359 綱渡りの膠着
「すまん……」
ネクストバッターズサークルに向かったあーちゃんと入れ替わる形で1塁ベンチに戻ってきた大松君が、力なく肩を落としながら頭を下げる。
意気込んで打席に立ったもののバットに当てることもできず、3球でアウトと球数を稼ぐこともできなかった。そう己を恥じているのだろう。
とは言え、交代直後かつ初対戦のピッチャーにすぐさま対応するというのは、それこそ相手の立ち上がりに問題でもない限りはさすがに難しい。
ましてや相手はアメリカ代表の2番手ピッチャーだ。
彼1人がそんなにも責任を重く感じる必要はない。感じるべきではない。
とは言え、安易なフォローをするのはむしろ逆効果になってしまいそうだ。
ここは一先ず軽く流して情報収集を優先することにする。
「それよりも大松君。実際のところ、ジャイアント選手の球筋はどうだった?」
「あ、ああ……リリースポイントに違和感があって、それに戸惑っている間に追い込まれた。どことなく、サイクロン選手と似たような印象があったゼ」
「……成程」
主に初球と2球目の見逃しについてだろう。
サイドからのクロスファイヤーだったからというだけでなく、その感覚のズレの影響のせいでスイングができなかった側面もあったようだ。
ジャイアント選手もまた【ビッグ・ユニット】の効果で最大化した関節の可動域を利用し、リリースポイントを前後させていると見て間違いない。
サイクロン選手の方は主に微細な指先の感覚で実現していた様子だったが……。
いずれにしても、この調子だと絶対守護神たるモー選手も近しい技術を当然のように備えていると思っておいた方がいいのかもしれない。
「黒井選手なら、前の打席を再現できたら対応できるかな」
「……再現できたら、な」
昇二の言葉に暗にできないと返しながら、黒井選手の第2打席に視線を向ける。
勿論、集中してはいる。
ただ、1打席目のあの感じには程遠い。
無我。忘我。
それは打撃の極意とも言える境地だ。
容易く再現できないのは当然のことだろう。
「来た球を来たままに打つ、か。本当に、一体どうすればいいんだろう」
磐城君が考え込むように腕を組みながら目を閉じる。
「そういうのがまず駄目なんじゃないか?」
「ちょ、えっと、ざ、雑念を捨てないとってことだよね!」
簡潔に言い過ぎて半ば非難しているようにも聞こえてしまう正樹の指摘に、昇二が慌てたようにフォローを入れる。
そんな2人の兄弟らしい様子に幾分か気が紛れたような気持ちを抱きながら、あの打席の後で黒井選手が口にしていたことを思い出す。
「うまく開き直れたって言ってたな」
「うん。完全に無意識だった、とも言ってたね」
昇二の補足に磐城君は一層難しい表情を浮かべる。
「結局、どうすればいいか、なんて考えてる内は辿り着けないってことだね……」
結論はそこに戻ってきてしまう。
そして、その命題に過度に囚われていてはむしろ害しかないのは確かだ。
無我の境地からは遠ざかる一方だろうし、別の選択肢まで閉ざされかねない。
今は一旦、頭の中から追い出しておいた方がいい。
とは言え、そう意識すればする程、逆に考えてしまうもの。
黒井選手もまた、似たような状態に陥ってしまっているようだ。
「ストライクスリッー!!」
意識し過ぎてしまって見逃がし。3ストライク。
彼もこの場は大松君と同じく3球三振に終わってしまった。
これで2アウトランナーなし。
結局、あーちゃんは塁が全て空いた状態で打席に入ることとなった。
どうにか避けたい形だったが……。
どちらにせよ、今は彼女の【直感】に頼らざるを得ない。
「左対右。また内角に来るな」
「私だったら腰が引けちゃいそうだけど……茜、大丈夫かしら……」
「ジャイアント選手の制球力を信じて挑むしかないだろうな」
彼のコントロールであれば、意図的でない限りデッドボールコースには来ない。
意図的に当てようとしてくるような選手でもない。
どれだけ内角を厳しく突かれたとしても、相手を信じれば振りに行けるだろう。
自分のスイングができるとは言っていないけれども。
「相手を信じようと信じまいと、あのコースを無理に打ちに行こうとすると窮屈なバッティングになるだけだ」
「なら、バッターボックスの立ち位置を変える?」
「あのレベルのピッチャー相手にアウトコースの不利を作るのは話にならないな」
美海ちゃんの提案を正樹がバッサリと切る。
まあ、ジャイアント選手もその手の小細工はとっくに経験済みだろうからな。
対応策の1つや2つ、持っていてもおかしくはない。
「それに、秀治郎じゃあるまいし、バッターボックスの端から無理矢理踏み込んで打とうとすればバッティングが崩れかねない」
「いや、俺だってさすがにジャイアント選手相手じゃ難しいぞ」
変な体勢で打つのは割と慣れてはいる。
しかし、それはレギュラーシーズンでの話。
残念ながらジャイアント選手は大概の日本人選手とは比べものにならない隔絶した実力者だし、更にはリリースポイントまで惑わしてくる。
小細工で完璧に対応するのは困難としか言いようがないだろう。
「茜は、どうするつもりかしら」
あーちゃんのバッターボックスでの立ち位置はいつもと同じ。
フォームも普段通り。
インコースに投げて下さいと言わんばかりで、実際に2球連続で内角に来た。
そのスタンスとは裏腹に、彼女はそれを振らずに見送る。
3球目はプレートの右端から内角に外れるカットボール。
一瞬反応しかけたが、これも見送って1ボール2ストライク。
クロスファイヤーとは異なる軌道の内角への球。
これも厄介だ。
4球目はプレートの左端に立ち、外角低めからワンバウンドするスプリット。
あーちゃんはバットをとめて2ボール2ストライク。平行カウント。
アメリカ代表バッテリーは彼女を最大限に警戒しているようだ。
そうして5球目。
ジャイアント選手は同じくプレートの左端からクロスファイヤーを投じた。
――カキンッ!!
大きなアウトステップから狙い澄ましたようなフルスイング。
腕もうまく畳んで引っ張った打球は、しかし、3塁線切れることなくレフトへ。
上がった角度は悪くない。
後は飛距離だけだ。
「え? ……行ったっ!?」
美海ちゃんがベンチから身を乗り出して状況を確認しようとする。
「いや――」
その興奮も束の間。
打球は失速。
コンタクトした正にその瞬間から間髪容れずにボールを一直線に追いかけていたレフトのセオドア選手は、レフトポールの間際で立ちどまってしまった。
そして――。
「キャッチッ!」
「「「「「WOOOOOOOOOO!!」」」」」
フライアウトで3者凡退。
3アウトチェンジ。
地元アメリカの観客達の声援の中、アメリカ代表選手達がベンチに引き上げる。
打ち取られたあーちゃんは、眉間にしわを寄せて2塁の辺りから戻ってくる。
「一発、狙ったの?」
「2アウトだったし、どうしても追加点が欲しかったから……でも、重かった」
彼女は美海ちゃんの問いに心底悔しそうに答えると、自分の右手を睨みながら開いたり閉じたりしてから指が白くなる程強く握り締めた。
クロスファイヤーとリリースポイントの幻惑とによって己の認識と【直感】に小さな齟齬が発生し、ポイントから僅かにズレてしまったようだ。
「あーちゃん、とにかく守備につこう」
確かに狙ってもいい場面だったし、初球とかではなく5球目だった。
彼女の判断を責めることはできないだろう。
「……ん」
プロテクターの装着を手伝い、速やかにマウンドに上がる。
このやり取りも含め、あーちゃんのところでの攻守交替は2度目だ。
日本代表の3者凡退が続いていることを示唆している。
アメリカ代表の攻撃が7番から始まるのもまた2度目。
こちらもここまでどうにか3人で切り抜けてきた。
ただ、押されているのは明らかに……。
「まだ2巡目なんだ。……頼む」
思わず他力本願をしながらマウンドに向かう。
苦境にあって根本的に小市民なところが出てきてしまっている。
本当のスポーツ選手なら、きっとこうした難しい状況を何度も経験していて正面から己の力を信じてぶつかっていくのだろう。
一方で、俺はこれまで常に勝利の道筋を確保して試合に臨んできた。
ロシア代表戦ですらアメリカ代表戦を考えながら挑むだけの余地はあった。
ここまで勝ち目が乏しい戦いは当然初めてのことで……。
苦しさしか感じない。
やはり俺には野球を楽しむなんて真似はできないのだろう。
それでも好守に恵まれて、6回裏もどうにか3者凡退に抑える。
打者18人。被安打1。
数字だけを見れば正に神がかっているとしか言いようのない内容だが、その実態はか細い綱を渡っているかのようだ。
ほんの少しでもバランスを崩してしまったら、何なら息を吹きかけられたぐらいでも足を踏み外すことになるだろう。
「はあ……ふぅ……」
「しゅー君……」
精神的な疲労に苛まれ、あーちゃんに心配される中。
7回表の日本代表の攻撃に移行する。
しかし、この回も日本代表は3者凡退。
この回先頭の2番バッター、倉本さんはフルカウントから放ったハーフライナーの打球をセカンドに追いつかれてしまって1アウト。
3番の山崎選手は4球目のクロスファイヤーに手が出ず、見逃しの三振。
そして俺の3打席目もまた。
――カキンッ!!
パァンッ!!
5球目のワンシームを狙い打とうとしたが、芯を食いすぎて打球は上がらず。
強烈なライナーはショート定位置。真正面。
オリオール選手が煽るように音を鳴らして掴み取って3アウトチェンジ。
「くっ」
ショートの定位置で不敵に笑っている彼の表情が目に映り、奥歯を噛み締める。
紙一重が続く。
だが、その僅かな差を踏み越えることができない。
さながら生と死を分かつ境界線のようだ。
「秀治郎選手」
と、ベンチに戻ってきた俺に対して落山監督が声をかけてきた。
ここまで多くを語らず試合を見守っていたが――。
「何があっても自分を見失わず、どんな時も視野を広く持つように」
その口調は監督としてのものではなく、いつだったかの対談に近いものだった。
一野球選手、一年長者としての言葉に聞こえた。
「……はい」
意味は分かる。正しさも分かる。
だから頷いて答えたが、その声は何故だか空虚に響く。
そんな中で試合は7回の裏に進み……。
3巡目のアメリカ打線との戦いが始まろうとしていた。




