376 歓喜
その瞬間、バンクノート・パークは奇妙な静寂に包み込まれた。
勿論、数字にすると非常に短い時間だったに違いないが……。
どうやら皆、目の前の出来事をすぐさま現実として捉えられなかったらしい。
世界の覇権を争うこのWBWにおいて、史上初めてアメリカ代表に土をつけた。
初めてアメリカ以外の国が優勝国となった。
いずれも今日この時までは単なる夢物語として語られることがほとんどだった。
しかし、それが覆った。現実のものとなった。
驚きの余り、喜びや悔しさよりも戸惑いが先立ってしまうのも無理もない。
結果、俺が確かにファウルチップを掴み取って尚、どちらの陣営も即座にこの結末を咀嚼し切れず、まるで時がとまったような空白が生まれていたのだった。
「正樹!!」
その沈黙のせいもあって、バンビーノ選手に背中を押されるようにしてマウンドに駆け寄った俺の声は球場全体に響き渡った。
勿論、喜びと興奮で声がいつもより大きくなったのも一因としてはある。
いずれにしても。
その呼びかけは正樹にもしっかりと届いたようだった。
「秀治郎」
勝利を噛み締めるように空を見上げていた彼は、一瞬遅れて俺を見て応じる。
そして、右手を掲げた状態で近づいた俺に合わせて同じように右手を上げた。
――パンッ!!
互いの手を叩き合い、弾けるような音が高らかに鳴り響いた。
すると、それを合図に時間が動き出したかのように。
「「「「「「わああああああああああああああっ!!」」」」」」
爆発的な歓声が、日本応援団がいる一角から上がった。
「やったっ! やったよ! 秀治郎君!」
「凄い! 凄いです!!」
「茜! よく頑張ったぞ!!」
「正樹選手、ありがとう!!」
「マイボーイッ!!」
「日本が……日本が世界一だ!!!」
身近にいて支えてくれた義両親や陸玖ちゃん先輩、仲間達は勿論のこととして。
遠くフロリダまで応援に来てくれた日本人達の歓喜の声もハッキリと耳に届く。
それらに背中を押されるようにして。
内野から外野から、そして1塁側ベンチやブルペンから選手も首脳陣もスタッフ達も俺達のいるマウンドに駆け寄ってくる。
ようやく気持ちが追いついてきたのだろうが、皆一様に情緒が狂ってしまったように表情がおかしなことになってしまっている。
まるでWBWで優勝した時の喜び方が分からないと言わんばかりだ。
歴代のアメリカ代表チーム以外、この世の誰も手にしたことのない栄誉。
味わったことのない勝利の美酒と言っていい。
いざこの状況を現実のものとして受け入れると、喜びも興奮も突き抜け過ぎてどう表現すればいいのか混乱してしまうのもよく分かる。
とりあえずハイタッチしたり、肩を組んだり、抱き合ったり。
一応それらしいことはしているものの、変なぎこちなさが邪魔をしてしまっていて偉業の大きさに比べると割と控え目な感じになっていた。
まあ、正樹が爪を負傷していることを考えると、もみくしゃにされて訳が分からなくなってしまうよりはよかったのかもしれない。
何にしても皆、色々とちぐはぐな感じになっていて……。
間違いなく世界の頂点に立ったチームだというのに、どこか滑稽でもあった。
「ははっ」
そんな光景を前に、思わず笑みが零れてしまう。
俺は俺で胸の奥に込み上げてくるものをどう処理すればいいか分からない。
正解が思いつかない。
……いや、そもそも決まった形の正解なんてないのか。
掲げた目標のために10年以上努力を絶やさず。
途中、どこかで妥協してよしとする訳でもなく。
これ以上ないぐらい高い目標を、当初掲げたそのままに叶えることができた。
そんな経験は当然ながら、前世も含めて1度としてない。
加えて、総仕上げとして臨んだこの試合では、1人のスポーツ選手としてかつてない程に幸福な時間を体験させて貰った。
こんなにも恵まれていて許されるのかと思う程だ。
勿論、苦しい瞬間がなかった訳ではない。
この試合の中だけでも打ち込まれた時には絶望すら感じた。
しかし、あの打席で全てが吹き飛んでしまった。
何もかも報われた気がした。
そうした乱高下も含めて初めてのことで、気持ちを持て余してしまっている。
全く、他人のことを言えたものじゃない。
そんな自分自身に一層愉快な気分になって笑みが深くなってしまうが……。
きっとそれでいいのだろう。
心のままに振る舞うのが正しいのだ。
そう思いながら、今にも泣きそうになっている昇二と表情だけはツンとしている正樹が抱擁しているのを感慨深く眺める。
その姿に小学校の頃の2人を幻視する。
遠くまで来たものだと思うし、彼らもよくここまで共に来てくれたと思う。
もう表情が緩んでしまって仕方がない。
「しゅー君、凄く嬉しそう」
と、いつの間にかすぐ傍に来ていたあーちゃんが言った。
俺が嬉しいことが何よりも嬉しいとばかりに彼女もまた微笑みながら。
【以心伝心】で俺の感情は伝わっている。
だが、表情からもそのまま感じ取ることができているに違いない。
「今日の秀治郎君は何だか野球小僧みたいね」
実際、遅れて隣にきた美海ちゃんにまで悪戯っぽく言われてしまうぐらいだ。
相当だろう。
「充実した戦いだったっすから。よく分かるっす」
倉本さんもまた晴れ晴れとした顔で共感を示す。
試合の後半でもそうだったが、純粋に、無邪気に、ただただ遊ぶように野球を楽しんでいた頃を思い出したかのようだ。
「……羨ましいわ。ホントに」
そんな俺達の姿を、まるで眩しいものを目の当たりにしたかのように複雑な表情を浮かべながら見て呟く美海ちゃん。
結果として出なかった訳ではなく、怪我で出場可能性すらなかった。
喜びの場にすら松葉杖を突いていて出遅れてしまった。
それが小さな棘となって心に刺さっているようだ。
「ロシア代表戦でのみなみーの好投がなかったら、こうはいかなかった」
そんな彼女に対し、あーちゃんがフォローを入れる。
それは実際その通りで、WBW初優勝への美海ちゃんの貢献度は極めて高い。
とは言え、彼女もそこは承知の上だろう。
それでも今一フォローが効いていない。
「野球は1人でやるものじゃない」
「皆で掴んだ勝利っすよ」
「……ええ。分かってるわ」
美海ちゃんも喜んでいない訳ではない。
ただ、喜び切れないだけだ。
彼女の気持ちを思うと理解できないでもないが、さすがに勿体ない。
バンビーノ選手ではないが、喜ぶべき時には喜ぶべきだ。
だから別の方向からアプローチすることにする。
「美海ちゃんは頼もしいな」
「え?」
俺の言葉が予想外だったのか、彼女は目を丸くする。
「だって、これぐらいじゃ満足できないってことだろ?」
普通ならWBW準決勝戦で一定以上球数を投げたピッチャーが決勝戦で投げることはないし、そのことで殊更悔しく思うことはないはずだ。
美海ちゃんとの違いは明白。
彼女には実力的に野手としても出場できる余地が十分あった。
にもかかわらず、準決勝戦で怪我をして機会が完全に失われた。
だからこそ、そんな思いが生まれてしまうのだ。
ある意味、贅沢なこととも言える。
「決勝戦に出場した上で勝つ。それが美海ちゃんの次の目標だな」
「次……」
「これで俺達の野球人生が終わる訳じゃない。次も、その次だってあるはずだ」
今回大会が終わったばかりだ。
すぐさま次回大会へと目を向けるのは中々難しいことだろう。
とは言え、俺達は年齢的にまだまだ若手もいいところ。
チャンスは何度もある。
「それは……うん。その通りね」
美海ちゃんはその事実を心に深く刻み込むように目を閉じながら呟いた。
「まあ、今回は割と騙し討ちな感もあるっすからね。手の内を出し尽くした次からが本当の意味での挑戦になるのかもしれないっす」
「間違いないな」
倉本さんに同意して頷く。
事前の用意した隠し玉以上に、試合の中で俺達は成長することができた。
しかし、アメリカ代表だって対策してくる。
把握した上で次は挑戦者として臨んでくる。
あるいは次回の方が優勝の難易度は高くなるかもしれない。
いや、あの野球狂い達のことだ。
確実にそうなるに違いない。
「悔しさがあるのならそれは次の挑戦への糧にして、今は優勝を喜ぼう」
「……そうね。皆の喜びに水を差しちゃ悪いものね!」
空元気か、いくらか心のわだかまりが解消されたのか
美海ちゃんは笑顔を浮かべると、寄りかかるように俺に抱き着いてきた。
咄嗟に受けとめると、シャッターチャンスとばかりにカメラマンが寄ってくる。
「む。それは見過ごせない」
そんな彼女に対抗するように、あーちゃんも反対側から腕を組んできた。
言葉とは裏腹に、美海ちゃんの怪我への配慮も感じられる動きだった。
「折角だからウチも混ざるっす!」
更に倉本さんまで、俺の背後に回って負ぶさるように飛びついてくる。
勿論、カンストしたステータスによって体幹がブレるようなことはないが……。
1人は妻だからいいとしても、村山マダーレッドサフフラワーズ3人娘にまとわりつかれて周りに一体どんな風に見られていることやら。
その上、そんな状態でカメラマンに思いっ切り撮影されているし、長いつき合いの幼馴染組からは呆れたように笑われている。
いきなり滅茶苦茶だ。
正しい喜び方がどうとか、小賢しいことを考えていたのが馬鹿らしい。
ただただ可笑しくなってしまって、俺達も一緒になって皆で笑い合う。
それもまた、悪くない。
「「「「「「わああああああああああああああっ!!」」」」」」
バンクノート・パークに響き渡り続ける日本応援団の歓声も含めて、これこそが俺達なりの歓喜の輪というものなのだろう。
そんなことを思いながら。
俺達は表彰式に移行するまでの猶予の時間いっぱい。
勝利の余韻を堪能したのだった。




