360 揺り戻し、あるいは順当な
当然のことながら、ものごとが常にうまくいき続けるなんてことはあり得ない。
上振れすることもあれば、下振れすることだってある。
記憶に残りやすいのは後者なので、むしろ下振ればかりな気さえするが……。
実際のところ、ほとんどのケースはそのどちらでもない。
ただただ順当に、特に波乱もなく実力通りの結果になるのが普通だ。
そうした前提を念頭に置きつつも、これまでの俺の投球内容を評価するならば。
誰がどう見ても世界最強のアメリカ代表を無失点、僅か1安打に抑えることができたのは上振れ以外の何ものでもないだろう。
勿論、俺の後ろを守る内野陣と外野陣が一定の実力を備えていたからこその話ではあるが、それを考慮しても過去類を見ない程の幸運だったのは間違いない。
とは言え、いつまでも運が味方をし続けるはずがない。
現代野球は9イニング制であり、少なくとも27個のアウトを取る必要がある。
代打を送られない限り、各バッターと最低3回対峙することになる訳だ。
同じ相手との対戦は1打席目よりも2打席目、2打席目よりも3打席目と難しくなっていく。4打席目が巡ってくれば尚更のこと。
引き出しの多い器用なピッチャーだったらその限りではないかもしれないが、基本的には対戦回数が増えれば増える程対応されやすくなる。
単純に試行回数の増加で収束してくるというのもある。
つまるところ、ピッチャーに上振れが起こる確率は回が進む毎に低くなる訳だ。
勿論、こちらが圧倒的に格上なのであれば実力で捻じ伏せればいいだけの話なのだが、今回の相手はアメリカ代表打線。
俺達の方が格下であり、挑戦者の立場だ。
更に言えば彼らの対応力はかけ値なしに世界最高であり、2巡目の段階で「ピッチャー野村秀治郎」は既にほぼ丸裸にされてしまっている。
前世はともかくとして、今生の俺は仲間にも恵まれて間違いなく運がいい部類ではあるのだろうが、上振れが最後まで続く可能性は皆無だ。
そして実際に。
この7回裏に揺り戻し、あるいは順当な結果がもたらされることになった。
アメリカ代表の攻撃は1番のキッド選手の打順からだった。
右のバッターボックスに入った3巡目の彼を前にして、俺はセオリーよりも相手にとって初見となることを優先して右手にグローブをつけた。
右バッターに対して左投げ千手観音投法。
それが功を奏したのか、変化球と緩いボール球でうまく追い込むことができた。
カウントは2ボール2ストライク。からの5球目。
――カキンッ!
プレート左端からアンダースローでインコースへ。
クロスファイヤーの軌道で、地面スレスレのボールゾーンから低めいっぱいに浮き上がってくるライズボール。
それをキッド選手はダウンスイングで引っ張った。
普通だったらファウルにしかならないような厳しいコースにもかかわらず。
キッド選手の凄まじいバットコントロールによって、打球はフェアグラウンドに転がる強烈なゴロとなって三遊間を強襲した。
一瞬でも遅れていたら確実に間を抜けていたはずだ。
しかし、昇二は咄嗟に飛びついてグローブの先でどうにか捕球した。
打球が少しばかり3塁寄りだったのが幸いしたようだ。
当然、プレイはそこで終わらない。
彼は即座に立ち上がると、ピッチャーとして投げれば170km/hも出すことができる強肩を以って1塁の正樹へと送球した。
あの打球に対しては、これ以上ない最短のスローイングだった。
――パァンッ!
目いっぱい伸ばされた正樹のファーストミットがボールを掴み取る。
キッド選手が1塁ベースを駆け抜ける。
見た目にはほぼ同時。
ギリギリのタイミングだったが――。
「ヒズアウッ!!」
間一髪。どうにかアウトにすることができた。
5回裏のダブルプレーに続いて、再び昇二に助けられた。
ジェスチャーで感謝の意を示すと、彼もまた笑顔で応じる。
打者19人。後8つアウトを取れば終わる。
……ここまでは間違いなく上振れしていた。
後から振り返ってもそう断言できるだろう。
そして、ここからは正に順当な結果だった。
場面は1アウトランナーなしとなり、バッターボックスには2番バッター【打撃の神様】セオドア・サンパー選手が入る。
左のバッターボックスに立って悠然と構えた彼に対し、俺は少しでも目くらましとなるように今度は左手にグローブをつけ替えた。
ワインドアップから初球。
プレート右端に立ち、右から左へのクロスファイヤー。
アンダースローからのカットボールをインハイに投じる。
「ストライクワンッ!!」
対してセオドア選手はファーストストライクを見送った。
だが、その表情にはどこか余裕が見て取れた。
続いて2球目。
プレート左端から低めの外に逃げていく球。
スリークォーターからのシュート。
「ボールッ!!」
セオドア選手はピクリとも動かず、これも見送り。
あーちゃんからボールが返ってくる。
ここでセオドア選手は構えを調整し、バットに少し力を込めた。
明らかに打ち気になった。
そう判断して、もう1球外しておく。
「ボールッ!!」
オーバースローからの縦のスライダー。
インコースのボールゾーンに落ちてワンバウンドするボール球を前に、セオドア選手は早々に軌道を見極めたかのように構えを解いた。
カウントは2ボール1ストライク。
4球目。全てはここからだった。
俺はアウトコースのボールゾーンから低めいっぱいに落ちながら僅かに入ってくるパワーカーブをアンダースローで投じた。
速度、変化、キレ。どれを取っても申し分ない変化球だった。
しかし……。
――カキンッ!!!
セオドア選手は一歩踏み込むと、それをすくい上げるようにして流し打った。
打球方向。打球角度。打球速度。スピン。
ファウルになる可能性も、失速する可能性もない。
打った瞬間に分からせられてしまった。
レフトの大松君が追いかけるが、その足は既に重たい。
彼も理解しているのだろう。
たとえフェンスを登ったところで、あの打球には届くはずもないことを。
「「「「「「「「WOOOOOOOOOOO!!!!」」」」」」」」
アメリカ人の観客もまた確信し、フェンスを越える前に総立ちになっていた。
今日一の歓声が沸き起こる。
バンクノート・パークが揺れる。
やがてスタンド中段の誰かが打球をキャッチし、もはや絶叫のようになる。
それは彼らが抱いていたフラストレーションの表れでもあるだろう。
当然だ。
追いかける展開など、当代のアメリカ代表では初めてのことだったのだから。
ただ、日本代表応援団はその声の大きさに圧倒され、静まり返ってしまった。
やがてセオドア選手がダイヤモンドを一周し、ホームベースを踏む。
ソロホームランが成立し、更に歓声は続く。
一気に球場のムードが変わった。
アメリカ代表のスコアボードに1が刻まれて1-1。
遂に同点に追いつかれてしまった。
守備のよし悪しなどスタンドの奥に叩き込んでしまえば関係ない。
どうにか好守で凌いできた俺達に対する皮肉のように感じられた。
「ふうううっ」
それでも深く息を吐き出し、気持ちを無理矢理切り替える。
1点取られたものの、まだ同点だ。
頭のどこかで空しいフォローでしかないと思いながらも、自分を騙すように心の中でそう何度も繰り返し言い聞かせて顔を上げる。
新しいボールを受け取り、左打席に入った3番のビスケット選手と向かい合う。
セオドア選手に1発を打たれてしまったものの、この場は右投げを継続。
その初球。アンダースローからインコース高めに食い込む高速スライダー。
――カキンッ!!
それをビスケット選手は腕を畳んだダウンスイングで叩いた。
ライナー性の打球は鋭く低い弾道でファーストの頭上へ。
それでもタイミングよくジャンプした正樹よりも高く、ファーストミットのほんの少し上を通過していく。
そして、そのまま1塁線切れることなくファウルライン上に落ちてからスピンの影響でファウルゾーンの側面のフェンスにぶつかって跳ね返った。
かと思えばライトフェンスにも当たって更に軌道を変える。
その恐ろしい程の打球速度は2度壁に衝突して尚ある程度維持され、打球処理に向かっていたライトの黒井選手の脇を抜けて内野近くまで返ってくる程だった。
クッションボールにセンターの山崎選手が追いついた時には、ビスケット選手は既に2塁に到達していたが……。
ある意味、打球速度が速過ぎたおかげで2ベースヒットに留まった形だった。
いずれにしても1アウトランナー2塁。
得点圏にランナーを置いて打順は4番。
【野球の神様】バンビーノ・G・ビート選手が左のバッターボックスに入る。
嫌な場面で最も嫌なバッターに巡ってきた。
これこそ上振れの揺り戻しか。
アメリカの立場からすると大事な場面で機会が訪れる彼は正にスターだろう。
「「「「「「「「WOOOOOOOOOOO!!!!」」」」」」」」
期待が歓声となってバンクノート・パークを包み込む。
打席の中から俺を見るバンビーノ選手は不敵な笑みを浮かべている。
このシチュエーションに昂揚しているようだ。
彼はバットを構えるとスッと目を細める。
表情が抜け落ちる。
その瞬間、重圧が増したような気がした。
「くっ」
怖いと思った。
どこにどんな球を投げても打たれる。
そんな感覚に襲われ、体が硬直しそうになる。
【以心伝心】で伝わってしまったらしく、あーちゃんが腰を浮きかける。
俺は首を振ってそれを留め、セットポジションに入った。
そうしながらも、敬遠すべきじゃないかという考えが頭を過ぎる。
ネクストバッターズサークルに視線をやる。
5番のハンマー選手が俺を見据えていた。瞬き1つなく。
1アウトランナー1塁2塁で彼を迎えるのか。
バンビーノ選手から逃げた状態で。
確かに塁は埋まる。
敬遠は戦術の1つだ。
とは言え、この選び方は精神的な敗北以外の何ものでもない。
そんな状態で3巡目の後続を抑えることができるとはとても思えない。
落山監督が敬遠を申告しないのも、それ故だろう。
……挑むしかない。
世界最高の野球選手に。
前世のレジェンドの中でも一際偉大な魂を持つ存在に。
そうして選んだ初球。
右のオーバースローからアウトコース低めへのスプリット。
見逃せばボールとなる球。
しかし、バンビーノ選手はそれを膝を突きながら片手ですくい上げた。
――カキンッ!!!
過剰な集中が裏目に出たか。
一瞬そう思いながら振り返り、己の間違いを悟る。
崩れたようにしか見えなかったバッティング。
にもかかわらず、打球はグングンと伸びていき……。
山崎選手の頭上を越えて、フェンスの向こう側へと飛び込んだのだった。




