閑話76 僕達がやらないと(昇二視点)
秀治郎が純粋な力の差によって追い詰められているところを見たのは、僕のこれまでの人生において間違いなく初めてのことだった。
それは僕の認識を大きく変えるに足る衝撃的な出来事だった。
兆候は確かにあった。
2巡目の時点で既に強い打球が後ろに飛ぶようになってきていて、少しずつ守備にどうにか助けられていると見なさざるを得ない場面が増えてきていた。
それでも6回無失点で来ていた事実。
何よりも僕自身が盲目になってしまっていたがために、たとえアメリカ代表が相手でも何だかんだうまく行くんじゃないかという勘違いが心の奥底にあった。
常に僕達を導くように前を歩いてきた秀治郎の背を見て、彼がいつの間にか無敵の存在であるかのように錯覚していたのかもしれない。
しかし、この7回裏。アメリカ代表の攻撃において。
5連打と死球で6連続出塁を許し、その過程で秀治郎は3失点してしまった。
更にはバンビーノ選手に2ランホームランに打たれて愕然としている姿。
そこから打開策も特になく、ただ闇雲に投げ込むことしかできずにいる姿。
追い込まれた末に破れかぶれのナックルを投じ、相手にぶつけて呆然とする姿。
どれを取っても僕が頭の中で勝手に作り上げた秀治郎像からは程遠いもので、秀治郎に対するある種の妄信は完全に打ち砕かれてしまった。
そうして1アウト満塁。
8番のラージャ選手の打順に至った頃には、僕は絶望的な気分になっていた。
もし彼女がタイムを取らずに勝負をして、打球が僕の方に飛んできていたら。
好守どころか無難な守備もままならず、拙守で足を引っ張っていたに違いない。
「…………そんなことじゃ、ダメだ」
自分に言い聞かせるように口の中で呟く。
結局のところ、僕は小学校の頃から本質的な部分で変わってなかったんだろう。
秀治郎に引っ張り上げられて、どうにかここまで連れてきて貰っただけ。
自分の力で成し遂げたことがほとんどない。
それに近い認識が心の片隅には未だに残っていて、秀治郎という日本にとっても大き過ぎる存在に無意識の内に寄りかかってしまっていたんだと思う。
そうするのが最善だと思い込んでいれば楽だったから。
でも、もう。それではいけないのだろう。
「……彼女のように、本当の意味で秀治郎の支えにならないと」
かつては彼女こそ最も秀治郎に依存している人間だと思っていた。
小学校の頃は特に、秀治郎にくっついているだけのおまけのように感じていた。
けれども、長いつき合いの中で。
要所要所で秀治郎の精神的な助けとなっているのを目にして印象が変わった。
ただ、そこまでは理想的ではあれ、私生活のパートナーという認識が強かった。
わざわざ僕自身と比較してまで引け目を感じるような対象ではなかった。
それが覆ったのは先程の場面。
タイムを取って秀治郎を必死の形相で叱咤していた姿はこれまでのものとは意味合いが大きく異なっていて、それこそ引け目を感じてしまった。
野球選手として、長年の仲間としての引け目だ。
彼女に秀治郎に対する依存心が一切ないと言いたい訳じゃない。
ある程度は依存しながらも、どうにかして並び立とうとしてきたこと。
誰に言われるでもなく、自らの意思でそれを選んだこと。
それがこの試合の正にターニングポイントと言える状況で実り、秀治郎を立ち直らせて1アウト満塁というピンチを切り抜けることに成功した。
それこそ配偶者としてだけではなく、野球選手としても共に戦った結果だろう。
秀治郎にとって何よりの救いになったはずだ。
あるいは彼女は誰よりも秀治郎の傍にいたからこそ、その心の内にある弱さ、脆さのようなものをどこかで理解していたのかもしれない。
だからこそ自分にできることを模索し続けていたのだ。
とは言え――。
「昇二。頼む」
「秀治郎……」
7回表の日本代表の攻撃は秀治郎のところで終わっている。
だから、このイニングは5番バッターの僕からの打順。
にもかかわらず、残る猶予はアウト6つ。
スコアは現在1-3。2点ビハインド。
つまるところ3人以上出塁しないと秀治郎までは回らないし、秀治郎に回ろうと回るまいと2点以上取ることができなければその時点で試合終了だ。
日本代表の敗北が決まってしまう。
確かに彼女の力で秀治郎は立ち直った。
土壇場で最高球速を更新し、アメリカ代表打線を2者連続三振に切って取った。
それでも、もう秀治郎1人の力ではどうにもならない。
野球という競技はそもそも1人では成り立たないものではあるけれども。
試合の状況から論理的にもそうなってしまった。
秀治郎以外の選手が、僕達がやらなければならない。
「お願い」
「……うん」
彼女にも再び頭を下げられる。
前の打席の時も彼女は僕達に同じことをした。
ただ、その重さはその時の比じゃない。
勿論、あの時が軽かった訳じゃない。
受け取る側の僕の気持ちが、意思が全く違っているのだ。
彼女のように僕も、本当の意味で秀治郎の力にならなければ。
そのためには、まず秀治郎に頼る気持ちを全て捨て去る必要がある。
たとえ秀治郎がいなかったとしても。
誰も味方がおらず、僕1人しかいなかったとしても。
決して臆することなく真正面からアメリカ代表に挑みかかることができるぐらいの気概がなければ、秀治郎と並び立つ資格はない。
そう強く思いながら僕は右のバッターボックスに立った。
対峙するピッチャーは6回と7回から変わらず。
世界最強のサウスポーたるジャイアント選手がマウンドから僕を見据えている。
とにかく大きい。威圧感がある。
日本代表打線はここまで打者6人が彼に挑み、無安打に抑えられている。
その最後の1人が秀治郎であり、僕自身は初対戦だ。
正に巨人と呼ぶに相応しい体躯。
その長い手足を十二分に利用した、サウスポーのサイドハンド。
Max175km/hを誇る出力。
立体的なストライクゾーンの端を掠める制球力。
プレート端から繰り出される角度のついたクロスファイヤー。
その威力を更に増す高速スライダー。ツーシーム。スプリット。
サイクロン選手とは別種の恐るべきピッチャーだ。
これまで2打数無安打の自分が立ち向かえるのか不安になる。
「昇二君!! 頑張って!!!」
そんな僕の耳に応援の声がクリアに届いた。
日本代表団の声援の中でも、声の主が誰かはすぐに分かる。
メキシコ代表との特別強化試合の時に出会った桐生凛さんだ。
出場選手特権で得たチケットを受け取ってくれて、現地まで応援に来てくれた。
1年以上連絡を取り合っていて、凛さんは僕にとって大きな存在となっている。
それこそ秀治郎のおまけじゃない自分を意識させてくれる繋がりの1つだ。
だからこそ凛さんを強く思うことで自分という存在の輪郭を思い描く。
その上で、他の全てと同じように彼女のことも一旦頭の中から追い出す。
自分と目の前のマウンドに立つジャイアント選手。
今はそれを何よりも強く強く意識しようとする。
「勝負っ!!」
自分を鼓舞するように気合を込めて言い放ち、バットを構える。
極限まで集中力を高める。
兄さんのことも今は忘れよう。
今の僕達は挑戦者。
相手が消耗しないようになんて配慮は傲慢だ。
そんな資格はないし、そんな必要もない。
目の前にいるのは自分が全てを出し切って尚、届かない圧倒的な強者なのだ。
ただただ、夢中で挑まなければならない。
そうでなければ足元にも及ばないだろう。
「ストライクワンッ!!」
初球。インコース高めへのクロスファイヤー。
プレート端からの投じられた1球は傍から見ていた以上に厳しい。
175km/hが自分の体に迫ってくる。
ロシア代表選手の球よりも恐ろしく感じる。
それを今振りに行っても間違いなく引っかけて凡打に終わっていただろう。
見逃しそのものは悪い判断じゃない。
けれども、僕の超集中状態はファーストストライクまでしか維持できない。
勿論、その後も集中していない訳ではないけれども、一段以上劣ってしまう。
自覚がある。
このレベルでは、それは致命的だ。
「ストライクツーッ!!」
実際、1球目はいくらか見えていた球筋がほとんど見えなくなった。
アウトコースから入ってくるバックドアの高速スライダーだったけれども、ほんの一瞬、ジャイアント選手との呼吸が合わずにスイングすらできなかった。
これでノーボール2ストライク。
簡単に追い込まれてしまった。
また口先だけになるのか。
いや、口には出していないけれども。
それらしいことを考えていても結果を出せなければ意味がない。
奥歯を噛み締め、そこで僕は黒井選手の言葉を思い出した。
ある種の開き直り、没頭こそが無我の境地への道。
もっと余計な思考を削ぎ落さなければ、そこには至れない。
とは言え、ここに至ってまだ誰かが脳裏に浮かぶ自分にそれは困難だ。
そもそも容易に開き直れるような性格でもない。
なら、僕に今できることは……。
キャッチャーからジャイアント選手にボールが返る。
その間に目を瞑る。
見逃してしまった2球のことを頭の中から消す。
現在のカウントも忘れる。
目を開けて、次の1球だけに全てを集中する。
一球入魂。
ファーストストライクまでしか超集中状態を維持できないのなら、次の1球がこの打席の初球であるかのように思い込む。
それができれば常に超集中状態に入ることができるはずだ、
初球。
初球だ。
これが初球。
その初球を打つ。
ただ初球を――。
――カンッ!
気がつくと僕は1塁ベースの上に立っていた。
そのことに自分で驚きながら電光掲示板に視線を向ける。
映し出されたリプレイを見ると、画面の中の僕がクロスファイヤーの軌道から落ちたスプリットを窮屈なバッティングで無理矢理打っていた。
ボールが当たったのは芯ではなくバットの根元寄り。
振り切って少し詰まったのがいい方向に働いたらしく、打球はサードの頭上を越えてファウルライン上に落ちていた。
もう少しいい当たりだったらファウルゾーンに切れていたに違いない。
うまくフェアグラウンドに落ちて長打コース。
しかし、セオドア選手の捕球が早く2塁を狙うことはできなかったようだ。
「「「わああああああっ」」」
「昇二君!! やった!!」
日本代表応援団の声援の中から凛さんの声が浮かび上がるように聞こえてくる。
それで実感が湧いてきた。
目線で彼女に応じてから、ベンチの秀治郎を見る。
彼もまた、いつになく興奮して喜んでくれていた。
その姿に、僕もようやく力になることができたと思えたのだった。




