374 怪我の功名
バンクノート・パーク全体にざわめきが徐々に伝播していく中、爪を負傷してしまった正樹につき添って一旦ダグアウトに入る。
『――日本代表。瀬川正樹選手。ベンチ内にて怪我の手当を行っています。しばらくお待ち下さい』
英語と日本語で流れたアナウンスがやけに大きく聞こえるような錯覚を感じながらも、俺はとにかく救護室へと向かった。
その間も、頭の中には色々な考えが浮かび上がってグルグルしていた。
あれ程までに爪が大きく割れている手では、高速ナックルを投げることはおろか子供のような軽いキャッチボールすら難しいだろう。
そんな状態ではアメリカ代表打線に太刀打ちできるはずがない。
ならば、ピッチャー交代か。
とは言え、そうするとしたら誰に代えればいいのか。
既に降板した俺は、当然もう投げることはできない。
磐城君や大松君を登板させるにしても、相手はあのバンビーノ選手だ。
正樹を心配するような素振りを見せてはくれた彼だが、勝負となればこちらの事情を慮って手加減してくれるような性格ではない。
そもそも、それを相手に期待する方がおかしい。
そんなのは野球に対する冒涜もいいところだろう。
11回裏。スコアは5-3。日本代表の2点リード。
2アウトランナー3塁でカウントは1ボール2ストライク。
勝利まで残すところ1ストライクというところまで辿り着いた。
後僅か1ストライク。されど、1ストライク。
真のスーパースターというものは1球あれば十分。
俺ですら9回表2アウト2ストライクと追い込まれたところから起死回生のホームランを放ったのだから、世界最高の野球選手ならば尚のことだ。
追い詰めたからと楽観的に考えられるはずもない。
だからと言って、この状況。
一体どうするべきか。
迷路に陥ったように思考を巡らせていると――。
「正樹選手。どうしますか?」
落山監督の静かな問いかけが耳に届いた。
どうやら視野狭窄に陥っていたらしい。
首脳陣が救護室に来ていたのに気づかなかった。
しかし、どうするもこうするも……。
「投げます。投げさせて下さい」
戸惑う俺を余所に、正樹は応急処置を受けながら即答する。
そんな彼の言葉に唖然とする。
「そ、その怪我で何を言ってるんだ」
爪が割れることは珍しい怪我ではないし、選手生命に直結するものではない。
それでも指先の感覚が狂えば以前のピッチングができなくなる恐れもあり、最悪ピッチャーを続けられなくなる可能性もある決して甘く見てはいけない怪我だ。
爪が割れたまま無理矢理投げたら、神経が傷ついて指先が麻痺する恐れもある。
そもそも痛みでまともに投げられるはずもない。
もっとも、さすがの正樹もそうするつもりはなかったようだ。
「俺にはまだ右腕がある」
彼は左手の応急処置を受けながら右手を軽く掲げる。
「それは……けどな……」
選択肢としては俺の頭の中にもあった。
落山監督の問いもそれを念頭に置いたものだ。
両打ちのバッターとは違い、両投げのピッチャーは通常打席の途中で投げる腕を変えることはできないと野球規則によって定められている。
ただ、より正確に詳しく述べると両投げのルールは次の通りとなる。
ピッチャーはプレートに触れるまでにどちらかの手にグローブをはめて球審、打者、走者に投球する手を明らかにしなければならない。
そしてバッターがアウトになるか出塁するか、盗塁死などで攻守交替するか、代打が送られるか……負傷するまでは、投球する手を変えてはならない。
つまり、怪我をした場合は打席の途中であっても切り替えることができる。
程度にもよるが、ここまで爪が大きくハッキリと割れてしまっていたら、間違いなくそれに相当する負傷として認められるだろう。
当然、怪我が理由でのある種の例外的なスイッチなのだから以後、試合が終わるまで投げる手を再度切り替えることはできなくなるが……。
ともあれ、もう左で投げないのであれば続投は不可能ではない。
しかし、既にレギュラーシーズンで右の復帰登板を果たしているとは言え、2度の手術の影響は心身共に残っている。
【衰え知らず】によってステータスの上では左と同等の力を出せるにしても、下手をすれば1球で再び手術を要するレベルの大怪我をしてしまう可能性だってある。
「後1ストライクだ。十分やれる。グローブ越しなら捕球も問題ない」
「それで終わる保証はないんだぞ。もし試合が続いたら――」
「その時は勝つまで投げ続けるだけだ」
「……右手が使えなくなるかもしれないぞ」
「左手は爪が治れば使える。たとえ両投げがこの先できなくなったとしても、この試合で投げ続けられるなら俺は構わない」
俺の忠告に対し、キッパリと言い切る正樹。
強烈な意思を見せつける彼の姿に、俺は思わず圧倒されて黙り込んでしまった。
そんな俺の態度に彼は苛立ったように眉をひそめた。
「……お前は俺の保護者か!? 違うだろ!?」
そして声を荒げて問い質してくる正樹。
「俺達は、共にアメリカを打ち倒す仲間のはずだ!!」
更に彼は俺の目を真っ直ぐに見据えながら続けた。
その内容に誤っている部分は一切ない。
これまで共に打倒アメリカのために歩んできた。
長らく導く立場にあったことも間違いではないが……。
ここに至っては対等な仲間のつもりだ。
ただ、どこか論点をズラされている感もなくはなかったが、そこを考えるのはそれこそ無粋というものだろう。
「秀治郎選手、正樹選手の意思を尊重しましょう。出場するかしないか。実力不足が理由ではないのなら、それは最終的に本人がプロとして判断すべきことです」
落山監督の諭すような言葉に目を瞑る。
1人の人間、1人のプロ野球選手としての判断を重んじる。
そうすべきだとは俺もこの試合の中で結論づけたつもりでいたが、実際に怪我を目の当たりにして少し揺らいでしまったようだ。
怪我の経験は間違いなく正樹の方が上なのだ。
【怪我しない】俺は彼の判断を信じるべきなのだろう。
野球に限ったことではなく人生において誰かを信頼する勇気は必要なのだから。
何より、正樹自身も勇気と無謀をはき違えるような人間ではない。
「……分かりました」
だから俺は落山監督に頷いてから改めて正樹と向き直った。
彼の判断に従うと決めた。
それはそれとして、俺の迷いのせいで彼の気持ちをいくらか乱してしまった。
まずはキャッチャーとしてフォローを入れておかなければ。
「けど、正樹。今の俺は女房役だ。心配ぐらいはさせてくれ。お前が使いものにならなくなって困るのはお前自身だけじゃなく、チームもなんだからな」
「……ああ」
声を荒げたことに若干気まずさを感じてか、どこか雑に応じる正樹。
いずれにしても、彼の決意は僅かたりとも揺らいでいない。
窮地にありながら、むしろ力が漲っているように見える。
余りにも鮮烈で心を揺さぶられる。
怪我なんてしない方がいいに決まっている。
それは間違いない。
しかし、それすらも糧にして自らの力に変えることができる者も中にはいる。
追い詰められてこそ輝く者もいる。
その事実だけは認めなければならない。
改めてそう強く感じさせられた。
「そこまで言ったんだから、最後まで無事投げ切ってくれ。その上で、バンビーノ選手を抑えてお前が世界一の胴上げ投手になるんだ」
「当たり前だ」
互いに右手を握り、拳をぶつけ合う。
腐れ縁の悪友にするように不敵な笑みを交わす。
正樹の続投で日本代表としては合意を得た。
とは言え、まずは右手の使用を公的に認めて貰わなければならない。
爪の応急処置と並行して大会医療班のチェックを受けて、審判に許可を求める。
そして……。
負傷に伴った打席の途中での投げる手のスイッチ。
それと治療明けの投球練習もまた認められた。
あの負傷具合であれば、当然と言えば当然のことだ。
これで切り札を全て切り、奥の手の更に奥にまで手を伸ばした。
もはや、これ以上はない。
今ある手札で決着まで戦い抜かなければならない。
「正樹。投球練習含めてフルカウントまで撒き餌にするぞ」
「……分かった。本命の1球に全てを込める」
応急処置を終えたところで方針を共有し、再びグラウンドに向かう。
正樹は堂々とマウンドに立ち、俺はキャッチャースボックスに入る。
「「「「わああああああああああああっ!!」」」」
「正樹君、頑張れっ!!」
「後1球!!!」
日本代表応援団は彼の姿に盛り上がりを見せる。
「「「「「「「「BOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!」」」」」」」」
アメリカ人観客達はある種の時間稼ぎと受け取ったのか、この試合1番のブーイングを俺達に浴びせてくる。
しかし、ここに至ってはアチラの余裕のなさしか感じられない。
もはや逆効果だ。
正樹は左手にグローブをはめ、右手でボールを握る。
ナックルの握りだ。
そして投球練習を始める。
『……それは、さすがに無理があるだろう』
少し離れたところからバンビーノ選手が呟く。
投じられたのは高速ナックル。
ただし、球速は150km/h程度。
常識的な感覚からすると十分過ぎる程速いが、美海ちゃん相当だ。
既に左からの170km/hの高速ナックルを目にして、バットに当てているバンビーノ選手からすると劣化した球にしかならない。
『引導を渡すのも、ライバルとしての役目か』
複雑な気持ちを声に滲ませながらバンビーノ選手は正樹の投球練習を見守る。
数球投げた中身は高速ナックル。
普通の握りからのフォーシーム。
スイーパー。スプリットなど。
いずれも150km/hそこそこ。
その事実にバンクノート・パークのスタンドも気づき始めているようで、少しずつ両陣営の反応が変わっていく。
ブーイングは控え目に、どこか健闘を称えるように。
落胆を覆い隠しながら、無事に最後まで投げ切るのを祈るように。
そんな中で投球練習が終わり……。
「プレイッ!!」
2アウトランナー3塁。1ボール2ストライクの状況から。
世界最高の野球選手にして【野球の神様】たるバンビーノ選手との勝負は、左バッター対右ピッチャーの形で再開されたのだった。




