう事情ですので……『阿蘇の大巫女』の位を、阿蘇の斎女『台与』に移譲させようと思うのですが……」
「――なにいぃぃぃ?!」
ナギサヒコは思わず叫んだ。
拳を握り、それを床に叩きつける。
「――無い!」
「……なぜ? 斎女を昇格させるのは通例です」
「――まだ生きてるっ!……亡くなってはおらぬのよな?」
「はい。ご存命です……ですが……」
「ならば、無い!!」
ナギサヒコは、伊勢の大巫女を鋭く見据えた。
だが、口が震え出す。声を絞り出すのに、しばらく時間を要した。
「伊勢の大巫女……まさかとは思うが、汝……」
伊勢の大巫女がわずかに顔を背けた。そして、こちらを横目で見据える。
「まさか、なんです? 私が阿蘇の大巫女様に危害を加えた、とでも仰るの?」
ナギサヒコは眉をひそめた。
「何という物言いかっ……」
「冷静になれないお気持ちは分かります。でも、神に誓って、それはないわ」
ナギサヒコの全身が、意図せず震え出した。
伊勢の大巫女は正対し、こちらをじっと見つめている。
自然と睨み返す目にも力が込もった。
「とにかく……話は、この目でご容態を確かめてからじゃ……」
◇◇◇
ナギサヒコは、ミズハに顔を向けた。
ミズハは目が合うと、ぶるんぶるんと首を横に振った。
再び視線を戻すと、大巫女は、すがるように手を伸ばした。
「早く帰りたい……阿蘇に帰りたいよ」
「お……大巫女様……」
ナギサヒコは、もう何年も涙を流していなかった。
だが、この時ばかりは、その目に溢れてきた。
「ええ、帰りましょう。一緒に……阿蘇へ……」
そう言うと――
「――だめです!」
その声に振り返ると、伊勢の大巫女が寝所の隅に、静かに佇んでいた。
「大巫女様は、まだ動かせません。ましてや、阿蘇へなど……」
そう言いながら、伊勢の大巫女はゆっくりと歩み寄ってきた。
ナギサヒコは、伊勢の大巫女を睨み据えた。
「うん……?」
そして、ゆっくりと腰を伸ばし、胸を張る。
「……そんな事はあるまい。至って、お元気そうだが?」
伊勢の大巫女は立ち止まった。
目を丸くして、こちらを見つめている。言葉を失っているようだ。
ナギサヒコはすぐに顔を背け、阿蘇の大巫女に優しく語りかけた。
「大巫女様、少し歩いた所に船もございます。すぐにでも帰りましょう」
そう言うと、大巫女は慌てたように背後を振り返り、手を伸ばした。
「じゃあ、イヨちゃんにお別れをしないと……」
ナギサヒコは、大巫女の指先を見やった。
そこには、藁で織られた人形が飾ってあった。
「……どうしたのです、それは?」
大巫女は人形を抱きかかえ、こちらを向き直った。
「良い子なのよ、この子。いつも遊びに来てくれるの……」
ナギサヒコは小さく尋ね返した。
「……連れて……行きますか……?」
「可哀想じゃないの、親と離れ離れにしたら!」
大巫女はそう言うと、差し出したナギサヒコの手を強く払った。
ナギサヒコは黙したまま頷いた。
傍らでは、ミズハが涙を堪え、顔をしかめている。
伊勢の大巫女は、神妙な面持ちでこちらを見つめ、黙したまま頷いた。
※
ルナは寝所の扉の前に立ち、三人の様子を見つめていた。
その三人がこちらに向かって歩き出したので、
ルナは静かに扉を開き、すぐに振り返って、背で支えた。
伊勢の大巫女に続き、ナギサヒコ王、ミズハが敷居をまたぐ。
それを見届けてから、寝所の扉を静かに閉じた。
そして、三人の後を追う。
伊勢の大巫女とナギサヒコ王は横に並んで歩いていた。
その数歩後ろを歩くミズハに追いつくと、ルナは、そこで足並みを揃えた。
すると、隣からミズハの嗚咽が漏れた。
「あの藁人形は、私が作ったのよ……それなのに……」
ルナはミズハの肩にそっと手を置いた。
「お気に召していらっしゃるご様子じゃないの……」
その瞬間、ミズハはルナの手を払った。
「――あんな名前、付けること無いじゃない?!」
「……大巫女様にとって、特別な名前なのよ。きっと……」
そう言うと、ミズハは射抜くような鋭い眼光でこちらを睨んだ。
その目には涙が浮かび、口元には強く噛んだ白い歯が見え隠れしていた。
前を行く大巫女と王は、黙したまま歩を進めていた。
※
その四人と入れ替わりに、台与は阿蘇の大巫女の寝所へ足を踏み入れた。
伊声耆と掖邪狗が、後に続く。
台与は、声を掛けた。
「大巫女様……大巫女様?」
だが、阿蘇の大巫女は、黙したまま身動きをしない。
まるで、そのまま固まってしまったかのようだ。
その腕には、『イヨちゃん』をしっかりと抱えていた。
しばらく経つと、大巫女は目だけを動かし、こちらをじろりと見た。
かと思うと、次は掖邪狗に視線を向け、続いて伊声耆に目を移した。
やがて、重い口を開いた。
「……あんたたちは、誰なんだい?」
※
伊勢の大巫女が宿舎の一室へナギサヒコ王を誘うと、二人は向かい合い、腰を下ろした。
ミズハは、ナギサヒコ王の後ろに控えた。
ルナは、それを見届けてから、最後に伊勢の大巫女の背後に控えた。
伊勢の大巫女が、静かに切り出した。
「……いかがです、ナギサヒコ王。その目でご覧になったでしょう?」
ナギサヒコ王は黙して語らず、顔すら上げない。
伊勢の大巫女は続けた。
「大巫女のお役目を果たすのは、もう無理です。交代するのが賢明かと……」
すると――
「――いいや!」
ナギサヒコ王は床に拳を叩きつけ、弾かれたように立ち上がった。
そして、大巫女を見下ろすと、なおも声を荒げた。
「生きてるじゃないかッ! まだちゃんと!」
今度は、伊勢の大巫女がすっくと立ち上がり、声を荒げた。
「死ぬまでやらせるつもり?!」
「そういう決まりだろうが!」
二人は立ったまま、互いに眼光を鋭くして睨み合った。
ルナは黙したまま、二人を見上げた。
その場には、重たい沈黙が流れた。
やがて、伊勢の大巫女が低く唸った。
「巫女のことは、巫女が決めます。伊都国王は、お口を挟まれませぬよう……」
すると、ナギサヒコ王もさらに低く唸る。
「筑紫のことは、阿蘇と伊都で決めてきた……」
その最後に、大声で叫んだ。
「――伊勢が出過ぎた真似をするでない!」
伊勢の大巫女が足を一歩、前に進めた。
ナギサヒコ王も一歩進む。
二人は歩み寄るも、互いに射抜くような眼光は衰えない。鋭くなる一方だった。
黙したまま、顔もくっつかんばかりまで近寄ると、
二人は、ほぼ同時に声を上げた。
「――分からず屋っ!」
「――この性悪女がっ!」
「ああ、それで結構!」
「大巫女様を元に戻せ!」
「現実を見なさい!」
「ヤマトに都を建てようとしておる奴らが、何を言う?!」
「――阿蘇の大巫女様が仰ったことなのよ?!」
「『神が』仰ったのであろうがっ!」
その言い合いは、いつ果てるとも知れなかった。
ルナは言葉なく、ただ呆然と二人を見つめた。
言葉があったとしても、この場で言う資格は無いのだが、既に腰が抜けている。
その足にも、力は入りそうになかった。
※
台与は、阿蘇の大巫女に微笑みかけた。
だが、口から言葉が出ない。
何を言うべきかも思いつかない。
阿蘇の大巫女は黙したまま、こちらを薄目で見つめている。
大巫女の膝の上に座すイヨちゃんは、ゆらゆらと揺れていた。
台与は思った。
(……やっぱり大巫女様は、大巫女様でなくなってしまったのかしら……)
その時だった――
――ダァーンッ!
扉が大きな音を立てて開いた。
ナギサヒコが戻ってきていた。
阿蘇の大巫女は、顔を向けて呟いた。
「ああ、ナギサ……」
「大巫女様! 戻りましょう! 今すぐ、阿蘇へ!」
台与は思わず腰を浮かせた。
「えっ?! 今は動かしてはなりませぬ……」
だが、ナギサヒコは見向きもせず、足早に大巫女の前まで来ると、手を差し伸べた。
「大巫女様、我がお守りいたします。さあ、参りましょう!」
阿蘇の大巫女は、目を丸くした。
「帰る?……阿蘇へ?」
「はい。阿蘇へ」
ナギサヒコが頷くと、
阿蘇の大巫女は、イヨちゃんを強く抱きしめた。
「……ここが阿蘇だよ?」
「え……」
ナギサヒコが濁った声を漏らした。
阿蘇の大巫女は、にっこりと笑った。
「……一体どうしたんだい、ナギサ?」
その問いに、ナギサヒコは動きを止めたまま、いつまでも答えなかった。
木の実で出来たイヨちゃんのつぶらな瞳が、ナギサヒコを見つめる。
そして時々、小さく体を揺らす。まるで、何かを尋ねるかのように――
少なくとも、台与にはそう見えた。
(大巫女様のことは、だいたい分かるようになった……と思っていたのに……)
台与には、もう届かないように思えた。
今の阿蘇の大巫女が見ている景色。そこに、自分たちが存在しているのか。
記憶の糸が解けていくその先で、大巫女様は、何と戦い、何に安らぎを見出しているのか。
理解したいと願うほど、二人の間にある溝は深く、静かに広がっていくように感じられた。
それすらも、今の台与には測り知ることができなかった。
お読みくださりありがとうございました。
『もしも、時の最高権力者が認知症になったら』……
名作アニメのタイトルを数箇所置き換えただけなのに、
青春とは程遠い、泥沼の国家プロジェクトが大完成。
卑弥呼は何故、
・弟と介添え人の二人としか会わなかったのか?
・親魏倭王でありながら、「以て死す」などと書かれたのか?
魏志倭人伝の記述を正確に再現するためにひねり出された、
歴史学も考古学も辿り着けないであろう真実。(つまり嘘)
これは「都建設計画」と並行して進む、もう一つの国家プロジェクト。
それは――卑弥呼様だって介護されたい。
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初期ヤマト王権は、このトップシークレットを守りきれるのか?
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その結末は……イヨちゃんだけが知っている――
(月曜20時ごろ更新予定です)




