373 禍福
『シュウジロウ選手。野球を楽しむことはできたかい?』
左のバッターボックスに足を踏み入れたバンビーノ選手は、こちらに顔を向けることなく淡々とバッティングのルーティーンを行いながらそう尋ねてきた。
延長戦の真っ只中。11回裏2アウトランナー3塁。スコアは5-3。
2点のリードを許して後がないが、ホームランを打てば同点となる。
そんな場面だけに、彼も色々と思うところはあるはずだが……。
キャッチャースボックスから見える横顔にも声色にも他意は感じられない。
純粋な問いかけであることが分かる。
だから俺は、少し躊躇いがちになりながらも『はい』と応じた。
即答することができなかった理由は、やはり状況が状況だからというのもある。
しかし、何よりも。
試合開始前にバンビーノ選手に『もっと野球を楽しんでいい』と諭された時にうまく返すことができなかったからというのが大きかった。
手のひら返しのような感じがして少々恥ずかしい。
もっとも、口から出た肯定の言葉は嘘や誤魔化しではない。
紛うことなき本心だった。
このWBW決勝戦の結末がどのような形になったとしても、きっと俺も皆と同じように、またあの瞬間を求めて野球を続けていくことになるのだろう。
まるで本物のスポーツマンであるかのように。
そんな自分の姿にすぐ慣れることはできないと思う。
だが、決して嫌な感覚ではない。
前世とは違い、少しは自分自身を好きになることができるような気がしていた。
『――それはよかった』
バンビーノ選手は嘘偽りない口調でどこか安堵したように呟く。
それから彼は口角を鋭く上げて構えに力を込めた。
『ここから逆転負けしても、その気持ちは大事にした方がいい』
そして人生を導く先達のような雰囲気から打って変わり、野球小僧のような楽しげな表情と共にどこか意地の悪い口調でそんなことを言い放つ。
これで一層戦いに集中することができると言わんばかりに。
同時に強烈な威圧感がその体躯から一気に溢れ出てくる。
そんな感覚を俺は抱かされた。
勿論、この期に及んでそれに怯むようなことはない。
だから『いいえ』と即座に否定して言葉を続ける。
『ここで、貴方を打ち取って試合を終わらせます。勝ってみせます!』
『……いい気合いだ。それでこそ戦い甲斐がある』
俺の返答に気をよくしたように、バンビーノ選手の全身に更に力が漲っていく。
心身共に充実している。
9回裏の勝負に輪をかけて危険な気配がする。
『マサキ選手という素晴らしいピッチャーも含め、君達は俺が対峙した過去最高のバッテリーと言っていい。この1打席、楽しませて貰うよ』
その口振りからすると、正樹は最初から資格十分だったのだろう。
当然と言えば当然だ。
今日この試合まで歪な形で野球と向き合い続けてきた俺とは違う。
正樹程、野球に心身を捧げた男は全ての野球選手を見渡してもそうはいない。
この最終決戦の場でマウンドを降りて尚、彼とバッテリーを組んでバンビーノ選手に挑んでいる事実は誇らしいことだし、これもまた幸せに思うべきことだ。
『さあ、やろうか』
『ええ』
「プレイッ!!」
そんな俺達のやり取りが終わるのを待っていたかのように、球審がこの試合の勝敗とWBW優勝のかかった打席の始まりを告げる。
「「「「「「「「WOOOOOOOOOOOOOOO!!!」」」」」」」」
「「「「わあああああああああっ!!!」」」」
バンクノート・パークの熱狂も最高潮だ。
ランナーは3塁にいるが、もはや考えなくていい。
完全バッターオンリー。
ひたすら目の前にいるバンビーノ選手を抑えることだけを考える。
その初球。
正樹が大きく振りかぶる。
セットポジションではなく、ワインドアップから高速ナックルを……投球動作の途中でキャッチャーミットの角度を変えてカーブに切り替えるように指示する。
続けて、その変化量とコースを微調整する細かな動作を正樹に見せた。
――パァンッ!!
「ボールッ!!」
最終的な指定通り。アウトコースに大きく外れる緩い球となった。
投球動作のさ中に正樹はしっかりとこちらの指示を把握している。
一方のバンビーノ選手はカーブの軌道をじっくり確認するように見送っている。
彼らは共に高次元の集中にある。
引き延ばされた時間の中で、自らの肉体を高度に制御している。
1秒にも満たない合間の出来事だけに、その凄まじさは傍目には分からない。
けれども、確かに世界最高峰の戦いが今ここで繰り広げられている。
そのことを俺は自らもまた超集中状態に入り、ハッキリと認識していた。
と言うより、それができないとそもそも足手纏いになってしまう訳だが……。
キャッチャーとして、これ以上ない程の幸福な時間のようにも感じる。
この試合、ピッチャーとしてもそれを実感する瞬間はあった。
バッターとしてもかけ替えのない喜びを得た。
それだけでも十分贅沢だったのに、その上キャッチャーとしてまで。
僅か1試合の中でこんな体験ができた人間は後にも先にも俺だけだろう。
とは言え、今は戦いのさ中。
「「「「「「「「「「BOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!」」」」」」」」」」
雷鳴の如くバンクノート・パークに鳴り響いたブーイングに顔を上げる。
たった1球のボール球だったが、外に大きく逸れていく球だったことでバンビーノ選手との勝負を避けようとしていると思われたのかもしれない。
この状況でそんなことは許さないとばかりに観客達は声を張り上げている。
まあ、確かに選択肢として敬遠はなしではない。
それもまた1つの戦術ではある。
とは言え、5番バッターのハンマー・A・ルイス選手が持つ【撃鉄】は【打撃の神様】と同じくバッティングに偏った【特殊生得スキル】だ。
単純にスキルだけで比較するなら、バッティングにおいては今3塁上にいるセオドア選手同様、ハンマー選手の方が危険という見方もできなくはない。
勿論、それはプレイヤースキルでいくらでも覆すことができる差だが……。
それよりも何よりも正樹のモチベーションだ。
敬遠気味にズルズルとボールが嵩む形でフォアボールにしてしまっては、その先のピッチングに悪影響を及ぼしかねない。
この回先頭バッターのキッド選手にも何度かあったが、バンビーノ選手に対する初球もストライクゾーンでの勝負を無理矢理コースを変えることで回避させた。
そのやり方はある種、バッテリーの敗北を認めるようなもの。
正樹も自制してはいるが、フラストレーションがいくらか溜まっている。
幼馴染として僅かな動作からそれが見て取れた。
やはりバンビーノ選手には真っ向からぶつかっていくべきだろう。
だから俺は、わざとらしい程に腕をしっかり振れとジェスチャーで指示した。
2球目。高速ナックルをストライクゾーンに思い切って投じる。
バンビーノ選手がバットを振り抜く。
――カキンッ!!
「「「「「「「「WOOOOOOOOOOOOOOOO!!!」」」」」」」」
アメリカ人観客の歓声。それと日本代表応援団の悲鳴が入り混じる。
打球は芯で捉えられ、反対方向にもかかわらずグングンと伸びていく。
レフトのポール際。
飛距離は圧倒的だったが……。
初球のナックルの握りから投じた変化球。
特に高速ナックルに比べれば遥かに遅いカーブを見せた効果があったのだろう。
バンビーノ選手のスイングはほんの僅かに遅れたようだ。
打球はポールを巻くことはなく、ファウル側を通過してスタンドに入る。
「ファウルッ!!」
塁審のコールと動作に悔しがる声。安堵する声。
どちらがどちらのものかは言うまでもない。
紙一重の結果だった。
しかし、このレベルの戦いでギリギリの勝負を恐れている者に勝利はない。
もう1度、力の限り投げろと正樹にジェスチャーで伝える。
彼は当たり前だとばかりに深く頷く。
カウント1ボール1ストライクからの3球目。
アウトコース低めへのバックドアとなるシュート。
その球はどうしてか【直感】が早い段階で結果を示していた。
バンビーノ選手はスイングするが、打球は前に飛ばない。
そんなビジョンが脳裏に浮かび……。
――カンッ!!
「ファウル!!」
結果は正にその通り。
予測することはできていたが、その事実に思わず驚きを抱く。
普段の正樹の球と変化量もその鋭さも全く違っていた。
かつてない程に極まった1球だった。
結果、バンビーノ選手は芯を外されて1塁側ベンチの方に転がるファウル。
これで1ボール2ストライク。
世界最高の野球選手を再び追い込むことができた。
このレベルの球を後1球、投げることができれば大きく勝利に近づける。
史上初のWBW優勝を決めることができる。
『……これは、よろしくないな』
そんな期待感に溢れた俺に冷や水を浴びせかけるように。
バンビーノ選手が極めて深刻そうな声を出した。
心配するような視線がマウンドに向けられている。
俺はそんな彼の様子にハッとして正樹を見た。
【直感】はこのスキルが作用するタイムスケールの範囲で目に見えて何かしら事態が動かない限り、何も知らせてはくれない。
言い訳に過ぎないが、だから彼の異変に気づくのが少し遅れてしまった。
「――まさかっ!?」
慌てて球審にタイムを要求し、急いでマウンドに駆け寄る。
正樹は咄嗟に左手を隠そうとするが、指先に明らかに血が見て取れた。
「爪が割れたのか?」
「………………ああ」
「と、とにかく治療を」
すぐさまベンチに合図を送ってメディカルスタッフを呼ぶ。
彼らが来るまでの間に正樹の指先を盗み見る。
中指の爪がかなり深く、縦に真っ二つに割れて血が流れ出ていた。
痛々しいその光景に胸がザワつく。
確かに怪我を過剰に恐れることはしないと決めた。
しかし、実際に怪我をしてしまったらまた話は別だ。
この土壇場での正樹の負傷は、俺のトラウマを呼び起こすには十分だった。




