369 至福の時
「「「「「「「「「WOOOOOOOOOOOOOO!!!」」」」」」」」」
交代を告げるアナウンス、そしてライトからマウンドに駆け寄ってボールを受け取ったバンビーノ選手の姿にアメリカ人観客達が声を張り上げる。
歓声ではない。
必死さを伴った緊張感のある声援。
怒号のような激しさを湛えたそれは、劣勢に立たされつつあるこの状況をどうにか打ち破って欲しいという願いそのものだ。
1アウトランナー1塁2塁。
迎えるバッターは前の打席、モー選手からホームランを放っている俺。
スタンドの彼らは過去類を見ない程の危機感を抱いていることだろう。
1点ビハインドのまま序盤戦、中盤戦を終えた時ですらきっと心のどこかではまだ負けを現実的なものとして捉えていなかったはずだから。
実際、彼らの期待通りアメリカ代表は7回の裏に3点取って逆転し、2点リードした状況で絶対的な守護神であるモー選手を登板させて9回表まで順当に来た。
のみならず、2アウトランナーなし。2ボール2ストライク。
残すところ後1球というところまで至っていた。
かつてなく苦しんだのも事実ではあるが、それでも勝ちを確信していたはずだ。
にもかかわらず、世界最高のクローザーたるモー選手が土壇場でホームランを打たれて3-3の同点に追いつかれてしまった。
挙句、9回の裏でサヨナラ勝ちすることもできず延長戦に突入してしまった。
そのまま10回の攻防を越えて11回にまで至ってしまっている。
更に今、ヒットとフォアボールでピンチを招いてしまった。
絶対王者たるアメリカが敗北するかもしれないという恐怖が限界まで高まり、登板するバンビーノ選手にそれを払拭して欲しいと願っているのだ。
一方、その思いを受けたアメリカ代表選手達。
彼らもまた、国際大会において敗北する未来が人生で初めて現実的な可能性として脳裏を過ぎっていることは確かだろう。
強大な挑戦者の登場に喜んでいるかのような雰囲気は消え去っている。
だが、それでも。
その表情の喜色は消えていない。
口元には笑みが浮かんでいる。
ただ、その眼光の鋭さは増していて、恐ろしいまでの威圧感を放っている。
俺達を遂に同等の敵と認め、この試合の1秒1秒に没頭しているのだろう。
――パァンッ!!
そんな中でバンビーノ選手の投球練習が始まる。
ネクストバッターズサークルから改めて彼のステータスを確認しておく。
以前見た時と……特に変化はない。
Max172km/hのフォーシームに加えてカーブ、チェンジアップ、スイーパー、スプリット、高速シンカーなど多彩で高度な変化球を持つサウスポー。
【野球の神様】の補正を以ってしても【経験ポイント】の取得速度と時間経過に伴う能力低下が釣り合わず、投手能力の方はカンストまでは行っていない。
それでもポジティブなスキルは全て網羅しているし、何よりそれこそ【野球の神様】の補正もあって球速以外は他の投手専門の選手と何ら遜色ないレベルだ。
纏めるなら、超ハイレベルな万能ピッチャーというところか。
だが、多段変化や長身サウスポーのような目立った特色はなく、サイクロン選手やジャイアント選手に比べて若干地味な印象となるのは否めない。
それでもバンビーノ選手に交代した理由は。
モー選手の球数がそれなりに嵩んできたことと、彼を捉えつつあった日本代表打線の目先を変えるためというのもあるだろう。
アメリカ野球の象徴的な選手をマウンドに上げることによって、チーム全体を鼓舞しようという意図もあるに違いないが……。
世界最高の選手という名声のみを頼みにしている訳ではないはずだ。
単純なスペックだけでピッチングを測れないことは既に証明されている。
ぶっ飛んだ特徴がないと思われたモー選手こそが最も特異なピッチャーだった。
決して印象だけでバンビーノ選手を侮ることなどできない。
いずれにしても、この延長戦の決定機と言える場面で。
世界最高の選手と名高いバンビーノ選手がピッチャーとしてマウンドに立ち、俺がバッターとして彼に相対することとなった。
何とも運命的で象徴的な状況だ。
この打席の結果がそのまま試合の行く末を決める。
その感覚は間違ってはいないだろう。
やがてバンビーノ選手の投球練習が終わり――。
『4番、キャッチャー、背番号19、シュウジロウ・ノムラ!』
アナウンスが勝負の始まりを告げる。
と同時に、スタンドの観客達の声が爆発した。
「「「「「「「「BOOOOOOOOOOOOOOO!!!」」」」」」」」
「「「「「「わあああああああああっ!!」」」」」」
大きなブーイングとそれに対抗するような歓声。
人数は圧倒的に少ないが、勢いはもはや負けていない。
そんな中からかき消されることなく。
「秀治郎、頑張れ!!!」
「秀治郎君なら打てるよ!!!」
「頑張って!!!」
「打って!! 下さい!!!」
聞き覚えのある声援も確かに耳に届く。
普段を知っているだけに、精一杯声を張り上げてくれていることがよく分かる。
両親に義理の両親。仲間達。
皆ともこの瞬間を、同じ空間で共有している。
その事実を改めて思い、気持ちが一層奮い立つ。
昂り過ぎないように落ち着かせる方が大変なぐらいだ。
そして、深く呼吸をして気持ちを整えながら右のバッターボックスに入る。
「プレイ!」
球審がコールをして試合再開。
そこから一瞬間が空く。
恐らく観客達には気づかれない程度の短い時間。
時がとまったような感覚を抱く。
バンビーノ選手と視線が合う。
互いに笑みを浮かべているのが分かる。
世界の趨勢すら決める決勝戦という最高の舞台。
同点の、ひりつくようなシチュエーションでの勝負。
対峙しているのは尊敬すべき世界最高の野球選手。
バンビーノ選手視点でも史上最大の敵。
【以心伝心】がなくとも相手の気持ちが読み取ることができる。
前世では終ぞ抱くことのなかった、この日のために生きてきたかのような感覚。
バンビーノ選手の笑みが深まる。
相応しい境地に至ったと認めるかのように。
そして彼は投球を開始した。
「な――」
次の瞬間、思わず驚愕が集中を乱す。
【直感】が示したのは大きく無作為にブレる球。
「ストライクワンッ!!」
「「「「「「「「WOOOOOOOOOOOOOOO!!」」」」」」」」
1球のストライクにスタンドが大いに沸き上がる。
雷鳴が轟いているかのようだ。
心の弱い選手なら萎縮してしまいかねない。
しかし、俺にはむしろそんなことを気にしている余裕はなかった。
172km/hの高速ナックル。
それっぽいだけの球ではない。
無回転で揺れが大きい完璧な変化球だった。
さっき確認した時には確かにステータスになかったはずなのに。
彼のステータスをもう1度見る。
すると、そこにはナックルの表記が発生していた。
それは今この瞬間、ぶっつけ本番で投げて会得したことを意味していた。
解釈違い。
一瞬そんな言葉が思い浮かび、そんな自分を戒める。
確かに前世の野球の神様と謳われた選手の持ち球にはない。
だが、そんな彼の魂を持つのだからバンビーノ選手がナックルを投げることなんてあり得ない、と思い込むのは違うだろう。
同一視し過ぎだ。
現に前世のかの選手の持ち球になかったスプリットだのスイーパーだの高速シンカーだのを、バンビーノ選手は当たり前のように投げている。
まあ、ある種の冗談として野球の神様の生まれ変わりとも称された日本人二刀流大リーガーは投げていたけれども……。
いずれにしても、バンビーノ選手は今を生きている。
野球を極めることに心血を注いでいる。
高速ナックルに関しては、ロシア戦での美海ちゃんやこの試合における正樹を目の当たりにして学んだに違いない。見取り稽古のようにして。
彼は常に新たな武器を模索し続け、この瞬間も進化しているのだ。
そんな目の前の事実は理解しながらも。
即興で完璧な高速ナックルを投げ込んでくるバンビーノ選手とそれを当たり前のように捕球するジェネラル選手に戦慄する。
もっとも。
高速ナックルに頼るつもりであれば【直感】で対応することができる。
打つのは難しいことではない。
大丈夫だ。
次に投げたら狙い打つ。
そんな俺の思考を嘲笑うかのように。
「くっ」
2球目。球種はスプリット。
インコース低め。ナックルではなかったが、これも狙うことはできる。
そう思った次の瞬間。
【直感】の予測がブレた。
まるでモー選手のピッチングのように。
スプリット。パワーカーブ。チェンジアップ。
更には、ほぼ落ちない直球に近い球を含めたスプリットの多段変化。
コースも千変万化。
無数の可能性が頭に叩きつけられる。
「ストライクツーッ!!」
「「「「「「「「WOOOOOOOOOOOOOOO!!」」」」」」」」
今の状態で無理に打ちに行ったら引っかけてゲッツーに終わる。
そう判断して俺は再び見送った。
ノーボール2ストライク。
アメリカ人観客の声援はもはや絶叫の域に達している。
3球目。初期の予測はインハイへのスイーパー。
プレートの左端から投球動作を開始し……。
そこでまた予測がブレる。
サイドスロー。スリークォーター。オーバースローの3択が見えた。
そこからスリークォーターに確定。
続いてアウトコースへのバックドアとクロスファイヤー。
高低差も含めて無数の選択肢を突きつけられる。
そしてリリース。
確定したのは外からインコース低めに鋭く曲がるスイーパー。
ストライクゾーンだ。
――カンッ!!
窮屈なスイングながら何とかバットに当ててファウル。
カウントは変わらずノーボール2ストライク。
「……ははっ」
自然と笑いが込み上げてくる。
1ストライクを取るためだけに高速ナックルを瞬時に会得して投じ。
モー選手のようにバッターの構えや視線の変化から狙い球を読み。
サイクロン選手のように多段変化を駆使し。
ジャイアント選手を思わせるようなサイドスローすらも内包した、俺の千手観音投法を高い完成度でトレースしてきた。
さすがに両投げやアンダースローは厳しそうではあるが、ほぼ全部乗せだ。
僅か球速3km/hの差などないようなもの。
世界最高の選手は、投打共に最強だと言っても過言じゃない。
「「「「「「「「WOOOOOOOOOOOOOOO!!」」」」」」」」
「「「「「「わあああああああああっ!!」」」」」」
「秀治郎、負けるな!!」
「お願い! 打って!!」
「頑張って!!!」
球場全体を見渡す。
スタンドを埋め尽くした観客達。
「秀治郎君!!!」
「秀治郎!!」
「しゅー君!!」
そしてベンチの仲間達。
皆の声が聞こえる。
マウンドに立つ世界最高の選手は混じりけのない純粋な笑みを向けてくる。
そのバックは世界最強のアメリカ代表選手が守っている。
全員が共有している時間。尊い空間の中心に立っている。
至福の時だ。
そんな中で敢えて少し目を閉じて全てを遮断する。
目の前にいる彼だけを意識する。
多くの思いが交錯している場所で、しかし、1対1の世界を作り出す。
次の1球。ただそれだけに全身全霊を集中させる。
何て……何て贅沢なのだろうと思う。
野球というものが日本でこれ程受け入れられたのは、バッターとピッチャーの勝負に日本人が是とした武士道精神を見出したからなのかもしれない。
その積み重ねがチームスポーツとして勝敗を分け、見る者を熱狂させる。
それを通じて俺はスポーツの意義と人生の喜びを知ることができた。
彼らと戦わなければ本当の意味で理解することはなかっただろう。
……ありがとう。アメリカ代表。
ありがとう。野球の神様。
ありがとう。ベースボール。
――カキンッ!!




