375 懸命
『加減はできないぞ』
『ええ。そんなことは正樹も、俺も望んでいません』
そのやり取りを最後にバンビーノ選手は口を閉ざし、一気に集中力を高めた。
怪我によって試合が中断される前と遜色ない、強烈な威圧感が放たれ始める。
宣言した通り、本気も本気だ。疑いようがない。
この打席は彼の立場からすると、第1回のWBW以来無敗を誇っていたアメリカ代表が初めて敗北を喫するかどうかの瀬戸際に立たされている状況。
かつてなく重い意味を持っている。
こちらの事情を慮っている場合ではない。
そんな余裕があるはずがない。
もし負けてしまったら、国民感情がどうなるか分かったものではないのだから。
間違いなく、バンビーノ選手は己の全てを懸けてこの打席に臨んでいるはずだ。
その覚悟に見合う選手はやはり、野球生命をも賭した正樹以外にいないだろう。
俺の役目はそんな彼を最後まで信じ、彼の球を受け切ることだ。
そうしてこの試合を戦い抜いてこそ、前世で拗らせ過ぎて歪んだ忌避感もようやく自然な形へと昇華できる気がする。
中断明け最初の球。右投げでの1球目であると同時に、1ボール2ストライクからのバンビーノ選手に対する4球目でもある1球。
サイン交換を終えて、正樹が投球動作に入る。
3塁ランナーのセオドア選手に関しては変わらずいないものとして扱う。
彼に気を取られていてはバンビーノ選手に太刀打ちできない。
完全バッターオンリー。ワインドアップ。
ナックルの握りから、151km/hの高速ナックルが投じられる。
【直感】の予測に変動はない。
――ドッ、パァンッ!!
変化量は極めて大きく、キレも凄まじい。
並のバッターであれば十分過ぎる球だ。
この試合以前なら魔球と称しても誰も否定しないに違いない。
とは言え、既に170km/hの高速ナックルにすら適応していたアメリカ代表打線からすると、もはや児戯にも等しい。
今となっては、単独ではストライクゾーンで勝負できるような球ではない。
だから俺はサイン交換の段階から、アウトコースからボールゾーンに大きく外れるようにブレて落ちる球となるようにコースの指示を出していた。
「ボールッ!!」
ワンバウンドで捕球したそれは意図した通り、明らかなボール球となった。
それでもレギュラーシーズンなら空振り三振に切って取れるだけの威力はある。
しかし、バンビーノ選手は静かに見送り、球審のコールが球場に大きく響いた。
これでカウントは2ボール2ストライク。
平行カウントとなった。
「「「「「「「「BOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!」」」」」」」」
2ストライクと追い込まれているのはアチラのはずだが、勝負を避けるなと言わんばかりにバンクノート・パークに怒号のようなブーイングが響く。
真のスターは1球あれば十分。彼らも同じ認識なのだろうが……。
だからこそ、もはや殺気立っていると表現するしかない程だ。
ロシア戦の時とはまた違った形で危うさが感じられる。
警備員の姿が目立つようになってきているが、彼らも現地アメリカ人。
現実に敗北してしまったとして、それでも冷静でいられるかは分からない。
そこはプロなのだからキッチリ仕事をしてくれると信じたいが、そんな風に不安を抱かせるぐらいには球場の雰囲気は張り詰めていた。
その空気に飲まれて、日本代表応援団のほとんどは委縮してしまっている。
それでも、確かに一部から確かに覚えのある声は俺の耳に届いていた。
彼女達も彼女達なりに彼女達のいる場所で戦ってくれている。
その事実が十分に伝わってくるが、その一方で。
正樹は既に敢えて感覚を閉ざし、バンビーノ選手との勝負にのみ集中している。
それこそ俺がかつてない贅沢な時間と感じた11回表の打席と同じように、彼もまた野球選手としての至福の時を味わっているに違いない。
だから俺は正樹の代わりに応援の声を心に刻みながら、それが伝わるようにほんの少しだけ強めにボールを返した。
勿論、爪が割れているのは分かっている。
だが、今の正樹が痛みのある捕り方をすることはない。
そこは投球練習でも問題なかった。
ただ、怪我の影響が全くない訳ではない。
ピッチングの方は投球練習だけでは完全に調整し切れていなかった。
だから俺は、キャッチャーミットを右手で叩いて意図的にバンバンと大きく音を鳴らしてから力を込めて構えを取った。
右投げに切り替えての投球練習では数ミリのズレがあった。
この4球目に至ってもまだ僅かな違和感があった。
超集中状態以上でボディコントロールを緻密に行って尚、それだった。
つまるところ、後1球で万全の状態にしなければならない。
そうでなければ今のバンビーノ選手を抑えることはできない。
その忠告も返球には込めたつもりだ。
正樹はサイン交換に対して神妙に頷く。
気合は十分。同時に冷静に。
最後の1球で全てを爆発させるために力を抑え込んでいる。
たとえ【以心伝心】のスキルがなくとも、互いの意思は全て伝わっている。
我慢と調整の5球目。
正樹が大きく振りかぶる。
通常の握りからの高速シンカー。
真ん中低めから鋭く逃げて落ちる球だ。
しかし――。
――ドッ、パァンッ!!
「ボールッ!!」
「「「「「「「「BOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!」」」」」」」」
さすがに150km/h台の変化球では、もはや超集中状態を遥かに超えた状態にあるバンビーノ選手を打ち取ることはできない。
彼は一瞬だけ反応を見せたが、結局スイングせずにボールを見送った。
打球が上がらないと判断したのだろう。
いずれにしても、これで3ボール2ストライク。フルカウント。
球場を満たすブーイングは際限などないかのように高まっている。
それなりに攻めた球ではあったのだが、そんなことはもう関係ないようだ。
緊張感が高まり過ぎて、論理的な思考で声を上げているようには思えない。
とは言え、仕方のないことでもある。
これ程のシチュエーションはそうそうない。
熱狂に身を委ねるのも観客としての至福の時と言えなくもないだろう。
明後日の方向に暴走さえしなければ。
まあ、いずれにしても。
今の俺達にとって相手方のブーイングはもはや環境音のようなものだ。
そんなことより、意図した通りの球が意図したコースに来たことの方が大事だ。
それに比べれば些事でしかない。
正樹は真っ直ぐに俺を見据えている。
指先の感覚は完璧に整ったと告げるように。
……ギリギリ間に合ったようだ。
そして俺は、腕が千切れるぐらいに振れと正樹にジェスチャーを送った。
全身全霊。魂を込めて。
あるいは、怪我をしてしまうかもしれない。
それでも俺から指示を出す。
たとえ正樹自身は俺がどのような指示を出そうと関係なく、最初から身命を賭した1球を投げるつもりだったとしても。
キャッチャーとして、相手の意思を尊重することを改めて明確に示すように。
ちっぽけでも、俺にとっては勇気を要する行動だった。
対して正樹は満足げに小さく笑った。
それを見て、俺の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
そんな俺達の姿に、バンビーノ選手は何かを感じ取ったらしい。
彼もまた口角を上がる。
さながら至高の勝負を求めるスポーツ馬鹿の集まりのようだ。
その一翼を担っていることにくすぐったさを感じつつ、誇りにも思う。
最後は球種もコースも事前に決めていた通り。
既に撒き餌は済んでいる。
【直感】を利用して咄嗟に配球を変えるなんてことは、この1球だけはしない。
正樹が己の全てを純粋に、余すところなく出し尽くせるように。
それだけのために場を整えた。
さあ、勝負の1球だ。
正樹が全身を限界まで引き絞るように振りかぶる。
握りはナックル。
大きく踏み込んで鞭のように腕をしならせる。
投じられたそれは、右投げでは公式戦初となる170km/h。
正樹の右での自己最速を更新するもの。
アメリカ代表が収集していただろうデータにもないはずだ。
加えて、直前の球から約20km/h差の緩急。
投球練習も含め、右からは投げていなかった抜けナックル。
唸りを上げるようなジャイロボールが高めに来る。
対してバンビーノ選手は一瞬スイングのタイミングが遅れた。
そうなるように仕向けたのだから当然だ。
だが、それを補うように咄嗟にバットを僅かに短く持ってスイングした。
ノーステップ打法と合わさり、タイミングが合う。
スイングスピードは十分。
芯で捉えれば間違いなくフェンスを越えていくだろう。
しかし、アウトコース高めへと浮かび上がった正樹の渾身の1球は、バンビーノ選手の予測を僅かに上回っていた。
――ブォンッ!!
チッ!
それでもバンビーノ選手のバットはボールを掠め、その軌道を変えた。
それによって首の皮一枚繋がるファウルになるはずだった。
一瞬、バンビーノ選手もそう信じた気配があったが……。
――パァンッ!!!
その音が高らかに響く。
ボールは確かに俺のキャッチャーミットに収まっていた。
【直感】が変化の先を教えてくれた。
ファウルチップは空振りに相当する。
つまり3ストライク。空振り三振。
そして、それは――。
「ゲーム(セット)ッ!!!!」
試合の決着を意味していた。
まさしく正樹の人生が宿ったような1球だった。
怪我を押しての続投。
同じように爪を割り、再び肘すら危うくなりかねない渾身のピッチング。
勝利のために我が身を顧みない選択。
そんな無謀な物語は嫌悪していたぐらいだったはずなのに。
その1球から伝わった力強さに、この上なく心を熱くさせられてしまった。
バットが掠ったことでバンビーノ選手の渇望まで伝わってきたような気もする。
だから俺は全てを噛み締めるようにキャッチャーミットを見詰めながら、それ越しに強くボールを握り締めていた。
『何をやってるんだ。早く行ってやれよ』
バンビーノ選手の呆れたような声に顔を上げる。
すると、彼は顎でしゃくるようにしてマウンドを指し示した。
『君達は勝ったんだ。世界最強を誇った俺達に』
その諭すような言葉に、遅れて勝利の実感がやってきた。
勝った。本当に。
あのアメリカ代表に。バンビーノ選手に勝ったのだ。
持て余しそうな感情に心が満たされる。
『喜ぶべき時にしっかり喜ばないのは相手に失礼だぞ』
『……はい!』
『楽しかった。またやろう』
『はい!!!』
生粋の野球小僧の顔で笑って言う彼に頷きながら立ち上がり、恐らく人生最高の1球の余韻に浸っているであろう天を仰ぐ正樹に向かって駆け出す。
そんな俺の背後から。
『……ああ、くそ。こんなに悔しいのは初めてだ』
何よりの勲章となるような【野球の神様】の呟きが聞こえてきたのだった。




